第58話:泥臭さの極致〜武器が壊れてからが本番のド根性バトル〜
すべてのUIが消失し、システムという絶対的なルールが崩壊したアルカディア・オンラインの最深部【システム・アビス】。
HPバーも見えない、スキルも自動で発動しない、敵の攻撃範囲を示す赤いマーカーもない。通常のVRMMOプレイヤーであれば、一歩も動けずに絶望の淵で震えるしかない完全な『暗闇』の戦場。
だが、その常識の崩壊こそが、結城紬(アバター名:ツムギ)という少女の真骨頂を呼び覚ましていた。
「あーっはっはっはっは!! 遅い、遅いわよバグ野郎!! 攻撃モーション(予備動作)がなくても、大気が軋む音と殺気で、次の一手なんて丸見えなのよ!」
不定形の怪物『ジ・エンド』が、タールのように黒く粘り気のある身体から無数の鋭利な触手を生み出し、全方位からツムギへと突き刺そうと殺到する。
しかし、ツムギは水を得た魚のように仮想空間の最深部を躍動していた。
飛来する触手を、髪の毛一本すれすれで躱す。右からの薙ぎ払いを、前転しながら床を滑るように回避する。上空からの叩きつけを、横へステップを踏むだけの最小限の動きで避ける。
システムによる回避補正がないからこそ、彼女の『本物の生存本能』が、現実世界の中学生の身体能力というリミッターを完全に突破していたのだ。
四年間、異世界という本物の死地で、ブラック上司の理不尽極まりない訓練と、本物の魔物との殺し合いで研ぎ澄まされた彼女の六感。それは、システムが計算する乱数よりも遥かに正確で、致命的だった。
「私の口座残高(一千万円)をゼロにしようとする罪、その身体を1ピクセルずつ削り取って償わせてやるわ!」
ツムギは空中で身を捻り、初期装備の『木の棒(光属性の結晶石付き)』を、ジ・エンドの蠢く触手の根元へと渾身の力で叩き込んだ。
ドガァァァァァァァンッ!!!!
光属性の結晶石が爆発的な閃光を放ち、タールの触手が根元からボキリとへし折れる。
しかし、その直後だった。
パキィィィィンッ……!!
「……あ」
ツムギの手に、嫌な感触が伝わった。
これまで彼女の無茶なフルスイングに耐え、魔王のコアすらも粉砕してきた『木の棒』が、ついに物理的な耐久値の限界を迎えたのだ。
光属性の結晶石を巻き付けていた蔦が千切れ、棒の本体が真っ二つにへし折れて、破片が泥水とケーブルの散乱する床へと散らばっていく。
『ギ、ギルルルルルルッ!!』
ジ・エンドが、虫ケラの武器が壊れたことを察知したかのように、狂喜のノイズを鳴らしながら、さらに巨大な触手の塊をツムギの頭上へと振り上げた。
「お、お姉様! 武器が……!」
後方で手動の魔力制御を続けていた東山凛(アバター名:リン)が、悲鳴を上げる。
「ゆ、結城! 逃げろ! 丸腰じゃどうしようもないだろ!」
相沢航太(アバター名:コウタ)も、ポーションの瓶を握りしめたまま絶叫した。
通常のゲームであれば、メイン武器の破壊は絶対的な詰み(ゲームオーバー)を意味する。インベントリを開くUIも消失している今、ツムギには代わりの武器を取り出す手段すら残されていない。
だが、ツムギの顔に絶望や焦りの色は、一ミリたりとも浮かんでいなかった。
「……武器が壊れた? だから何よ」
ツムギは迫り来る巨大な触手を見上げながら、むしろ口角を獰猛に吊り上げた。
「剣が折れたら、素手で殴る。素手が砕けたら、牙で噛みつく。……四年間、あの異世界で私がどうやって生き延びてきたと思ってるのよ!!」
ツムギは回避行動を取るどころか、自らジ・エンドに向かって一直線に駆け出した。
そして、先ほど彼女自身の攻撃でへし折った、ジ・エンドの触手の残骸――地面に転がっていた『硬化したタールの鋭利な破片(牙のような形状)』を、躊躇いなく素手で掴み取ったのだ。
その破片は、触れるだけで凄まじい冷気とエラーのノイズを放ち、ツムギの手のひらに火傷のようなダメージエフェクトを発生させる。痛覚設定が生きているこの空間で、それは焼けた鉄を握るような激痛を伴っていたはずだ。
しかし、一千万円の札束への執念は、肉体的な苦痛など完全に麻痺させていた。
「てめぇの牙で、てめぇ自身を貫きなさい!!」
ツムギは、拾い上げたバグの牙を逆手に握り締め、振り下ろされてきた巨大な触手の側面に向かって跳躍した。
そして、触手が地面に激突する寸前、その表面にバグの牙を深々と突き立て、そのまま自分の体重を利用して、触手の側面に沿って一気に切り裂いて滑り降りたのだ。
ズバァァァァァァァァァッ!!
『グ……ギャアアアアアアアアアアアアッ!?!?』
ジ・エンドのタールの身体から、真っ黒な飛沫が間欠泉のように噴き出す。
自身の身体の一部を武器として再利用されるという、システム(プログラム)の想定を完全に無視した泥臭い反撃。
怪物の悲鳴がシステムコアを揺るがす中、ツムギは着地と同時に、今度は足元に転がっていた巨大な『サーバーラックの残骸(瓦礫)』へと目を向けた。
「リン! 私の足元に爆発魔法を撃ちなさい! 着弾の瞬間に威力を一点に集中させて!」
「は、はいっ! お姉様の仰る通りに! 【圧縮炎弾】!!」
リンが手動で編み上げた炎の弾丸が、ツムギの足元の瓦礫の下へと撃ち込まれる。
その瞬間、ツムギは瓦礫の下に鉄パイプを差し込み、リンの魔法の爆発力を『テコの原理』の支点として利用した。
「吹き飛びなさい!!」
ドゴォォォォォンッ!!
魔法の爆発力とテコの原理が完璧に噛み合い、数トンはあろうかという巨大なサーバーラックの瓦礫が、まるで大砲の弾のように空へと射出され、ジ・エンドの本体(胸部の中央)へと直撃した。
メシャァァァァァァンッ!!!!
巨大な質量が、不定形の身体を大きくへこませ、内部の構造を激しく破壊する。
剣がなければ敵の破片を使い、魔法が使えなければ落ちている岩とテコの原理を悪用する。
もはや「ゲームのプレイヤー」の動きではない。使えるものは環境のすべてを利用し、相手を確実に殺し切るためだけに最適化された、究極のサバイバーの殺戮ショーであった。
「……すげえ。姉御のあの戦いっぷりを見たら、泣き言なんか言ってられねえ……!」
その光景を後方で見ていた重戦士シシオウの目に、これまでにないほどの熱い炎が宿った。
彼は現在、システムのアシストを失い、自らの「三十代の現実の筋力」だけで数百キロの鎧とタワーシールドを支えている。
全身の筋肉は悲鳴を上げ、関節はギシギシと軋み、ゲームのHPバーではなく、現実の肉体のスタミナが完全にレッドゾーンへと突入していた。
ジ・エンドから放たれる触手の猛攻を、地面に盾を突き刺してなんとか防波堤となって耐えているが、その衝撃はシステムで軽減されることなく、ダイレクトに彼の生身へとフィードバックされていた。
「ぐ、おぉぉぉぉぉぉっ……! 腕が……骨が折れそうだ……っ!」
シシオウは、口から血を吐き出しながら、盾を支える両腕をプルプルと震わせた。
あと一撃でも重い攻撃を受ければ、間違いなく盾ごと押し潰される。
『オオオオオオオオオオオオオッッ!!』
ジ・エンドが、ちょこまかと動き回るツムギへの怒りを一旦保留し、目障りな防波堤を完全に排除しようと、これまでで最も巨大な触手を、上段からハンマーのように振り下ろしてきた。
回避は不可能。防げば間違いなく腕の骨が砕ける。
「シシオウさん!! 逃げてくださいませ!」
リンが絶叫する。
だが、シシオウは一歩も引かなかった。いや、むしろ地面に突き刺していた盾を引き抜き、自らの両足で立ち上がったのだ。
「逃げる? 冗談じゃねえ……! 俺の三十五年の住宅ローンを脅かすバグ野郎に、背中を見せてたまるかァァッ!」
システムのアシストがない。ステータスによる筋力補正もない。
あるのは、毎日満員電車に揺られ、理不尽な上司の罵倒に耐え、家族を養うために歯を食いしばってきた、三十代の疲れたサラリーマンの『純粋な筋肉と根性』だけだった。
「有給休暇を全ツッパした、社畜の意地を見せてやるゥゥゥゥッ!! 【不落の城塞】、マニュアル発動だァァァァッ!!」
シシオウは、スキルのシステム的発動を待つのではなく、自らの気合いと絶叫だけで、ありったけの力でタワーシールドを天に向かって突き上げた。
ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
巨大な触手の叩きつけが、シシオウの盾に激突する。
凄まじい衝撃波が地下空間を吹き荒れ、床のケーブルや瓦礫が周囲に吹き飛ぶ。
シシオウの足元の石畳が、クレーターのように蜘蛛の巣状に砕け陥没した。
「が、あああああああああああああっ!!」
シシオウの両腕の筋肉繊維が、限界を超えて断裂するような激痛が走る。
しかし、彼は倒れなかった。
膝を曲げ、全身のバネを使い、血反吐を吐きながらも、巨大な質量を『純粋な腕力とド根性』だけで完全に受け止めてみせたのだ。
「押し潰されるかよ……! 姉御が、あんなに泥水すすって一千万円のために戦ってるんだ……! 俺の盾で、一ミリたりともこのバケモノを前には進ませねえェェェッ!!」
システムに頼らない、生身の魂の咆哮。
その姿に、後方でポーション係をしていたコウタの心も、激しく揺さぶられた。
(結城は武器がなくても環境を使って戦ってる……。シシオウさんも、システムがなくても根性で耐えてる……。じゃあ、俺は? 俺はただ、言われた通りにポーションを投げてるだけでいいのか!?)
コウタは、自分の荷物袋の中に残された数本のポーションの瓶を見つめた。
システム・アビスの最深部で、自分だけが安全な後方から石を投げているような感覚への焦燥。
その時、ジ・エンドの不定形の身体の表面に、無数の『赤い発光体』が浮かび上がるのが見えた。
それは、周囲の状況を認識するための、バグモンスターの巨大な眼球、あるいは感覚器官のような部位だった。
(……あいつ、あの赤い光でこっちの動きを見てるのか……?)
コウタは、インベントリから取り出した『暗闇の粉』の入ったガラス瓶と、強酸性の『劇毒ポーション』の瓶を両手に握り締めた。
ゲームのシステムが正常なら、ボスモンスターに状態異常(目潰し)などほとんど効かないのが定石だ。
だが、ここはシステムが崩壊した空間。物理法則と泥臭さだけが支配するリアルな戦場だ。
「結城ィィッ! ちょっとだけ、あいつの注意を引いてくれ!」
コウタは荷物袋を放り投げ、決死の覚悟で前線へと走り出した。
「相沢くん!? あんた、前に出てどうする気よ!」
ツムギが驚きの声を上げるが、彼女はすぐにコウタの意図を察し、ジ・エンドの足元へと飛び込んで激しいフェイントを仕掛けた。
「ほらほら! どこ見てんのよゴミデータ! 私の一千万円を返せぇぇッ!」
ツムギの激しい動きに釣られ、ジ・エンドの表面に浮かぶ巨大な『赤い発光体(目)』が、彼女の動きを追おうとギョロリと動く。
その瞬間。
「食らえ、バグ野郎ぉぉぉぉぉっ!! 俺のソシャゲのガチャ爆死の恨み、思い知れェェッ!!」
コウタは、野球部で鍛えた全力のフォームで、両手に持った『劇毒ポーション』と『暗闇の粉』のガラス瓶を、ジ・エンドの巨大な赤い発光体のド真ん中へと、正確無比なコントロールで連続して投げつけた。
パリンッ!! ガシャァァァンッ!!
ガラス瓶が赤い発光体に直撃して砕け散る。
強酸性の毒液が眼球の表面をジュージューと溶かし、さらに暗闇の粉が視界を完全に黒く塗りつぶした。
システム上のステータス異常判定ではない。純粋な『物理的な目潰し』である。
『ギャ……ガ、ギィィィィィィィィィィィィィィッ!?!?』
ジ・エンドが、これまでにないほど狂乱した悲鳴を上げ、視界を奪われた苦痛から、デタラメに触手を振り回し始めた。
その攻撃は完全に空を切り、彼自身の身体のバランスを大きく崩す結果となる。
「でかしたわ相沢!! 最高のサポート(目潰し)よ!!」
ツムギが歓喜の絶叫を上げた。
「リン! シシオウ! 今よ! 奴の視界が完全に塞がってるうちに、最大火力を一点に集中させるわよ!!」
「承知いたしましたわ! システムがないのなら、わたくしの全ての魔力をこの一撃に込めるまで! 燃え尽きなさい、【極大爆炎陣】・マニュアル・オーバーロード!!」
リンが両手から、今までで最も巨大で高密度な炎の奔流を、ジ・エンドの足元へと撃ち込む。
「うおおおおおっ! 俺の盾で、押し出してやりますぜェェッ!」
シシオウが、痛む両腕の限界を無視して立ち上がり、タワーシールドを構えてジ・エンドの巨体に向かって決死の突進を敢行する。
リンの炎が足元を焼き尽くし、シシオウの盾が巨体を強引に押し込み、コウタの目潰しで完全に隙を晒したジ・エンド。
そして、その崩れゆく巨体の頭上、最も無防備な死角へと、ツムギが跳躍した。
彼女の手には、サーバーラックから引き剥がした鋭利な鉄骨が握られている。
「これで、チェックメイトよ!! 一千万えぇぇぇぇんッ!!」
ツムギの執念と強欲が込められた鉄骨が、ジ・エンドの頭頂部へと深々と突き刺さった。
ドッガァァァァァァァァァンッ!!!!
凄まじい轟音とともに、ジ・エンドの不定形の身体から、ついにドス黒いタールの装甲がベリベリと音を立てて剥がれ落ち始めた。
その中心部、黒いタールの奥底から、システムを崩壊させているすべての元凶――不気味に明滅する極小の『コア(弱点)』が、ついにその姿を露出させたのである。
「見えたわ……! バグの心臓が!!」
ツムギの目が、今日一番の輝きを放つ。
システムが消失した絶望の淵で、泥臭い人間たちの意地と筋肉、そして限界を超えたド根性が、ついに神をも凌駕する奇跡を引き起こした。
現実世界への侵食を食い止める、正真正銘の最後の一撃へのカウントダウンが、今、始まったのである。




