02
「…………」
一階に下りたあたしは、茫然とその光景を眺めていた。
食卓には、いつものようにあたしの分だけの朝食が用意されている。母もいつものように椅子に座り、湯飲み片手にテレビを観ている。そして、朝早くに出掛ける父の姿はもちろん無い。
いつもと変わらない朝の光景。
だけど、それは有り得ない。だって、あたしはいつもより一時間近く早く、部屋から出てきたのだから。
自分の部屋の時計が狂っている? そう思い、壁にかかる時計に目をやる。部屋で見た時間と変わらない時を時計は示している。
「……ねえ、母さん。父さんは?」
なぜだか不安になって、尋ねてしまう。すると母は少し虚ろな目であたしを見て、煩わしそうに言う。
「……はぁ? あんた、何、言ってんの? この家に父さんが居たことなんてないでしょ」
「…………えっ……?」
母の言っている意味が分からなかった。
この家に父親がいない?
そんなはずはない。だって、小さい頃は一緒に遊んでもらった。結衣や洸太と危ない場所で遊んだ時、父親たちが一丸となって、あたしたちのことを叱ってくれた。最近は会話も減ってしまったけど、親子関係が悪いというわけではない。
父さんはあたしのことをずっと見守ってくれている。
それなのに、父が居ないってどういうこと?
「…………あ……れ?」
思い出せない……。父の顔が……。
十六年間、一緒に暮らしてきたはずの父の顔が思い出せない。昨夜だって、普通に食卓を囲んでいたはず。だけど、その風景が思い浮かんでこない。
頭を抱え込み、記憶にある様々な男性の姿を思い返してみる。だけど、そのなかに父の姿が思い浮かんでこない。
「……えっ……。なんで……なんで、思い出せないの」
姿だけでなく、声さえも思い出せない。昨夜も寝る前に「おやすみ」くらいの挨拶は交わしていたはず。それなのに、何も思い出せない。
「なんで……」
「あんた、何ブツブツ言ってんの」
母が苛ついたように声を荒らげる。何かと小言の多い母だが、その口調がいつもと違う気がする。
「あんた、ずっとそこに立ってるつもりなの? いい加減、鬱陶しいんだけど。用がないなら、どっか行って」
母は苛立ちを感情的にぶつけてくる。ここまで露骨に感情を露にする母に驚くが、それ以上の驚きが鼻を掠める。
「……か、母さん。お酒、飲んでるの……?」
声を荒らげる母の呼気から、微かにアルコールの匂いが漂ってくる。
「うっさいわね。あんたには関係ないでしょ」
乱暴に言い放つと、母は湯飲みの中身を一気に呷った。部屋に満ちるアルコールの匂いが強まり、吐き気がする。
あたしはそこに立っているのも辛くなり、朝食もとらずに二階の部屋に駆け上がった。
乱暴にドアを閉め、ドアを背にし何度も深呼吸を繰り返す。しばらくして呼吸と共に吐き気も落ち着いてくるが、頭は混乱したままだった。
あたしは枕元に放り投げたままになっている携帯に手を伸ばし、すがるように中身を確認する。
「――うそっ……。どういうこと?」
携帯の中には、今までに写した写メなどが残っているはずだった。家族で撮った物、結衣たちと撮った物。古い物から新しい物まで、たくさんの思い出がデータとして残っているはず……。
しかし、手に握る小さな機械の中には、あたしの思い出は何一つ残っていなかった。
データが消えてしまったのかと、電話帳なども確認してみる。それを目にしたあたしは、さらなる不安に襲われてしまう。
「…………」
電話帳は消えることなく綺麗に残っていた。だけど、そこに並ぶ数字と文字に違和感を覚えたのだ。
ずらりと並んだ数字の羅列が、ちゃんとした番号なのか分からない。そして、そこに記された名前と、記憶にある人物の姿とが上手く重なり合わない。
なかには、はっきりと分かる人も居る。それでも、大半がぼんやりとして思い浮かんでこない。
茫然と手にした携帯を見つめていると、ピシリッと耳鳴りのようにガラスがひび割れる音が聞こえてくる。
今までと比べ、近く大きくなった音に身体が小さく跳ねる。
不安が大きくなっていく。あたしは再び携帯を放り投げると、床にへたりこみ踞った。
あたしは、おかしくなってしまったのだろうか……。
家族として暮らしていたと思っていた父はおらず、酒が飲めないと思っていた母は、朝から酒を飲んでいる。
友達と一緒に写真を撮ったと思っていたのに、そんな物もない。連絡を交換しているはずの友人も、本当は居ない?
今までの記憶は、あたしの思い込みだったの?
あたしの家族は壊れかかっている、あたしに友達は居ない? 結衣も、洸太も幻?
孤独を紛れらわすために、強く思い込んでいただけなの?
――分からない。何も分からない。
あたしは、これ以上何かを考える事を拒否した。
「――……夜、美夜」
肩が揺らされ、聞き慣れた声に名を呼ばれる。
自分の部屋で聞こえてくるはずのない声に、ハッと顔を上げる。そこには、ここに居るはずのない結衣の姿があった。
「……えっ? 結衣? 何で、あたしの部屋に居るの?」
すると結衣は眉間にシワを寄せ、あたしの額に手を当てた。
「ちょっと、美夜。何、言ってるの? いつから教室が美夜の部屋になったのよ。……もしかして、熱でもあるの?」
「……えっ、……教室……?」
そう言われて気づく。自分が床ではなく机に向かって座っていることに。
額に当てられた華奢な手を気にすることなく、あたしは身体全体を使って周囲を見渡してみた。規則正しく並んだ同じ机。正面には教卓に黒板。そして、制服に身を包んだクラスメイトたち。あたしが着ていたパジャマも、当たり前のように制服に変わっている。
でも、あたしはまだ家を出てはいないはず。着替えることもせず、床の上に踞っていた。
……だけど、ここは間違いなく学校だ。
これはルーチェに腕を引かれ、気が付いたら美術室に居た時の出来事に似ている。
でも、今の時間はお昼過ぎ。もう、六時間近く時間が経っている。 あの日の出来事は、一瞬で場面が変わったような感覚だった。やはり、無意識に着替え通学し、授業を受けていたのだろうか。
「ねえ、美夜。本当にどうしたの? ずっと、ぼんやりとしてるけど……。やっぱり具合でも悪いの?」
ぼんやりとしている……。
目の前に居る結衣の姿が……。
さっきまで表情が見えていたのに、今は結衣の顔がはっきりと見えない。まるで、霞がかったみたいに、顔だけが見えない。
教室内を見渡せば、同じように表情が見えない人が何人も居る。目が霞んでいる訳じゃない。だって、表情が見えない人と見える人が、隣り合って普通に談笑しているのだから。
見える見えないの違いが、どこにあるのか分からない。ただ、クラスメイトの大半の顔がぼんやりとしている。そして、今朝、携帯の電話帳を見た時と似たような不安が広がる。
「ねえ、結衣。……洸太から連絡あった?」
表情の見えない結衣に、おそるおそる尋ねてみる。
「洸くん? わたしには連絡ないよ。今日も来てないけど、本当にどうしちゃったんだろうね。二日も休むなんて、珍しいよね」
「……そうだよね。ホント、珍しいよね。連絡くらい、寄越せって話だよね」
「本当だよ。こっちがどれだけ心配してるか何て、全然考えてないよね」
どうにか、首を横に振る仕草だけは確認できた。そして、口調などから心配をしている様子は見てとれる。だけど、表情が見えないというだけで、その言葉が本当の気持ちなのか判断することができず、不安な気持ちになる。
結衣は洸太のことで、これ以上あたしが心配になり過ぎないように、明るい口調で話しかけてくる。そんな普段通りの結衣の優しさを感じながらも、表情の見えない結衣らしき人物に、ぎこちない笑顔を返すしかできなかった。