03
どうして現実と記憶に食い違いが起きてしまったのだろう。
顔の見えない友達、空白の時間。不可解な出来事ばかり襲いかかってくる。
あたしは周囲に起こり始めた異変をルーチェのせいにしていた。でも……それは違うのかもしれない。
異変と感じていたことは、あたし自身がおかしくなっていただけなのかもしれない。金色の髪への恐怖も単なるコンプレックス。洸太の赤い瞳も、夕焼けに染まっただけ。洸太と連絡が取れないのも、寝込んでいるから。
簡単に説明がつくことなのに、それを非現実な出来事として、ルーチェのせいにしていた。
あたしは夢に囚われすぎていたのだ。
夢の中の男性に似た姿の神志那先生に出会ってしまったことで、あたしは夢の世界にのめり込み過ぎてしまった。非現実な世界、そして黒い翼の男性を求めるあまり、現実の些細な変化を異変として捉えた。だけど、僅かに残っていた理性が、異変を夢に繋げようとする異常な状況に恐怖し、あたしを取り乱させた。
あたしは夢に囚われすぎて、おかしくなってしまったんだ……。
「シオン先生。ここは、どんな風にしたらいいですか?」
唐突に聞こえてくる、澄んだルーチェの声。
気が付けば、あたしは立てられたイーゼルの前に座っていた。イーゼルには、何も描かれていない真っ白なスケッチブックが立て掛けられている。その向こうにはプラスチックでできた果物の置物。囁くほどの大きさの話し声、様々な種類の絵の具の匂い。どうやら、部活中の美術室のようだ。
また、できてしまった空白の時間。だけど不思議と驚きはなかった。自分がおかしくなったのだと認識すると、自然とそれを受け入れることができていた。
……だけど、ルーチェが神志那先生に話しかけたり、さりげなく触れる場面を目にすると、胸の奥は痛みを訴えてくる。
「…………」
はっきりと顔の見えている二人から視線を逸らし、モチーフの方に移す。そして、いつものように隣に座る結衣の姿を見る。二人の顔が認識できたことで、僅かな期待はあった。しかし、彼女の顔はやっぱり霞んだままだった。
この場所でも顔が認識できる人とできない人が混在している。認識できる人は少ない。その中にルーチェは金色の髪に青い瞳を輝かせ存在している。そして、神志那先生もいつもと変わらない姿でいる。
神志那先生を認識することのできる現実は、あたしに少しだけ安堵を与えた。
だからといって、あたしの握る鉛筆が心地よい音をたてスケッチブックの上を走るわけではない。いつもと何も変わらない。自分の身に降りかかる異変以外は、いたって普段通りの部活時間が流れている。
「――きゃっ」
静かな美術室に女生徒の短い悲鳴が聞こえたかと思うと、プラスチックの筆洗が床に落ちる固い音と共にパシャンと水の散らばる音が響いた。
「あっ! 先生、ごめんなさいっ!」
そして、悲鳴の主が慌てたように謝罪の言葉を繰り返す。
「あー。気にするな。これくらい、すぐに洗えば落ちるから」
「で、でも……先生の服、白いから……」
「大丈夫だよ。気にしなくていいから」
美術室の一角がざわつく。自分のしたことに責任を感じているのか、女生徒の声が涙ぐんでいく。
なかなか治まらない事態に、あたしはようやく騒ぎの起こっている方に顔を向けた。
女生徒が顔に手をあて肩を震わせている。彼女の表情は霞んで見えない。涙ぐんだ声が聞こえてこなければ、あたしには彼女が泣いているのか笑っているのか判断できなかっただろう。
「本当に、大丈夫だよ。そこまで気に病むようなことじゃないから」
「ごめんなさい……先生……」
しつこいぐらいに謝罪を繰り返す女生徒の目線に合わせ腰を屈める神志那先生は、優しく慰めの言葉を同じように繰り返している。そして、その言葉が効いてきたのか、女生徒の声は落ち着きを取り戻していた。
「よし。それじゃ、ちょっと洗濯に行ってくるから、皆は大人しく部活をしてるんだぞ」
ようやく場が沈静化したことで、神志那先生は女生徒から離れ歩き出した。
「――――っ!!」
その姿を目にした瞬間、あたしの心臓が強く握り締められたように萎縮する。そして、萎縮が治まると今度はこれでもかというほどに強く脈打ち始める。
「あっ……あぁ…………」
呼吸が上手くできない。
苦しく痛む胸を押さえつけ、必死に神志那先生から視線を逸らそうとする。だけど、それができない。あたしの両目は神志那先生を捉えて離さない。
ガタンと座っていた椅子を薙ぎ倒し、身体ごと逃げようとする。しかし、それさえもできない。あたしの身体は立ち上がったまま、その場に縛り付けられたみたいに動かない。
「……あぁ…………いや……」
神志那先生の白い服は赤く汚れていた。
まるで、そこに一筋の太刀が通ったかのごとく。
じわりと白い服に広がる赤い染み。それが今朝の夢と重なっていく。
夢だと理解はしている。神志那先生は黒い翼の男性ではない。必死に否定の言葉を頭の中で連呼する。
だけど、何かが訴えてくる。
あれは夢ではない、と――
――甦る。横たわり血を流す姿に、恐怖し絶望した感情。胸のずっと奥にあった感情が沸き上がり、激情となって甦る――
「いやああぁぁぁぁーーっ!!」
空気を振るわすほどの悲鳴。それは獣の咆哮のようでもあった。
――いやだ。
耳許でガラスが割れていく嫌な音が聞こえる。パリパリと不快な音を響かせている。
――思い出したくない。
音を遮ろうと耳を手で塞ぐが、その音が消えることはない。どんどん近く、大きくなっていく。そして、あたしの不安はさらに大きくなり、恐怖が支配する。
「――いやああぁっ! シオン、死なないでっ!!」
…………シオン……? 誰? 神志那先生じゃないの……?
自分の口走った名なのに、誰のことか判断できない。得たいのしれない恐怖に囚われ、あたしは取り乱し、誰ともしらぬ名を叫び、悲鳴を上げ続けるだけ。
「――――ミヤッ!」
神志那先生があたしの名前を呼んで、駆け寄ってくる。暴れるあたしの腕を掴み、自分の胸へと引き寄せ、強く抱き締める。
「ミヤ、落ち着け。私を見ろ」
温かく大きな手が頬を覆い、暴れる視線を押さえる。光ある黒い瞳があたしの目を見据える。
「大丈夫だ、ミヤ。私は死んでいない。生きている」
「…………い……きて……る?」
頬に触れていた手が離れ、再び強くあたしの身体を抱き締める。
「ああ。……だから、心を乱すな、ミヤ。私は生きているから」
何度もあたしの名前を呼ぶ低く懐かしい声。
ドクン、ドクンと耳に届く生きている音。命を証明する力強い鼓動。
神志那先生の胸に抱かれ、温もりを全身で感じる。そして、強い感情の波はしだいに退いていく。
だけど、鳴り止まない……。ガラスが割れていく不快な音が……。
――――クスクス。
少女の笑い声が、鈴の音のように教室に響く。
その刹那、視界がグニャリと歪む。違う……空間が歪んでいる。顔が霞んでいた人を取り込むように、空間が歪んでいく。側に居た結衣の身体も歪み、絵の具を混ぜたみたいに世界と混じりあっていく。
だけど、顔が認識できていた人は変わらない。一様に顔を引きつらせ、怯えた表情で混ざり合う世界を見ている。
ただ一人、ルーチェだけを除いて。
「――クスクス」
ルーチェはお人形のように微笑む。
「やはり、貴女が“鍵”だったのですね」
「……かぎ?」
ルーチェは答えない。ただ薄く冷たい笑みをあたしに向けるだけ。
いつの間にか世界からあたしたちの三人以外の姿が消えていた。そして、色の混ざりあった世界が、本来の色を取り戻し始めている。
――赤、蒼、黒と、色と共に本来の姿を現し始める。
「ようやく、偽りの世界は壊れた――」
ルーチェが高らかに言う。強い感情を出し、天を仰ぐルーチェの背中には真っ白な翼がある。
「…………ルフト……」
以前耳にした言葉が、自然と口を衝いて出る。
「……ミヤ。すまない……」
あたしを抱き締める神志那先生が、苦しそうに呟く。そして、先生の背には夢で見た物と同じ黒い翼があった。
――ああ、思い出した。
あれは夢なんかじゃない。あれは記憶だ。あたしの本当の記憶。
夢だったのは、こっちの世界。
恐ろしい現実から逃れる為に創り上げた、幸せの世界。
……あたしは、獣――……。
そして、一際大きな破砕音と共に、この夢の世界は完全に壊れた。




