5-2 迷宮入りの初恋
いつの間にか卒業試験の第四試合、トーナメントの準決勝が終了していた。
そんな大事に気付いたのさえ既に昨日なのだから、俺の人生は加速してしまっている。日々の流れに思考が追い付かない。
四肢を溶かす程に損傷の激しかった俺の石鎧は修理中だ。だから、第四試合は何のオプションも付けていない予備機を着ていた。よって、俺が棒立ちになっていようといまいと、戦力にならなかったはずだ。
酷い言い訳である。
月野海は多くの予科生の中から俺を探し出したというのに、まったく誠意が足りない。
第四試合は、一歩も動かない俺の代わりに、城森英児と斎藤ルカが善戦して勝利してしまった。俺など不必要な人間。こう結果で示されたかのようだ。
先日から脳が酔っ払い続けている俺でさえ、素面に戻ってしまう程の当て付けだった。
全面的に俺が悪いのは理解している。
唇の感触を腕で擦って忘れて、いつものように振舞ってしまえば万事解決する。こうも理解している。
――だが、俺は……曽我瑞穂に勝てるのか。
卒業試験トーナメントの目標、優勝ぐらいはしてやる。
頬を叩かれ、石鎧の装着者として資格がないと詰られた女のためであっても、一度約束したのなら守らなければならない。それなりに苦労して勝ち残ったのは、月野製作所を潰さないためだ。
十中八九、決勝ではチーム・月野製作所が勝利するだろう。そのための布石は、とうの昔に済んでいる。
具体案は単純だ。いつもの俺に戻って、決勝も試合終了まで瑞穂と泥試合を演じれば良い。チーム戦なので、後は他の二名がどうにかしてくれる。
瑞穂以外の相手選手を軽んじている訳ではない。が、敵がどれだけ強大でも、意味はないのだ。そういうジョーカーが俺の傍にいる。
チームメンバーを揃えた時点で、俺の仕事は九割方終わっていた。
――だが、それでは曽我瑞穂に勝った事にならない。
どうして、瑞穂は俺の手が届きそうな場所に現れては、翻弄するのか。
鼻先にニンジンを吊るされた馬が、永遠に走り続ける様子が愉快なのか。
……実に些細な疑問だ。幼少の瑞穂は常に俺を惑わしていたので、むしろ、軍学校で再会してからの三年間が異常だったのだ。瑞穂にからかわれたぐらいで、動揺し続ける必要はない。
だから、瑞穂の口付けは切欠でしかない。
俺は俺の意志で、本気で瑞穂をものにしたいと願ってしまった。曽我家の非常識な家訓を盾にしてでも、瑞穂を俺の女して悲願成就させたい。
家族の次に最も傍にいた女だ。家族のように思うには精神的重圧が強すぎる女だったので、淡い想いを抱く対象に成りえた。成長した姿の瑞穂も、濡れた色の黒髪が綺麗で、触れたくなってしまう。
英児に茶化された際には否定していたが、今は違う。
――だが、それでも俺では、曽我瑞穂に勝利できない。そんな分かりきった結末を繰り返すのは御免だ。
胃の中で胃酸が渦巻いていて、ムカつきが酷くて吐気さえする。精神も肉体もコンディションは最悪だ。
大望に向かって直進したいのに、心に諦めが存在するから動き出せない。
必ず遭難する海に浮かぶ宝島に漕ぎ出すトレジャーハンターは、命知らずで羨ましいかもしれない。が、状況を変えればどうだろう。絶対に砕けない壁を叩き続けて手を血塗れにしている人間は、憐れでしかない。
瑞穂に石鎧で勝利すれば、瑞穂が手に入る。言うは容易い。
石鎧戦闘における俺と瑞穂の力の差は、俺が及び腰になる程に隔たりがあるのか。こう聞かれれば答えよう。
瑞穂は次元が違う。
ただし、人間という種から外れた力を持っている訳ではない。第二試合で被弾を繰り返しても動き続けた俺のように、第三試合でテスタメントの電磁装甲に溶かされても動き続けた俺のように、異常な力を有している訳ではない。
だから、俺が魔的な力を全力で行使すれば、きっと勝てる。
……はずがないだろ。演習だからと遠慮して、魔的な力を行使しなかったはずがないだろうが。
演習であっても、勝てば瑞穂が手に入るのだと妄想して、常に全力を尽くしたのだ。それなのに、三年間、俺は一度も瑞穂に勝利できなかった。これで腐らない男が存在するだろうか。
魔族の力、男爵級の爵位特権、『ソリテスの藁』を発動させたのに、ただの人間に勝てなかった。これで自信を失わない男が存在するだろうか。
――だが、割り切れないから、俺は消沈してしまっている。
『ソリテスの藁』は発動中、自機に対するダメージが半減する。
銃弾でも、打撃でも、種類を問わずに欠損が本来の半分になる。発動中は市民級の激昂状態と同じように体中にオレンジ色の斑点が浮かぶ以外、欠点はない。
半減されるダメージは物理現象に留まらない。AIによる被弾判定に対しても効果を発揮した。権限を駆使すれば、演習でタイムアップの常習犯となる事など造作もない。
俺らしい、一瞬だけ素晴らしく感じられる、地味で使えない異能だ。打たれるだけのサンドバッグの耐久性が高くなっても、ボクサーに勝てるはずがない。
そもそも、第二試合で魔的な力に頼らなければならなかった俺が、石鎧の操縦技術で平均値を下回っているのは言うまでもない。
打つ手なし。
もう何度も脳内で繰り返した結論を無理やり否定し、俺は思考を繰り返す。読み込みが続くデータディスクドライブのように、他人から見た俺は活動が停止しているように見えるだろう。
――だが、眼鏡の少女に対しても不誠実であり続けていて、俺は良いのだろうか。
丁度、チームオーナーからも軽蔑されたばかりである。
一度頭を冷ますという名目で、嫌な現実からは逃げてしまおう――。
「……紙屋君は、ストップ安という概念を知らないようですね。ぼくの心象を悪くする事にかけて完璧なようで」
月野は、鼻先からズレ落ちようとする眼鏡の位置を直せずにいる。置手紙を持つ手がプルプルと震えて、うまく動かせそうになかったからだ。
工場にある作業机に向き合った際だった。目立つ位置にあった置手紙を、月野は不注意に読んでしまう。今朝から紙屋九郎の姿を目撃していない事と置手紙を連想できていたなら、少しは心構えができただろうが。
「『探さないでください(決勝までには戻ります)』か。カッコの中身が女々しい事で……。まさか、まだリーダーでいられると思っているのかな? かな??」
付箋のような小さな置手紙を、月野は丁寧に握りつぶす。
と、同時に作業机から勢い良く立ち上がる。月野は工場内にある小さな台所に向かって塩を探し始めた。
「あの女にキスされてからッ、紙屋君はどうしちゃったのよっ!! 馬鹿!」
塩が見つからなかったので砂糖……は単価が高いので、月野は仕方がなく片栗粉を工場の搬入口に撒き始める。
気圧の問題により、片栗粉は工場の内側へと舞い戻り、片栗粉を投じた本人の元へと帰還していく。
月野の黄色い髪が、白く染まって淡くなる。
眼鏡の黒い縁も、白くなる。
ドーム世界の住民の癖して、食べ物を粗末にしようとした因果応報だった。
月野は醜態を晒しているが、月野製作所の工場の中には身内しかいない。怒った姿を見せても、そう恥ずかしくはなかったのだろう。
しかし、タイミング悪く、月野製作所の近場にあるバス停から徒歩でやってきていた人物にまで、白い髪を見られたのは大きな誤算であった。
月野は、ひぃっと悲鳴を上げながら、急いでスーツの袖で顔を拭く。
製造ラインが止まった月野製作所の工場に、意味もなく足を運ぶ人物は少ない。月野製作所に用事がある人物なのだろうと考え、社長らしく、月野は表皮の上に笑顔を作成した。
……笑顔は引きつっていたが、別に月野の顔の筋肉が硬い訳ではない。
「紙屋九郎と面会させてください」
その人物は客人ではなかった。
借金の取り立て屋でもない。
月野にとっては、公私共に敵と呼べる女だ。
過去に月野の契約交渉をばっさりと切り捨てた嫌味な女。卒業試験トーナメントの最後の壁である女。お抱えチームのリーダーに精神疾患を負わせた女。
濡れた黒髪の、曽我瑞穂が月野製作所へと来訪していた。




