第60話:通帳の印字と変わらない日常〜今日も小銭を稼ぎに行くわよ!〜
アルカディア・オンラインの最深部【システム・アビス】での死闘から数日が経過した。
世界の崩壊を司る【滅びのバグ(ジ・エンド)】が結城紬(アバター名:ツムギ)の右ストレートによって完全に粉砕されたことで、ゲームのメインサーバーへのバグの侵食は完全に食い止められた。
異世界のデータを保存した箱庭は平穏を取り戻し、現実世界の現代地球のクラウドネットワークも、インフラのダウンや金融機関のデータベース消失という最悪の事態を免れたのである。
世界は救われた。誰に知られることもなく、たった一人の強欲な女子中学生と、その手駒たち(ポンコツ精霊含む)の手によって。
真っ白で無機質な正六面体の空間――【運営特別ルーム】。
ツムギは、再びこの場所に呼び出されていた。
だが、前回のようにアカウント凍結(BAN)の恐怖に震える様子は微塵もない。彼女は白い革張りのソファにふんぞり返り、目の前の大理石のテーブルに足を乗せんばかりの尊大な態度で、向かい側に座る男を見下ろしていた。
「……お前には、何度救われたか分からないな。四年前のあの時も、そして今回も」
チーフディレクターであり、かつて異世界でツムギを過労死寸前までこき使った元・宮廷魔術師のクロノスは、深く、深々とツムギに向かって頭を下げた。
その顔色は相変わらず土気色で、目の下には濃いクマが刻まれていたが、憑き物が落ちたような安堵の表情を浮かべていた。
「俺の傲慢な計画のせいで、お前たちの世界まで滅ぼしかけた。……本当に、すまなかった。そして、世界を救ってくれてありがとう、俺の勇者よ」
クロノスの真摯な謝罪。
かつてのブラック上司がプライドを完全に捨てて放ったその言葉は、普通なら感動の涙を誘う場面だろう。
しかし。
ツムギは「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「謝罪なんてタダの言葉よ。一円の価値もないわ。私が動いたのは世界を救うためじゃない、私の口座残高を守るためよ。……で? 約束のモノはちゃんと用意できてるんでしょうね?」
ツムギが右手を差し出して指を擦り合わせる。
クロノスは苦笑しながら、手元のタブレット端末を操作した。
「ああ。これが、今回お前がシステム・アビスのバグを修正してくれたことに対する、運営からの正式な『協力報酬(デバッグ代)』だ。……それと、四年前にお前に支払えなかった、あの異世界での未払い残業代と、休日出勤手当、そして魔王討伐の特別危険手当もすべて加算してある」
ピロンッ♪
ツムギの視界のど真ん中に、黄金のシステムウィンドウがポップアップした。
『運営より、特別報酬が振り込まれました』
『送金額:100,000,000ゴールド(現金換算:10,000,000円相当)』
『※現在の口座残高:205,239,330ゴールド(現金換算:20,523,933円)』
「……っ!!」
ツムギの目が、カッと見開かれた。
王都防衛戦での賞金一千万円に、今回のデバッグ報酬一千万円。合わせて二千万円を超える、正真正銘の莫大なゲーム内通貨(換金可能データ)。
「本当は法定金利の複利計算で五千万円くらい請求したかったところだけど……まあ、あんたのポケットマネーも限界みたいだし、これで手を打ってあげるわ。四年前のブラック労働の恨みは、これにて完全精算ってことにしてあげる」
ツムギは、満面の笑みでシステムウィンドウの『換金申請(即時実行)』ボタンを力強くタップした。
『換金申請が承認されました。ご指定の現実口座へ送金処理を開始します』
「よっしゃぁぁぁぁぁぁっ! これで私の推し活は完全なものになったわ!」
ツムギがソファの上でガッツポーズを取る。
『ちょっと! 私の分は!? 私のご褒美のショートケーキ百個はどうなってるのよぉぉっ!』
ツムギの右肩で光の粒子となっているエクレアが、ポカポカとツムギの頬を叩く。
「分かってるわよ! 後で最高級のやつをシステム内にデータ送信(出前)してあげるから、大人しくしてなさい!」
クロノスは、騒がしい一人と一匹を眺めながら、胃薬の空き瓶をテーブルの端に転がした。
「……まったく。世界を救ったというのに、最後まで金とケーキの話ばかりだな。お前たちがこのアルカディア・オンラインにいる限り、俺の胃痛が治まる日は永遠に来ないらしい」
「当たり前でしょ。あんたがこのゲームを運営してる限り、私はシステムの穴を突いて徹底的に小銭を稼がせてもらうわよ」
ツムギは立ち上がり、クロノスに向かって不敵にウィンクをした。
「それじゃあね、クソジジイ。せいぜい、私が稼ぎ尽くす前にサーバーがパンクしないように、しっかりメンテナンス(残業)しなさいよ!」
ツムギのアバターが、光の粒子となって運営特別ルームからログアウトしていく。
残されたクロノスは、深くため息をつきながらも、どこか嬉しそうに目を細めていた。
◇ ◇ ◇
――現実世界、現代の日本。
近所のコンビニエンスストアの中に設置された、銀行のATMコーナー。
結城紬(14歳・中学2年生)は、周囲をキョロキョロと警戒しながら、愛用のボロボロの通帳をATMの吸い込み口へと挿入した。
機械がジジジジ……と音を立てて通帳を飲み込み、内部で印字処理が始まる。
(頼む……! ちゃんと振り込まれてて……! 夢オチとか通信エラーとか絶対やめてよ……!)
紬は祈るように両手を組み合わせ、ATMの画面を凝視した。
やがて、ピピーッという電子音とともに、通帳が吐き出されてくる。
紬はひったくるように通帳を手に取り、最新の印字ページを開いた。
そこには、間違いなく、明確なインクの文字でこう刻まれていた。
『アルカディア・オンライン換金分 +20,000,000円』
『残高:20,004,520円』
「……ヒィッ」
紬の口から、カエルのような変な声が漏れた。
印字された『0』の多さに、一瞬めまいがして視界が揺れる。
月三千円のお小遣いで生活していた中学生の通帳に、二千万円という大金が振り込まれているのだ。これはもはや、一種のバグである。
「やった……! やった、やった、やったぁぁぁぁぁっ!!」
紬はATMの前で、人目も憚らずに両手で渾身のガッツポーズを決めた。
周囲の客が「あの子、何かしら……」と訝しげな視線を向けてくるが、今の紬にとってそんなものはどうでもよかった。
彼女はすぐさまコンビニの外に飛び出し、スマートフォンを取り出して、愛するアイドルグループ『ギャラクシー・ボーイズ』の公式ファンクラブサイトにアクセスした。
「ええと、全国ツアーのSS席アリーナ最前列の通しチケット……あった! 一枚五万円!? 全五公演で二十五万円!? ……ふふっ、安いわね! 今の私にとってはハナクソみたいな金額よ!」
紬は震える指で『購入ボタン』をタップし、決済を完了させる。
さらに、オンライン物販ページへと飛び、リュウくんのメンバーカラーである真紅のペンライトを五本、特大うちわ、アクリルスタンド、痛バッグ用の缶バッジ百個のボックス買いなど、欲望の赴くままにカートに叩き込んでいく。
「これも! これも! あ、保存用と布教用も必要ね! 全部買ってもまだ一千九百万円以上余ってる! 最高! 資本主義最高ぉぉぉぉぉっ!!」
紬は歓喜の涙を流しながら、夕日に染まる住宅街の空に向かって、推しへの愛と札束の力を叫んだ。
四年間、異世界で泥水とスライムの酸にまみれ、理不尽な魔王と戦い続けた日々の苦労が、今、推しのグッズという最高の形で報われたのだ。
世界の崩壊の危機は去った。
だが、結城紬という少女の『欲深い日常』は、まだ始まったばかりであった。
◇ ◇ ◇
数日後。
アルカディア・オンラインの始まりの街、【初期村】の広場。
初心者プレイヤーたちが装備を整え、チュートリアルクエストに勤しむのどかな風景の中、三人の異質なトップランカーたちが、広場の噴水前に集まっていた。
「……結城のやつ、遅いな。あの後、大金を手に入れて現実世界で豪遊してるんだろうか」
相沢航太(アバター名:コウタ)が、ポーションの空き瓶を片手にため息をついた。
彼はあの日、バグの脅威から世界を救い、無事に自分のソシャゲの課金データが守られたことに安堵していた。とはいえ、相変わらずゲーム内ではポーション係(荷物持ち)のままである。
「豪遊……。お姉様のことですから、きっとあの二千万円で、東山財閥も驚くような大規模なアイドル支援事業でも立ち上げているに違いありませんわ!」
東山凛(アバター名:リン)が、高級なローブを翻しながらうっとりと妄想を膨らませる。彼女はシステム・アビスでの死闘を経て、手動での魔力制御のコツを完全に掴み、魔法使いとしての実力をさらに高めていた。
「姉御が引退なんてことになったら、俺のシールドバッシュは誰を庇えばいいんだ……。住宅ローンは無事に守れましたが、姉御のブラックな指示がないと、毎日の冒険にハリが出ねえ体になっちまいましたぜ……」
三十代社畜の重戦士シシオウが、修復されたばかりの新品のタワーシールドを撫でながら、忠犬のようにしょんぼりと肩を落とす。
莫大な賞金を手にしたツムギは、もうこのゲームに未練はないのではないか。
現実世界での『推し活』に専念し、引退してしまったのではないか。
三人がそんな寂しさを抱えながら待っていると、広場の転送ポイントが眩く発光した。
「あんたたち! 何ボサッとしてんのよ!」
元気な怒号とともに現れたのは、見慣れた『初期装備の布の服』を着て、手には新しい『木の棒(光属性の結晶石付き)』を構えた、小柄な少女の姿だった。
「お、お姉様!!」
「姉御ォォッ!!」
「結城! お前、引退したんじゃなかったのか!?」
三人が弾かれたように立ち上がる。
ツムギは右肩にエクレアのホログラムを乗せたまま、呆れたように腰に手を当てた。
「引退? バカ言いなさい! たかだか二千万円ぽっちで推し活が一生安泰になるわけないでしょ! グッズの新作は毎月出るし、遠征の交通費だってバカにならないのよ! 資金はいくらあっても足りないの!」
ツムギの瞳には、一切ブレることのない、巨大な『¥』マークがギラギラと輝いていた。
彼女は木の棒をバシィッ!と噴水の縁に叩きつけ、仲間たちを指差した。
「聞いて! 今日からアルカディア・オンラインで『期間限定・レア素材ドロップ率アップイベント』が始まったのよ! 1秒休めば100円の損! 1分休めば6000円の損よ!」
ツムギは不敵な笑みを浮かべ、かつての異世界で魔王に立ち向かった時と同じ、いや、それ以上の闘志を燃え上がらせた。
「さあ、ボーッとしてないで働きなさい! 今日も小銭(レア素材)を稼ぎに行くわよ、歩くATMども!!」
「姉御ぉぉ! 一生ついていきます! 俺の有給はすべて姉御のものですぜ!」
シシオウが感極まって男泣きし、タワーシールドを掲げる。
「誰がATMですって!? ……ですが、お姉様の後ろはわたくしが完璧に守ってみせますわ!」
リンが顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに杖を構える。
「やっぱりお前は、全然ブレないな……。よし、ポーションの在庫はバッチリだ。いつでもこい!」
コウタが苦笑いしながら、重たい荷物袋を背負い直す。
『ちょっと! 私の今日のケーキは!? まさかコンビニのロールケーキで誤魔化すつもりじゃないでしょうね!』
「うるさいわね! 一山当てたら高級ホテルのビュッフェに連れてってあげるから、しっかりサポートしなさい!」
呆れるエクレアを肩に乗せ、ツムギが新たな金策(荒稼ぎ)に向けて、初期村のゲートを勢いよく蹴り開ける。
世界を救っても、億万長者になっても、結城紬の日常は何も変わらない。
推しの笑顔のために、そして己の欲望のために。最強の守銭奴勇者と愉快な仲間たちは、賑やかな足音と高笑いを響かせながら、今日も新たなフィールドへと元気に駆け出していくのであった。




