第55話:最深部、滅びの具現化〜完全隔離空間と不定形の怪物『ジ・エンド』〜
アルカディア・オンラインの最深部、絶対に誰もアクセスしてはならない禁忌の領域【システム・アビス】。
無機質な緑色のグリッド線で構築されていたはずのその仮想空間は、今や完全にバグとノイズに侵食された、理不尽極まりない地獄の戦場と化していた。
「シシオウ! 右斜め前方、空間の歪みに向かってシールドバッシュ! 見えない判定を弾き飛ばしなさい!」
「応ォォォッ! 見えなくても気配で分かりますぜ! 【金剛の盾撃】ェェッ!!」
「リン! シシオウが弾いたその瞬間に、座標固定で最大魔法を叩き込む! 詠唱のラグはコウタのポーションで強引にカットよ!」
「お任せくださいませ! 【極大爆炎陣】!」
「うおおおおっ、食らえリンさぁぁぁん! 特大MP回復ポーション、顔面ストライクゥゥッ!」
バシャァッ!という液体が弾ける音とともに、リンのMPが一瞬で全回復し、間髪入れずに次の極大魔法が空間の歪みへと叩き込まれる。
そこへ、初期装備の布の服を着た結城紬(アバター名:ツムギ)が、光属性の結晶石をくくりつけた『木の棒』を構え、音速を超えるステップで飛び込んだ。
「これで……最後よぉぉぉぉぉっ!!」
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
ツムギの放った渾身のフルスイングが、見えないバグモンスターのコアを正確に打ち砕く。
凄まじい破壊音とともに、空間を埋め尽くしていた奇形の獣や巨大化したゴブリンたちのグラフィックが、一斉にフリーズした。
そして、テレビの電源を乱暴に切った時のように、プツンッ!という音を立てて、すべてのバグモンスターが青黒いノイズの欠片となって消滅していった。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
コウタが、空になったポーションの段ボール箱を放り投げ、その場に大の字になって倒れ込んだ。
「お、終わった……。全部、狩り尽くした……」
「ええ、完璧なブラック・オーケストラでしたわ……。お姉様の指揮がなければ、わたくしたち、開始一秒でデータの塵になっておりました……」
リンも杖を杖代わりにして、肩で息をしている。その顔は煤とポーションの液体でドロドロだが、達成感に満ちた笑みを浮かべていた。
「俺の盾も、もう限界ですぜ……。ですが、姉御の時給一万円(成功報酬一億円)の深夜清掃バイト、見事に第一フェーズ完了といったところですかい?」
シシオウが、ひしゃげて本来の原型をとどめていないタワーシールドを下ろし、汗を拭った。
「よくやったわ野郎ども。あんたたちの働きぶり、査定にしっかりプラスしておいてあげるわ」
ツムギは木の棒を肩に担ぎ、満足げに頷いた。
システムの常識が一切通用しない理不尽な深淵領域。そこで彼らが見せたのは、システムのアシストを完全に捨て去り、己の直感と物理演算への理解のみで敵を粉砕する、究極の『泥臭い連携』であった。
ツムギの異世界で培った絶対的な実戦経験と、コウタたちのプレイスキルが完璧に噛み合った結果、バグの群れによる大軍勢を強行突破することに成功したのだ。
『……みんな、喜んでる暇はないわよ』
ツムギの右肩に浮かぶナビゲーションAIのエクレアが、かつてなく緊張した、硬い声で告げた。
エクレアの小さな手が指し示す先。
バグモンスターの群れが消滅したことで、空間の最奥に隠されていた『それ』が、ついにその姿を現したのだ。
「……あれが、このシステムの『一番奥』……?」
ツムギが目を細める。
そこにあったのは、巨大な一枚の『扉』だった。
いや、扉という表現は正確ではない。緑色のグリッド線で構成された空間の壁面が、まるでガラスが割れたように巨大な蜘蛛の巣状にヒビ割れ、その裂け目から、底知れぬ赤黒い光が脈打つように漏れ出しているのだ。
亀裂の向こう側からは、これまでのバグモンスターとは比較にならないほどの、冷たく、重く、そして圧倒的な『絶望の気配』が吹き出してきていた。
『この亀裂の向こう側が、本当の【システム・コア】……。アルカディア・オンラインの中枢にして、現実世界の運営ルームと直結している裏側の空間よ。……そして、異世界を滅ぼした【滅びのバグ】の本体が巣食っている場所』
エクレアのホログラムが、恐怖に小刻みに震えている。
「行くわよ」
ツムギは一切の躊躇なく、その亀裂に向かって足を踏み出した。
「ここで引き返したら、私の一千万円が消滅する。推しのライブチケットも、スイートルームも、痛バッグも全部おじゃんよ。……そんなふざけたバッドエンド、絶対に許さないわ」
ツムギの強欲に満ちた背中に引っ張られるように、コウタ、リン、シシオウの三人も、無言のまま武器を構え直して後に続いた。
彼らは亀裂の前に立ち、互いに頷き合うと、ツムギを先頭にして、その赤黒い光の中へと飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
――視界が反転し、強烈な重力場を通り抜けたような感覚の後。
ツムギたちは、システムコアの内部へと降り立った。
「な、なんだここは……!?」
コウタが息を呑み、周囲を見渡した。
そこは、先ほどまでの無機質なグリッド線の空間とは、まったく異質な光景だった。
現代の地球にある『現実のサーバー・ルーム』と、四年前の異世界の『朽ち果てた王城』が、悪夢のように融合したような不気味な空間。
無数の黒いサーバーラックが林立しているが、その表面には異世界の遺跡に見られるような不気味な蔦や苔が絡みつき、明滅するLEDランプはまるで死者の眼球のように赤く光っている。
床には無数のケーブルが、まるで大蛇や血管のようにうねりながら敷き詰められ、部屋の中央に向かって集束していた。
「空気が……重いですわ。呼吸をするだけで、肺の中に氷を流し込まれているような……」
リンが胸を押さえ、苦しそうに顔を歪める。
「姉御、気をつけてくだせえ。ここは、ゲームの中って感じがしねえ。まるで、本当の『墓場』に立たされてるような気分だ……」
シシオウも、タワーシールドを強く握り締めながら周囲を警戒した。
ツムギは木の棒を構え、無言のまま部屋の中心へと視線を向けた。
無数のケーブルが集束する、サーバー・ルームの最奥。
そこには、天井まで届くほどの巨大な『闇の塊』が鎮座していた。
ドクン……。ドクン……。
それは、巨大な心臓のように脈打っていた。
固定された形(3Dモデル)を持たない、不定形の怪物。
真っ黒なタールのような流体が、沸騰するように泡立ち、時に人間の絶叫する顔を浮かび上がらせ、時に巨大な獣の腕を形成し、そしてすぐにドロドロと崩れ落ちる。
あらゆるバグコードと、滅びゆく異世界が最後に残した『絶望』そのものが、純度一〇〇%のデータとして結晶化した存在。
『警告……! 警告……!!』
空間に、システムのアラート音が鳴り響く。
しかし、その音声は激しいノイズに塗れ、文字列もバグって判読不能になっていた。
怪物の頭上に、無理やりシステムのネームプレートが浮かび上がろうとするが、文字が激しく文字化けを繰り返し、やがて、たった一つの単語だけを空間に刻み込んだ。
『 ジ・エンド 』
「ジ・エンド……。終わりの、具現化……」
コウタが、震える声でその名前を読み上げた。
その瞬間。
ズズウゥゥゥゥンッ……!!
『ジ・エンド』の体から、物理的な衝撃波を伴うすさまじいプレッシャーが放たれた。
ツムギたちは強風に煽られたように後ずさり、武器で顔を覆って必死に耐える。
それは、先ほど王都の上空に現れた『魔王』のプレッシャーすらも遥かに凌駕していた。魔王が「破壊」の象徴だとするならば、目の前の怪物は「消去」の象徴。存在そのものを否定し、世界のすべてをゼロに帰そうとする絶対的な虚無。
『ツ、ツムギ! 大変よ!』
エクレアが、ツムギの肩で真っ赤に発光しながら叫んだ。
『外部ネットワークとの接続が完全に遮断されたわ! クロノス(運営ルーム)からのモニタリング信号も弾かれてる! ここは、クロノスのシステム管理者権限すら一切届かない、完全な隔離空間よ!』
「運営の権限が届かない……? それって、どういうことだよ!」
コウタがパニックになりながら尋ねる。
『つまり、ここでHPがゼロになったら、セーフティ(死亡保護)機能が働かないってことよ! 単なるデスペナルティじゃ済まない! プレイヤーのアカウントデータ、インベントリの中身、そして……稼いだお金のデータまで、このバグに根こそぎ『消去』されて、二度と元には戻らないわ!!』
「な、なんだって……!?」
リンとシシオウが顔面を蒼白にする。
ゲームにおける死が、単なるゲームオーバーではなく、これまでの努力と資産の完全な消失を意味する。それは、VRMMOのプレイヤーにとって、現実の死にも等しい究極の恐怖であった。
「……上等じゃないの」
しかし。
その絶望的な宣告を受けてなお、結城紬の瞳から『¥』マークの炎が消えることはなかった。
「運営のクソジジイの助けなんて、最初からアテにしてないわ。……死んだら私の口座残高が消去される? 冗談じゃないわよ。私が四年間タダ働きさせられた末にようやく掴んだ一千万円を、あんな形もないゴミデータなんかに奪われてたまるもんですか!」
ツムギは、恐怖に足がすくむ仲間たちの前に立ち、木の棒をバシィッ!とジ・エンドに向かって突きつけた。
「いいこと、野郎ども! あいつはただのバケモノじゃない! 私たちの口座残高(全財産)をゼロにしようとする、最悪のハッカー(泥棒)よ! あいつをここでぶち殺さなければ、推しのライブも、財閥の資産も、住宅ローンも、ソシャゲの課金データも、ぜーんぶ消えてなくなるのよ!!」
ツムギの叫びが、システムコアの淀んだ空気を切り裂いた。
世界の危機、異世界の絶望。そんな崇高で重苦しいテーマを、彼女は「自分たちのカネと趣味の危機」という極めて世俗的で、しかし誰よりも切実なテーマへと強引に引きずり下ろしたのだ。
「あいつのHPバーを削りきって、この深夜バイトを完遂する! そうすれば、私たちの口座にはさらに一億円が振り込まれる! 時給一万円どころじゃない、人生逆転のボーナスステージよ!!」
「……っ!」
ツムギのその圧倒的な強欲と執念が、コウタ、リン、シシオウの心に火を点けた。
恐怖よりも、全財産を失うことへの怒りと、莫大な報酬への欲望が勝る。これこそが、最強の守銭奴をリーダーに戴くパーティの真骨頂であった。
「やってやりますよ! 俺のソシャゲの限定キャラデータ、五年間毎日ログインして集めたんだ! あんなバグ野郎に消されてたまるかぁぁっ!」
コウタが、震えを無理やり押し殺し、残されたポーションの瓶を両手に握り締めた。
「お姉様の推し活資金を脅かすなど、万死に値しますわ! 東山財閥の誇りにかけて、わたくしが灰にして差し上げます!」
リンが杖を掲げ、全魔力を解放して周囲に無数の魔法陣を展開する。
「俺の三十五年の住宅ローン! 残りの返済の苦しみを、貴様にも味わわせてやるぜェェッ! 姉御、俺の命、最後の一滴まで使い潰してくだせえ!」
シシオウが、ひしゃげたタワーシールドを構え、獣の咆哮を上げた。
『オオオオオオオオオオオオオオオッッ……!!!』
ジ・エンドが、プレイヤーたちの闘志に呼応するように、空間を震わせる轟音を響かせた。
不定形のタールの塊から、無数の巨大な触手が鞭のように伸び、システムコアの天井や壁を破壊しながら、ツムギたちに向かって殺到してくる。
それは、単なる物理攻撃ではない。触れた空間のテクスチャを剥がし、プログラムの根幹を腐敗させる『データの捕食』であった。
「来るわよ! システムのアシストが一切ない、完全なノーガードの殺し合いよ! 自分の感覚だけを信じなさい!」
ツムギは床を蹴り、無数の触手の雨が降り注ぐ死地へと、一切の迷いなく飛び込んでいった。
「シシオウ! 右から来る三本を盾で受け流しなさい! 正面から受け止めたらデータごと消されるわよ!」
「応ッ! 弾くのではなく、流す! 【円月受け】!」
シシオウが盾を斜めに構え、迫り来る触手の軌道を強引に逸らす。
「リン! 逸れた触手の根元に向かって、圧縮した炎熱魔法を叩き込む! 詠唱破棄で手動で編み上げなさい!」
「承知いたしましたわ! システムに頼らぬ、わたくし自身の魔力制御……! 【圧縮炎弾】!」
リンの放った炎の弾丸が、触手の根元に直撃し、タールのような怪物の身体の一部を激しく炎上させる。
「相沢くん! 私に向かってMP回復薬を投げなさい! 口を開けて待ってるわ!」
「無茶苦茶言うな! ……食らえぇぇぇっ!」
コウタが投げたポーションの瓶を、ツムギは空中で見事に口でキャッチして噛み砕き、液体を飲み込みながら、ジ・エンドの本体へと肉薄する。
「お前の口座(HP)残高、一ピクセル残らずデバッグしてやるわぁぁぁっ!!」
ツムギの木の棒が、光属性の結晶石を眩く輝かせながら、ジ・エンドの不定形の身体へと深々と叩き込まれた。
ドガァァァァァァァァァンッ!!!!
運営(神)の権限すら弾かれる完全隔離空間。
ゲームの常識がすべて崩壊したシステムの中枢で、最強の守銭奴勇者と、滅びの具現化との、真の死闘が始まった。
一千万円の札束と世界の命運を賭けた、アルカディア・オンライン最後のブラック労働の幕が開く。




