密やかな介抱
「今聖女って聞こえなかったか!?」とローヴァルを取り囲んでいた男たちがざわざわし出したので、逃げるように馬車に乗り込んで慌ただしくその場を離れる。
車内はしんと静まっている。向かいの座席にはローヴァルを寝かせており、依然として意識の戻らないその様子をぼんやりと見遣る。
さっきまであんなに夢見心地で楽しかったのに、今馬車の中を満たしているのは打って変わって重苦しいばかりの空気だ。馬車の歩みもより遅く感じる。のろのろ進む馬車にローヴァルの容態、先ほどの言い訳なんかが頭の中をぐるぐると回って、私は耐えきれなくなった。
「ごめんなさい」
振り絞った声は思いのほか震えていて、そんなずるさに自分が嫌になる。
「本当は、怪我人は助けなきゃなんて、そんな立派な理由だけじゃないんです」
隣のリングロッドさんからは返事はない。それをいいことに捲し立てるようにぶち撒けた。
「この人のこと助けたらみんなが隠してること教えてもらえないかなって、そう思ったんです。みんななにか私に隠しているから、私にはわからないことばかりだから、少しでも知りたくて……リングロッドさんたちに迷惑をかけるのに。そうわかってるのに、私はローヴァルを助けることを優先しました」
「聖女様」
まるで吐き出すように並べ立てた言葉を、リングロッドさんの静かな声が遮った。
「聖女様は、正直な方ですね」
凪いだその声に、怒りや失望といった感情はない。そのことに、不覚にも泣きそうになった。
「あなたはいつも真っ直ぐに向かってくる……」
それ以上リングロッドさんはなにを言うこともなく、静寂と夜の闇の中をひたすら馬車は進んでいった。
大聖堂に到着すると、待ち構えていたカラ・ハドさんが辺りを伺いながら私たちを急かす。
「無駄かもしれませんが、できるだけ誰にも見られたくない。さぁ、急いで!」
いつもの正面扉ではなく大聖堂の側面に回ると、広大な芝生の中庭を挟んだ向こうにレンガ造りの平屋のような建物が幾つも連なっている。
カラ・ハドさんはそのうちの一つの古びた木の扉から中へと入った。扉の先にはきらびやかな大聖堂に付随していると思えないような、粗末な小部屋へと続いている。部屋に唯一あるボロボロのベッドへリングロッドさんがローヴァルを降ろすのを見届けると、私は立ち尽くすカラ・ハドさんを見上げた。
「カラ・ハドさん? お医者さんはどちらに?」
いつも飄々として小気味良い冗談を交えてくるカラ・ハドさんだが、険しい表情を崩さない。
「カラ・ハドさん?」
「聖女様、残念ながら医師は来ません」
カラ・ハドさんは痛ましいものを見るような目をした。
「それどころか誰に声をかけたところで、この大聖堂内にいる者は誰も彼を助けようとはしないでしょう」
「え、なんで……」
追い縋るように聞き返しても、カラ・ハドさんは首を横に振るばかりで答えようとしない。
苛立ちばかりが募っていく。……カラ・ハドさんに当たってもしょうがない。今はローヴァルの手当てが先だ。
「それじゃあせめて、お湯と清潔な布地だけでも持ってきていただけませんか」
「それは……」
「私が用意してきましょう」
言い淀んだカラ・ハドさんの代わりに、リングロッドさんが静かに言った。
「まさか、聖女様自ら手当てなさるつもりですか?」
「誰もできないなら、そうするしかないでしょう」
どうしたらいいのかなんてわかるわけがない。
私はきっと医者じゃなかったし、なんなら医療従事者でもなかった。でも自分が連れてくると決めたのだから、自分が責任を持って最後まで面倒を見るしかない。
「ああ……なんてことだ。まさか……」
「カラ、もう下がれ」
リングロッドさんが茫然としたカラ・ハドさんを連れて退出していく。
部屋には意識のないローヴァルと二人きり。辺りを静寂が包み込む。
こんなときなのに、しっかりしなくてはならないのに、さっきから不思議と泣きたくてしょうがない。
いつも素っ気なくて私を避けてさえいるようだったリングロッドさん。
こんな事態を引き起こしてしまって、あのカラ・ハドさんにすら拒否されたのに。まさかそのリングロッドさんだけが私を助けてくれようとしている。
……リングロッドさんがいてくれて、どんなに救われているか。
できることはしておこうと、ローヴァルの衣服を四苦八苦しながら剥いでいると、桶を抱えたリングロッドさんが戻ってきた。
「……聖女様、一体なにを」
「服の下にも傷がないか確認していました。あとこれ汚いし」
床に投げ捨てた衣服を見て、リングロッドさんも顔を顰める。
すえた匂いを放つ服は、ローヴァルがどんな環境で生活しているかを如実に思わせて、なんとも言えない気持ちになる。
「私がします」
そう言って下がるよう促してきたリングロッドさんに、首を振る。
「……リングロッドさんも出ていってください」
「……なにを」
「私は無知だからこのことがどんな事態を引き起こすのか知りません。だけどリングロッドさんはわかってるんですよね? きっと大変な迷惑をかけるんですよね? ……なら、私一人でします」
奪い取ろうとした布をさっと引っ込められる。
「私の背後にはアルフィディル主席枢機卿がついています。尻拭いは全てあの狸爺に押し付けますのでどうぞご心配なく。いつも厄介事ばかり押し付けてくる腹いせです、たまにはこちらから押し付けたっていいでしょう」
「狸爺って……」
「裸に剥きます。聖女様はご覧になられませんよう」
遠慮の欠片もなく最後の下着を剥いだリングロッドさんに、思わずギャッと悲鳴が出た。そのまま彼は実に手際よく体を拭いていく。
お湯が冷めて黒くなっても、ローヴァルの体の汚れは落ち切らない。布がボロボロになるまでリングロッドさんは何度もゴシゴシと拭き上げて、それが終わるとなにかの軟膏を取り出して傷口に当たるように布につけながら、丁寧に巻いていった。
「それは?」
「傷薬の軟膏です」
その手際の良さに感心する。きっとこういった経験があるのだろう。
リングロッドさんがいてくれて本当によかった。
「リングロッドさん、本当にありがとう……」
「いえ、気休め程度にしかなりませんが。さて」
未だ意識の戻らないローヴァルから視線を上げながら、リングロッドさんは立ち上がった。
「訪問者ですね。恐らく……」
その言葉と同時にそっと扉が開かれた。扉の向こうに姿を現したのは、心配そうな顔を隠しもしないカラ・ハドさんと、それからティリオロ大司教。
「これはこれは、ご無事のお戻りなによりです、聖女様」
まるでローヴァルなんて端からいないもののように一瞥もくれることなく、いつもの穏やかな笑顔を浮かべながらティリオロ大司教は恭しく頭を下げてきた。
「随分と遅いお戻りで心配いたしました。さぁ、お疲れでしょう。お茶をご用意していますよ」
「……ありがとうございます。でも今はいいかな。ちょっと飽きました、あのお茶。ほかに緑茶とかないんですか?」
「リョクチャ?」
ティリオロ大司教ははて、と言いたげに首を傾げてきた。
――今あのお茶を飲むとまずい。
最近ようやくわかってきたのだが、あれを飲むと心が穏やかになるというよりも、思考が落ちてただのバカになる。もう難しいことは考えられなくなって、なにもかもどうでもよくなってしまう。
恐らく私がバカになっているその間にローヴァルを処分して、何事もなかったことにしてしまうつもりなのだろう。
首を振る私に、ティリオロ大司教は心底心配しているとでも言いたげな声を出した。
「聖女様、こんなところで聖騎士と二人きりになるのはあまりよろしくないことですよ。カラ・ハドまで遠ざけて一人の聖騎士を贔屓にして、他の聖騎士が知ったら悲しみましょう。さ、早くお部屋へ」
この頑なにローヴァルを無視する感じは一体なんなんだろうか。怒るでもなく責めるでもなく、かといって受け入れている風でもない。
だが、それを考えている間にもずいと顔を近づけられて、目を覗き込まれた。
精一杯に見開かれた目からの圧が凄い。なにがなんでも目を合わせてやるぞという執念を感じる。いっそ瞳孔が開ききってるんじゃないかってほどに見開かれた目は強烈にぎらついていて、私はいつかに感じた底知れなさを思い出した。
「聖女様は悪い御子でいらっしゃる」
ティリオロ大司教はぞっとするような暗い声で、リングロッドさんに聞こえないように囁いてきた。
「今代の聖女様は自我が強くて困ったものだ……おかげで余計なことばかりに首を突っ込んでしまう。ああ、全ては私の力が及ばぬせいなのか。後悔してもしきれない……せめて今一度、我が力の全てをもって枷を課そう。女神テルメンディルよ、どうかお赦しを……」
「ちょ、ちょっと流石に気色悪いんで、その囁き声止めてください」
咄嗟に目を逸した私に、ティリオロ大司教が逃さないとでもいうように両頬を挟むように触れてくる。
「お止めください」
見兼ねたリングロッドさんが止めに入ろうとするが、ティリオロ大司教はそれを視線で牽制した。
「……出来損ないのアルフィディルか。気骨だけはある奴だと目をかけてやっていたのに、こんなにもたやすく聖女に唆されおって」
「! リングロッドさんは関係ないでしょう!?」
「私のことはどうでもいいが、大司教、とにかく聖女様に乱暴に触れるような真似はお止めください」
大司教がぎりぎりと歯噛みしながら、止めに入ろうとするリングロッドさんを睨み付ける。乱れた白髪が額に落ちると、聖職者然とした潔白さは薄れ、ひやりと薄暗い雰囲気を纏う。
リングロッドさんはその瞳を受けて急に動きがぎこちなくなった。
「その、手を……」
仄暗い力を纏った瞳が間近に迫る。鼻と鼻がくっつきそうな距離に肌が粟立った。顎に指が食い込んできて潰されそうなほど痛い。
ちょっと! これ! 絶対聖女様に対する態度じゃないよね!?
「ちょっ、パーソナル・スペースって言葉知ってます? 個人領域侵してますよ!」
身を捩って力いっぱいに振り切ろうと抵抗する。
リングロッドさんに迷惑はかけられない! と自制していたこともどこかにふっ飛んで、必死に彼に向かって手を伸ばしていた。
「リングロッドさん!」
「聖女、様……!」
「我が聖女様に救いを!」
リングロッドさんがなんとかティリオロ大司教を掴もうとしたとき、前触れもなく突然激しい頭痛に襲われた。思わず叫び声を上げる。のたうち回りたいほどの激痛だ。
「うぁ……!」
全力で抵抗しているのに、ティリオロ大司教はびくともしない。目が飛び出るんじゃないかってくらいかっぴらいて、瞬きもせずに痛みに喚く私を見つめている。
「うぐ、ぐ、ぐぅ……! い、いだ……!」
呼吸は乱れ涙も鼻水も止まらない。眼球が揺れ、目の前がぼやけてくる。
なにもかもぼんやりと霞んでいく。ローヴァルも、今日一日の出来事も、リングロッドさんの悪戯っぽいあの笑みも。頭の中がぐちゃぐちゃに握り締められて、なにもかもがくしゃくしゃに丸められていく。
全身に力が入らなくなり、体がだらりと弛緩した。崩れ落ちる体を誰かが受け止めてくれる。
「もう止めろ! 苦しんでいるのがわからないのか……!」
誰かの焦った声が聞こえる。
いつもどうでもいいと醒めた感じなのに、今日は随分と優しい。今日は本当に……本当に、なに? 私を支えているこの手は……リングロッドさん?
「リングロッド、さん?」
ぼやけた視界の向こうに淡い青がキラキラと輝いている。その光に手を伸ばすと、さらりとした柔らかいものに触れた。
「その辺で止めておけ、ティリオロ大司教」
唐突に少し高めの伸びやかな声が聞こえ、それと同時にくちゃくちゃに締め付けられていた思考が急激に引き伸ばされた。脳味噌を弄くられたような気持ち悪さに吐き気を覚えて思わずえづくと、大きな手が背中をそっと擦ってくれる。乱れる呼吸を整えながら、ほつれた髪の隙間から声のする方を見上げる。
いつの間にか目深に被ったフードの人物が二人いた。そのうちの背の低い方がフードを下ろして顔を出す。
「貴公が敬虔なテルメディア教徒であることは充分に承知しているが、あまりやり過ぎると聖女が壊れるぞ」
「……猊下」
蹲ったまま呆然としていると、そっと肩を抱き起こされた。
そこにいたのは教皇、ファラウンドだった。




