前編 横浜カフェー<薔薇と黒猫亭>にて
今作は2023年にエブリスタで妄想コンテスト「月夜の遭遇」用に執筆、投稿したものです。
転載するにあたって当時時間がなくて書けなかった部分を加筆、修正しました。
(は? なんだこれ)
仲村湊は手に持ったスマホの画面に表示された日付を見て、漫画のように目をごしごしとこすりたい気持ちになった。二十六歳にもなって、そんな漫画みたいなことはできないと思うものの、何度画面を見直しても日付が【2022年10月1日(土)】と表示されている。
一瞬前までは【2030年11月8日(金)】と表記されていたはずなのに、だ。
息を吐いて雲一つない空を見上げてみれば、さっきはほぼ真ん丸になりかけていたはずの月が、今は太目の三日月になっている。月食じゃあるまいし、一瞬で月の形が変わるものか。
(タイムリープ……?)
突如、そんなSFみたいな単語が思い浮かぶ。とはいえ、SFなんて馴染みがなさすぎて、これが正しい単語かどうかも分からない。
でも自分はスマホが壊れたわけではないのだと、知っている。
自分が今「過去の自分の中に入ってしまった」のだと、なぜか理解している。
理屈ではなく理解していた。
——ここが八年前の世界なのだと。
ありえない。
ありえないはずなのに、何の脈絡も意味もなく、ここが本当に過去の世界であることを、なぜか自分でも理解していたのだ。なんだこれ?
(ということは、まあ、間違いなくこれは夢なんだろうな)
非現実なことなのに、それを当たり前のように理解してるなんて。そんなの夢以外ありえない。
きっと疲れて居眠りをしてしまったのだろう。ここまではっきりとした夢を見るのは初めてだが、「あ、なるほど。これは明晰夢ってやつか」と納得する。
***
湊の最後の記憶は、遅めのランチを食べに横浜カフェーに入ったことだ。
カフェではなくカフェー。
名前の通り横浜にある「薔薇と黒猫亭」というそのカフェーは、昼は食事、夜にはカクテルを中心に酒も出す小さな店らしい。
貰った覚えもない店の名前が入ったレトロなデザインのマッチ箱がポケットに入ってたのを見つけた時、誰かに「グラタンがおいしい店だ」と言われたのを思い出した。
「迷った時に行ってみるといいよ」——と。
あれは誰だったのかはさっぱり思い出せない。会社の飲み会での雑談だった気もするし、大学の時に誰かが言ったのを偶々覚えていただけかもしれない。そんな曖昧な記憶にもかかわらず、(ちょうど近所に来ているし)と、用事のついでに一人でふらりと立ち寄ってみたのはただの気まぐれだった。
とはいえ、もう夜営業が始まった夕方五時過ぎ。本来だったら少し早めの夕食といった方が正しいかもしれない。それでも忙しさで昼抜きになった今日、やっとありつける食事は、湊にとってはランチだった。
(だって数時間後には、確実に夕食も食べるもんなぁ)
すりガラスのはまったくすんだ赤い枠のドアを開けると、なぜか少し眩暈のような感覚に襲われる。
空腹で目が回ったのだろうなんてことを考えながら店に入り、湊は興味深く店内を見まわした。
(おしゃれだな)
店内は入って左手に小さな丸テーブルが三つ。右手のカウンターには七脚のバースツール。テーブル席の二つは埋まっていて、カウンターの奥に年配の男性が一人。
外から見た通り古い店であることは確かなのだが、その古さが完全に味になっている内装だと思った。湊の好みではないが、男ならちょっと憧れる、みたいな感じだろうか。
赤と黒を基調とした店内は、古き良き日のアメリカ映画の画面にでも出てきそう。静かに流れるジャズも雰囲気に一役買っているのだろう。横浜という土地柄もあってか、少しだけ異国に来たような気分になる。
白黒のハーレーの写真が額縁に入っているのが見え、かっこいいなと思った。その下に座っている男性客がちょうどライダーっぽい雰囲気の年配男性だったので、余計に雰囲気がアップしたのだろう。
(大学の時の雪山教授にちょっと似てるな)
教授自身はスーツの似合うロマンスグレイでワイルドさはないのだが、兄弟だと言われたら納得してしまう。そんな懐かしい気持ちでいると、奥で接客をしていた店員が湊に気づいたようだ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか? 空いてるお席にどうぞ」
海老茶色の太い縦縞模様の着物に白いエプロンを付けた店員は、ウェイトレスというより女給さんと呼んだほうが似合いそうな雰囲気だ。大正モダンというのだろうか。黒髪をあごの下で綺麗にそろえた女性店員の和服スタイルは湊にとってあまりなじみのないものだが、店内の雰囲気ととてもマッチしていてコスプレ感が全くない。
店内を改めてざっと見まわした湊は、入り口直ぐのカウンター席に腰を掛けた。
ピークではないとはいえ、一人でテーブルを占拠すると彼女に怒られそうだなと思ったのだ。なお、彼女とは女給さんの事ではなく恋人のことである。
明日の土曜は彼女とデートの約束もある。
お互い多忙な時期が続いたため、久々に週末二人でゆっくり過ごそうと計画しているのだ。
そんな湊の目下の悩みは結婚についてだ。
恋人の沢口みらいは二歳年上のしっかりした女性で、付き合い始めて三年になる。正直なところ、プロポーズしてもおかしくない時期だとは思うのだ。
まだ付き合う前に偶然、彼女が二十代で結婚したいと話しているところを耳にしていたから、来週彼女が二十八歳になることを考えると、きっといい頃合いのはず。
ただ問題は、彼女より自分のほうが年下だということだ。
人が聞いたら、つまらないことと鼻で笑われるようなくだらない悩みかもしれない。
しかし湊としては、二十六になったばかり。仕事にも慣れてきてるとはいえ、まだ頼りなく思われてるんじゃないだろうかとか、家庭を持つには早いのだろうかとか、色々考え始めたら色々悩みが尽きなくなってしまった。湊と同い年の友人で既婚者はイトコを含め女子しかいない為、よけいかもしれない。
彼女と付き合う中で結婚したいとは常に言っていたし、みらいも「そうだね」といつも笑って答えてくれていた。
いつもきっちりとしたシンプルな装いの彼女は、真面目でしっかりしてて、地味で目立たないけど実は顔立ちが整っていることを湊は知っている。時々ドジなところが可愛くて、料理は少し苦手だけど掃除は得意。
湊が掃除と片付けが苦手で料理は好きだから、バランスもいいと密かに考えている。
でも断られてしまったら……?
一度そう考えてしまうと、本気でプロポーズをするのが怖くなった。
彼女より先に生まれたかったと時々思う。
みらいが以前付き合っていた男が年上ばかりだということも、なぜか最近気になって仕方がない。万が一、年下の男は付き合うにはいいけど、結婚は考えられないなんて言われたらショックだ。
(絶対幸せにするなんて言えないのが情けないよな。俺はみらいさんと結婚出来たら、すっごく幸せなのに)
彼女の友達が次々結婚するのを見て、焦っているのが男の湊の方だなんて、彼女は気づいてないだろう。
(なんで彼女の友達は、みんな年上と結婚するのかな。年下だって頼りにしてもらえるよう頑張ってるのに)
みらいとは一生一緒にいる。出会った時からそんな予感があった。
(でも悩むんだよな。せめて年が逆だったらよかったのに)
そんなことを暇さえあれば考えてしまっていたから、無意識に「迷った時に行ってみるといい」店に来てしまったのかもしれない。
(いや。ここはまず飯にしよう!)
腹が減ってはなんとやら。
注文した熱々のチキンマカロニグラタンと温野菜のサラダで腹を満たすと、不思議なほどの満足感が腹の奥から広がった。
空腹だとネガティブな思考になるのだろう。
余興なのか、さっきの女給さんが和風の小さな笛で演奏をはじめた。楽器のサイズに対し太く滑らかな曲は牧歌的で気持ちいい。光の加減で笛からふわっと何かが出たように見えたのもなんだか面白い。
(定期的に通おう)
そう決めて店を出ると、目の前に昇りかけの月が見えた。
スマホを出して時間を確認すると、六時を少しまわっている。すでに日は落ち夜の景色だ。
駅のほうへ足を踏み出した瞬間、一瞬ゆらっとまわりの空気が揺れたような錯覚を覚える。が、次の瞬間。空に見えた月が欠け、まわりの気温が少し上がり、自分の後ろからカフェーがなくなっていることに気づく。
あわててスマホを見れば、表示する日時が過去のものだったのだ。





横浜カフェー<薔薇と黒猫亭>