第56話:システムエラー(UI消失)〜頼れるのは己の肉体のみ! 絶望のリアルモード〜
ドガァァァァァァァァァンッ!!!!
アルカディア・オンラインの最深部、運営の権限すらも弾き返す完全隔離空間【システム・アビス】。
無数のサーバーラックが林立し、不気味な赤黒い光が脈打つその中心で、結城紬(アバター名:ツムギ)の放った渾身のフルスイングが、不定形の怪物『ジ・エンド』のタールのような身体に深々とめり込んだ。
光属性の結晶石をくくりつけたただの木の棒。しかし、ツムギの全質量と強欲、そして仲間たちのバフをすべて乗せたその一撃は、物理演算の限界を突破するほどの凄まじい衝撃を発生させた。
『ギ……ギギギ……ッ!!』
システムの中枢に巣食う滅びの具現化である『ジ・エンド』が、物理的なダメージを受けて大きくのけぞった。
ドロドロとしたタールの身体が波打ち、中心部に亀裂が走る。
一億円(現金換算一千万円)の賞金と己の口座残高を守るため、ツムギが放った怒りの一撃は、確かにこの絶対的なバグの塊に通じたのだ。
「いける! ダメージが通ったぞ!」
相沢航太(アバター名:コウタ)が、ポーションの瓶を握りしめたまま歓喜の声を上げた。
「さすがはお姉様! このまま一気に押し切りますわ!」
東山凛(アバター名:リン)も杖を構え直し、追撃の詠唱に入ろうとする。
しかし。
ツムギだけは、木の棒を振り抜いた姿勢のまま、背筋に強烈な悪寒が走るのを感じ取っていた。
のけぞった『ジ・エンド』の身体が、不自然なほどに静止したからだ。
ダメージによる硬直ではない。まるで、システムそのものが映像の再生を一時停止したかのような、絶対的な静寂。
(……来るッ!)
ツムギが直感でそう悟り、後方へ大きく跳び退いた、その直後だった。
『――――――■■■■■■■■■■■ッッ!!!!』
音ではなかった。
それは、人間の可聴域を完全に無視した、鼓膜ではなく脳髄と魂を直接揺さぶるような『空間の絶叫』だった。
ジ・エンドの不定形の身体が爆発的に膨張し、全方位に向かって真っ黒な波動を放ったのだ。
物理的な破壊力を持った衝撃波ではない。その黒い波動が空間を通り抜けた瞬間、ツムギたちの視界で『異常事態』が連続して発生し始めた。
「な、なんだ!? 画面が……!」
コウタがパニックに陥ったように悲鳴を上げる。
彼の視界の右上に表示されていた、自分とパーティメンバーの緑色の【HPバー】と青色の【MPバー】が、まるでブラウン管テレビの砂嵐のようにジジッとノイズを走らせ、次の瞬間、パリンッ!とガラスのように砕け散って完全に消滅したのだ。
「HPバーが消えた!? 待て、左下のミニマップもだ! チャットウィンドウも、スキルパレットも全部消えてるぞ!」
コウタの言う通りだった。
VRMMOのプレイヤーにとって、世界を認識し、戦闘を管理するための『眼』とも言えるすべてのUI。
自分たちのステータス画面、敵の頭上に浮かんでいたネームプレートと体力ゲージ、照準を合わせるためのクロスヘア(十字カーソル)、現在かかっているバフやデバフのアイコン。
それらすべてが、ジ・エンドの咆哮を受けた瞬間に、エラー音とともに強制的にシャットダウンされ、視界から完全に消失してしまったのだ。
「バ、バグのせいでシステムが落ちたのか!? エクレア! どうなってるんだよ!」
コウタが叫ぶが、返事はない。
『ガガッ……ザザザッ……ツム、ギ……ダメ……システム、応答しな……!』
ツムギの右肩に浮かんでいたナビゲーションAIのエクレアのホログラムが、激しいブロックノイズに塗れ、声がプツプツと途切れている。
やがて、エクレアの姿そのものがノイズの中に溶け込み、完全にフリーズして動かなくなってしまった。
運営の監視も、AIのサポートも完全に切り離された、完全なる暗闇。
「UIが消えたくらいで慌てないで! 情報が見えなくても、私たちの身体は動くわ!」
ツムギが仲間たちを鼓舞するように叫ぶ。
だが、真の絶望は、単に「画面の表示が消えたこと」ではなかった。
UIの消失は、これから起こる致命的な崩壊の、ほんの序口に過ぎなかったのだ。
「あ、姉御……! おかしいですぜ、身体が……!」
ドスンッ!!
突然、前衛でタワーシールドを構えていた重戦士シシオウが、自らの装備の重みに耐えかねたように両膝から床に崩れ落ちた。
「シシオウ!? どうしたのよ!」
「わ、分かりません……! 急に、鎧と盾が……何百キロもある本物の鉄の塊みたいに重く……ッ! 腕が、上がらねえ……!」
シシオウは、額から滝のような冷や汗を流し、歯を食いしばって立ち上がろうとするが、巨大な獣人のアバターは小刻みに震えるだけで、ピクリとも動かない。
「重い……? そんな馬鹿な、あんたのSTR(筋力)ステータスなら、その程度の装備……」
ツムギが言いかけて、ハッと息を呑んだ。
シシオウは現実世界では、胃薬を手放せない三十代の疲れたサラリーマンである。彼がゲーム内で二メートル超えの筋骨隆々な獣人の身体を自由に動かし、数百キロの盾を羽のように振り回せていたのは、彼自身の筋力ではない。
プレイヤーの脳波(思考)を読み取り、ゲーム内のステータス数値に合わせてアバターの身体を『全自動で動かしてくれていた』、システムのアシスト機能のおかげだったのだ。
それが、今。
ジ・エンドの咆哮によって、システムのアシスト(運動補正)が完全に切断された。
シシオウは今、仮想空間の中で「三十代の運動不足のサラリーマンの筋力と感覚」のまま、数百キロの鋼鉄の鎧を着せられ、巨大な肉体を自力で動かそうとしている状態になっていたのだ。動けるはずがない。
「嘘……! じゃあ、魔法は!? お姉様、わたくしの魔法が……発動しませんわ!」
後方で杖を構えていたリンが、悲鳴のような声を上げた。
彼女は何度『極大爆炎陣』というスキル名を叫んでも、杖の先端からはただ空気が漏れるような音がするだけで、炎の粒一つ発生しない。
「どうしてですの!? MPは先ほど相沢様のポーションで回復したはずなのに!」
「当たり前よ! スキル名を叫べば勝手に魔法が発動する『オートスペル機能』が死んだのよ!」
ツムギが叫び返す。
VRMMOにおける魔法とは、プレイヤーがスキルを宣言することで、システムが自動的に周囲のマナを収集し、魔法陣を描き、対象へ向かって放ってくれるという「全自動の兵器」である。
そのシステムがダウンした今、リンは自分自身の精神力とイメージだけで、大気中のマナを練り上げ、炎の形に固定し、放たなければならない。システムのお膳立てに頼り切っていた彼女に、そんな芸当ができるはずがなかった。
「お、おい! アイテムもだ!」
コウタがパニックになりながら、背負っていた荷物袋を漁る。
「いつもなら、メニュー画面を開いて『使用』を選ぶだけでポーションがポンッと手に出てくるのに……! 袋の中に手を突っ込んでも、ただの硬いガラス瓶がゴチャゴチャ入ってるだけで、どれが回復薬でどれが毒消しか、手探りじゃ全然分からねえよ!」
HPバーが見えない。
システムが身体を動かしてくれない。
魔法が使えない。
アイテムが瞬時に取り出せない。
そして何より、敵の攻撃範囲を知らせる『赤い警告マーカー(AOE)』すらも、床には一切表示されなくなってしまった。
アルカディア・オンラインというゲームのルールが、完全に消滅した。
残されたのは、現実世界と全く同じ、痛覚と重力と不便さに支配された『生身の体』だけだった。
『オ……オォォォォォォォォォォォ……ッ』
ジ・エンドが、システムエラーによって完全に無力化されたプレイヤーたちを見下ろし、不気味に蠢いた。
巨大なタールの塊から、先ほどよりもさらに太く、禍々しい紫黒色の触手が何本も形成され、鞭のようにしなりながら空高く持ち上がる。
「に、逃げろシシオウさん!!」
コウタが叫ぶが、シシオウは重すぎる鎧のせいで、這いつくばることしかできない。
「わ、わたくしの防壁が……! 展開できませんわ……!」
リンが杖を震わせながら後ずさる。
赤い警告マーカーがない。
どこに触手が振り下ろされるのか、範囲はどれくらいなのか、ゲーム的な「予兆」が一切存在しない。
純粋な殺意を持った巨大な質量が、なんの警告もなく、シシオウとリンの頭上へと無慈悲に振り下ろされた。
「……終わった」
コウタは、絶望のあまり両手で頭を抱え、目を閉じた。
システムに守られたゲーマーは、システムが消失した瞬間、ただの無力な一般人に成り下がる。理不尽な死が彼らを襲い、アカウントが消去され、現実世界のネットワークも崩壊する。
世界の終焉。その言葉が、誰の心にもよぎった、その瞬間だった。
――ガキィィィィィィィィィンッ!!!!
シシオウとリンを押し潰すはずだった巨大なタールの触手が、空中で凄まじい火花を散らし、弾き返された。
「え……?」
目を固く閉じていたコウタが、恐る恐る顔を上げる。
這いつくばっていたシシオウも、震えるリンも、信じられないものを見る目で前方を見つめた。
彼らの目の前に立っていたのは、初期装備の布の服を着た、小柄な少女の背中だった。
結城紬。
彼女は、ただの『木の棒』一本を斜めに構え、自分よりも何十倍も巨大な触手の一撃を、真正面から受け止めるのではなく、絶妙な角度で「いなし」、軌道を逸らして弾き飛ばしたのだ。
「ゆ、結城……!? お前、どうして……!」
コウタの驚愕は当然だった。
システムのアシストが切れているのだ。ステータスに頼った防御は不可能。ましてや、布の服と木の棒で、あの巨大な質量を弾き返すなど、物理的にあり得ない。
「……ハァッ……ハァッ……」
ツムギは木の棒を構えたまま、荒い息を吐いていた。
しかし、彼女の背中からは、絶望や恐怖の感情は微塵も感じられなかった。
それどころか。
「……あーあ。クロノスのクソジジイ、とうとう一番やっちゃいけない最悪の手を引いたわね」
ツムギがゆっくりと振り返った。
その顔には、狂気じみた、しかし極めて冷徹で、獰猛な肉食獣のような笑みが張り付いていた。
「ゆ、結城……? お前、身体が動くのか? システムが死んでるのに……」
「システムが死んでる? UIがない? オートエイムがない? ……だから何よ」
ツムギは首をゴキゴキと鳴らし、両手で木の棒を握り直した。
「HPバーなんて見えなくても、相手の息遣いと出血量、肉体の重みを感じれば、残りの体力なんて手にとるように分かるわ。オートエイムがない? 自分の手足なんだから、システムに動かしてもらうんじゃなくて、自分の意志と筋肉で動かしなさいよ」
その言葉は、ゲーマーたちにとっては到底理解できない、常軌を逸したものだった。
しかし、ツムギにとっては違った。
システムが用意した親切なステータス画面。痛みを和らげるペインバランサー。思い通りに身体を動かしてくれる運動補正。
アルカディア・オンラインにログインしてから今日までの間、ツムギにとってそれらはすべて、「邪魔な画面のノイズ(UI)」であり、「自分の身体に巻き付いた補助輪」でしかなかったのだ。
なぜなら、彼女は四年前。
このアルカディア・オンラインの元となった本物の『異世界』において。
便利なシステムなど何一つない、生身の血肉が引き裂かれる本当の戦場で。
生き残るために、敵の殺気を読み、泥を啜り、自分の肉体の限界を超えて戦い続けるという、究極のブラック労働を四年間も経験してきた『本物の勇者』なのだから。
「システムが消えて、完全に『異世界の物理法則だけ』になったこの隔離空間……」
ツムギの瞳孔が極限まで収縮し、ドス黒い殺意と強欲が全身から爆発的に立ち昇る。
「これこそが、私が四年間地獄を見てきた『私の日常』よ!!」
システムの枷が外れ、リミッターを完全に解除された最強の守銭奴勇者。
彼女は、ただの「ゲームの強いプレイヤー」から、四年前の「本物の殺戮者」へと完全に回帰した。
「聞いて、野郎ども! システムが死んだんなら、ここからは完全なマニュアル操作の泥仕合よ! 私の指示通りに動けない奴から死ぬわよ!」
ツムギの叫びが、絶望に沈んでいたパーティメンバーの心に、強烈なカンフル剤として撃ち込まれる。
「デカブツ! 重いなら無理に立とうとするな! その場に這いつくばったまま、盾を斜めに固定して『防波堤』になりなさい! システムがなくても、あんたのその現実の社畜魂(根性)はバグってないでしょ!」
「お、応ォォォッ!! 立たずに受ける! クレーム対応の土下座の姿勢なら、誰にも負けませんぜェェッ!」
シシオウが、重い鎧のまま四つん這いになり、巨大な盾を地面に突き刺して強固な壁を形成する。
「リン! システムの自動詠唱に頼るな! 自分の腹の底にあるマナを直接掴んで、力任せに外に放り出しなさい! 形なんてどうでもいい、ただの魔力の爆発を起こせばいいのよ!」
「手動での魔力制御……! お嬢様の嗜みとして、お茶を淹れるよりも乱暴でよろしくてよ! 見ていなさい、わたくしの真の力を……!」
リンが杖を投げ捨て、両手で直接空間の魔力をかき集め、赤黒い炎の塊を無理やり圧縮し始める。
「相沢くん! あんたは私の背中の荷物袋よ! ラベルなんか見なくていい、指先の感触と匂いだけでポーションを判別しなさい! 私が『赤』って言ったらHP回復、『青』って言ったらMP回復を、私の口の中に直接放り込むのよ!」
「理不尽すぎるだろ! ……でも、やってやる! 俺のソシャゲのデータと、お前の一千万円を守るためにな!」
コウタが荷物袋の中に両手を突っ込み、必死にガラス瓶の手触りを確認し始める。
「よーし、上等よ!」
ツムギは口角を限界まで吊り上げ、不定形のバグの怪物『ジ・エンド』に向かって、木の棒をバシィッ!と突きつけた。
「あんたがシステムのバグなら、私はあんたを物理でぶっ壊す『最強のデバッガー』よ! 私の一千万円の賞金を脅かした罪、データの一片残らず消去してやるわ!!」
水を得た魚のように、ツムギが笑う。
UI消失という究極の絶望すらも、彼女にとっては「あの頃の職場(ブラック企業)に戻っただけ」に過ぎない。
システムに守られた綺麗なゲームの時間は終わりだ。
ここからは、生きるか死ぬか、稼ぐか奪われるか。血と泥と札束に塗れた、最強の守銭奴勇者による、ルール無用の本当の殺し合い(デバッグ作業)が幕を開ける。




