6-5 空から降る百万の魔族
「義息子よ。しばらくぶりだ」
「……貴方は、誰でして??」
昏睡状態を一時中断し、俺は周囲が暗い空間に突っ立っていた。
まず認識できたのは、目前の赤い椅子に顎髭を生やした男性が座っている事である。暗い空間にありながら、椅子の周囲だけはスポットライトで照らされているから分かる。
男性の長い顎髭は整えられていた。先端にいく程細くなっており、ダンディな装いと合わせてとても似合っている。一般人ではそうそう真似できない。
顎髭の男の顔に見覚えは、ない。完全に初対面だ。
「義息子よ。火星の暮らしはどうであった。目的はまだ果たせておらんようだが」
先程から、顎髭の男は椅子に座ったまま俺を見ながら義息子と言っている。が、俺の父親はもっと平凡な顔付きの人だった。平凡なドームの二等市民らしく、痩せていた。
一方で、顎髭の男は体格に恵まれている。下品にならない程度に筋肉質だ。
また、四十代後半から五十代半ばに見える顔は、精神的に正しく大人になった男性の渋みが存在する。黒の燕尾服をさも当然に着こなせるところにもポイントだ。
やはり、顎髭の男は初対面で間違いない。こんなカリスマに溢れた人間は故郷に住んでいなかった。
強いて言えば、人間だった頃の隊長にやや顔付きが似ていなくもないが、年代物のワインと定価千円のワインの価値を比べる程に無理がある。
「苦労しておるのは分かるが、親に連絡もしないのはいただけない。義息子、ナイナーよ」
それにしても、俺は顎髭の男のムスコという発音を、どうして正しく義息子と認識できているのか。
現状のすべてが不思議だ。
顎髭の男もそうだが、この俺自身もどういう状態なのだか。幽体離脱でもしているのだろうか。
「申し訳ないですが、俺は貴方の義息子ではありません」
「いや。様々な意味が適合するが、お前は私の義息子で間違いない。お前には、火星調査に送り出した男爵級魔族、ナイナーの気配が混じっている」
顎髭の男が目を細める。
背もたれが異様に長い赤い椅子に座りながら、顎髭の男は俺の内側にいる魔的な気配を探り当てたのだ。
「魔族にとっても不気味な事であるが、ナイナーが爵位権限を用いて火星の現地住民と混じっている。藁を用いても困難な現実の欺瞞であったろうに」
魔族と、顎髭の男は己を呼称した。
言われてみれば、俺も魔的な気配を顎髭の男から感じている。同族の臭いがするというよりは、同じ故郷出身者を言葉遣いから推察したような感覚に近い。
ただし、これまでの魔族との遭遇と大きく異なる点がある。
……顎髭の男は、人間の姿をしているのだ。魔族特有の墨汁色でのっぺりした外見をしていない。
「いや、可能かどうかではないな。ルナティッカーに似ようとするなど、義息子の趣向はもう少しまともであったと思っていたが。努力すれば可能だからといって、人間が虫に擬態するのはマトモではなかろう?」
「そういう貴方も人間の姿をしていますが」
「人間の姿、か。……まあ、そこは見解の差だが、今は重要ではない」
妙な事を顎髭の男は口走る。魔族にはドーム世界の住民が人間に見えていないのだろうか。
「私が姿を変えているのは、円滑なコミュニケーションのためだ。姿が違えば、どうしても精神的な隔たりが生じる。擬態できる側が擬態するのは礼儀であろう」
顎髭の男はこれまで出遭ったどの魔族よりも多才だ。それだけに危険な気配が強い。
俺の内面を見透かそうとする目線は煩わしいが、その分俺も遠慮がいらない。俺も顎髭の男の力を探ろうと観察を続ける。
「しかし、不思議だ。どうして義息子は原住民を尊重して、能力を完全委譲しているのか。私達にとっては重大な使命があって火星に送り出したというのに、まったくもって解せない」
顎髭の男のいうナイナーが俺に爵位権限を譲ってくれた魔族なのだろう。ナイナーのお陰で俺は今も生きているのだが、ナイナーの真意は俺も知らない。
奈国西部に住んでいた俺は、ある日、ドーム外壁が壊される瞬間を目撃した。気圧が急激に下がり意識を失いかける最中、それまで見た事のない墨汁色の異形が現れ、俺を助けてくれたのだ。
故郷のドームでの生存者は、結局俺だけだったが。
「が、そうした義息子の意思を私は尊重し、お前を義息子と同じように扱ってやろう」
席から立ち上がった顎髭の男は両腕を広げて、義息子――の代理である俺――との再会を歓迎した。
「義息子よ。逢いたかったぞ」
「それを言うために、地球から遠路遥々やってきたのか。また、ドームを壊すつもりか?」
顎髭の男が魔族であるのなら、人類の敵である。例外である可能性はかなり低い。
言葉が通じるからと安心する事はできない。ルイズは戦略的観点から、この惑星を支配しようとしていた。知性を持てば、争い事がなくなるなんて考えは幼稚だ。
雰囲気的に、顎髭の男が爵位持ちであるのは間違いないだろう。貴族であるのなら、己の領土と領民を優先するのは当然なのだ。この惑星に住む人間にとっては迷惑でしかない。
「……実は、義息子に頼み事がある」
「俺に?」
「私がこうして対面できているのも、火星圏に到着したからだ。もっと早く来るべきだったが、ユーラシア大陸に降下していたルナティッカーを排除する必要があったのでな。後顧の憂いがなくなり、ようやく本腰を入れる事ができたのだ」
ふと、顎髭の男が指を鳴らす。
響いた指の音に呼応して、黒い霧が立ち込めて見通しの悪かった周囲がクリアになっていく。
そうして目に映ったのは、満天の夜空を真正面から見た光景だ。三百六十度に広がる深い真空は、魂が吸い込まれてしまいそうな色で描かれている。X軸もY軸もZ軸も、知覚できるのは無限に広がる無だけだ。
初めて見る宇宙の中から見た宇宙は、何もなかった。
だがらだろう。
普段は不毛な大地しかない貧しいとしか思えない赤い星が、豊潤な果実に幻視されて、酷く美しい。
「私の眷属を紹介しよう――」
あまりにも赤い惑星が美し過ぎて気付きたくないが、宇宙の単位で考えて近傍に、球状物体が複数個浮かんでいる。
「――下級魔族一五〇万。中級魔族一〇万。男爵級百。子爵級十。地球の領土にも戦力を残しておかねばならなかったのでな。たったのこれだけしか引き連れなかった。……ああ安心したまえ。か弱い市民級を含めて、非貴族階級の強化は済んでいる」
距離感が分からないので不明だが、十キロ級ドームと同じぐらいの体積がありそうだ。その一つ一つに、万単位の魔族が潜んでいる。
「義息子に対して今更であるが、一応、私についても紹介しておこう」
魔族の大船団が向かう先は、赤い惑星だ。
「私は伯爵級魔族だ。魔族に転生してからはゼノンと名乗っている」
ドーム世界のすべての国が結集しても、ゼノン伯爵が率いる魔族の群に勝てる要素はない。
 




