第八話 空五倍子へと墜ちて逝く潮招
――時間は有限、物資も有限。
土地も、酸素も、人の意識さえも――きっと、限りあるものだから。
無為の浪費を嘆くのではなく、その有限と定められたものを如何に有益な行為へと転換させることこそが、最も重要なことであろう。
故に、澪は息を潜めて機会を窺う――自身の有限を、有用に変質することのできる好機を。
とは言え、現在澪は一人では無い。
この、何処か浮世離れした美女――透華という、無力なクライアントを引率しなければならないのである。
澪だけならば、幾許かの身体能力に任せて逃げ回ることも出来る可能性すら無きにしも非ずであったが、流石に武器不携帯、肉体強化機材も皆無な一般人を弾幕の雨に晒すことなど出来やしない。
それ以前に、澪自身も現在の手持ち装備自体も心許無く――隠し持っていた、小型の拳銃一丁のみである。正面切っての戦闘を目的としていたのではなく、あくまで護衛ということであったのだから――それもまた仕方あるまい、と。
警備員が駆けずり回る音、携帯武器の擦れる音、巡回ロボットの稼働音、通信を取り合う人間の声――依然として騒音冷めやらぬ中、澪と透華は未だ陰影より抜け出せずにいた。
そのような状況下――小さな小さな銃を握りしめ、全身の神経を張り詰めて周囲へと知覚を張り巡らせる澪へと、頬に片手を当てて何処か悩ましげに透華は吐息を香らせた。
――甘い、花の匂いがする。
「澪さん……これから、どうするのでしょうか?」
「とにかく、此処を脱出することだけを考えましょう。大丈夫ですよ、安心して下さい――と言っても、この状況下では何の慰めにもなりませんけど」
「いいえ、私は……澪さんを信じていますので」
「えっ……」
「逃げて、逃げて、逃げ延びて……二進も三進も行かなくなり、立ち往生していた私へと手の差し伸べて下さったのは澪さんです。
例えお仕事だとしても、私一人のため――このような報酬額の割にリスクの高い依頼を引き受けて頂けたのですから、不満などは御座いません」
そんな情けなく苦笑する澪へと、透華は柔らかく微笑んだ。
しかし――だからこそ、澪は彼女より受けた依頼を完遂するしかないと心に決めたのである。
それが例え、どれほど苦難の先だとしても。
澪は、改めて気を引き締めると共に――片耳に集中しつつ、自らの襟元に囁きかけた。
「ナナ――聞こえる?」
『――通信状態問題ありません。其方の目視できる範囲の状況は、如何ですか?』
「全く以って芳しくないね……センサーとかはある程度ナナが誤魔化してくれてるけど、やっぱ人間が結構いるんだよね」
『と、なると――やはり、何処かしらで交戦ポイントが生じてしまいますが……』
「うん……コッチは透華さんを連れているからね。やっぱり、極力ドンパチしたくないんだ」
『承知――クライアントを負傷させるなど、承諾出来かねます』
不意に――。
苦難に顔を顰めながら通信を行う澪へと、控え目な音色を滲ませてた透華より声が掛けられた。
その音は、鐘か――断の音か。
薄暗い中でも確かに認められた中に浮かび上がる透華の表情は、何処か諦観にも似た色を秘めていた。
「――澪さん」
「え、あ、はい……?」
「いよいよと為りましたら、どうか私を置いてお一人で――」
「はい、そこまで」
「――っ」
透華が何を言うつもりであったのか瞬時に察した澪は、即座に彼女の艶やかな花唇へと人差し指を軽く押し付け、二の句を遮った。
咄嗟の行為に目を丸くして台詞を中断し、多少なりとも驚きを浮かべる透華へと――澪は、小さく笑ってこう囁いた。
「今日の僕は、透華さんのボディーガードです。なのに、貴女を見捨てておめおめ一人逃げ出すだなんて――絶対に有り得ません」
「しかし……このままでは、二人とも見つかってしまうかもしれませんよ?」
「それでも、最悪……透華さんだけでも、逃がします。必ず、脱出させます」
「そ、そのようなことはいけませんっ! 私の為に、澪さんが犠牲になるだなんて……そんなのっ」
そんな提言へと、先程までの穏やかな笑みより一転して、透華は澪の手を取り否定した。
最悪の事態には、身を呈してでも澪を脱出させようとの心意気――されど、澪はそれを受け取るわけにはゆかない。
それ故に、澪は出来る限りの虚勢を張って――言い放つのだ。
再び、己が言霊に重ねるように――。
「大丈夫ですよ、透華さん」
「でも……」
「僕もこんな処で死ぬつもりなんて、微塵もありませんから。それに……」
「……それに?」
「僕たちは……ふたりぽっちじゃ、ありませんよ」
未だ不安そうに問い返す、透華の言葉に反応したかのように澪の耳元へと――頼れる声が届くのだ。
『ステージ内システム、掌握完了――ミオ、作戦実行に移りますが宜しいですか?』
「了解――手筈は?」
『其方の建物の警備システム、電力経絡を一時的に遮断します。
出入口の施錠のみ開け放ちておきますので、完全に消灯したら一目散に走って下さい』
「警備員の装備は?」
『此処の登録データを漁った結果――暗視ゴーグル及び、熱源感知機器を入れている者は皆無のようです』
「僕らの道順は?」
『無論、此方で建物内の構造データも抜き取ってあります。逐一、私が指示を送りますので問題ありません』
「非常灯があると、完全には真っ暗にならないんじゃないの?」
『御心配には、及びません』
そう、澪の耳先より聞こえ来るナナが断言した途端――周囲より、炸裂するが如き銃声が轟いた。
そして――寸分も遅れることなく響き渡る、悲鳴の連鎖である。
「――ガァ! バッカ野郎ッ! 誰が撃てって指示したんだァ!?」
「じ、自分たちではありません! 警備……警備ロボットが、誤動作を起こしているようで――ヅァァアア!」
「クソッ! クソクソクソクソォオオオオ! 電子セキュリティーの連中は、一体何をしてやがるッ!?」
「し、主任殿ッ! それが、それが未だ……外部よりのクラックに掻き回されているのでは、無いでしょうか!?」
「こンの役立たず共がァ! 同士討ちなんてシャレにもなんねぇぞ! 総員ッ――暴走ロボより、速やかに身を隠せッ!」
――凄惨と聖餐の饗宴である。
鼓膜を叩き付けるかのような、叫喚の爆音である。
つまりは、この混乱に乗じての逃走であった。
『鉛玉の味は、如何な物なのでしょうね?』
「……上出来だよ、ナナ」
『お粗末様です――それではクライアントを引き連れて、行動に移って下さい。
まずは、その翳より脱して、ミオの左手方面へと全力で駆け抜けて下さい』
「了解――」
ナナへと短く告げた澪は、唐突な阿鼻の連撃に呆け気味であった透華へと緩やかに手を差し伸べた。
「そんな訳なんで、あっちは彼女がどうにかしてくれました。
さ、透華さん……行きましょう」
「……はいっ!」
少しだけ、されど確実に。
先の悲壮感を感じさせぬほどの笑みと共に、透華は差し出した澪の手を滑らかに取ったのであった。
――弾幕が、豪雨の如くあちらこちらで横凪に降り注いでいる。
されど、それは澪たちへと向かうことなく、恰も傾いでいるかのようである。
この鉛の雨が明けたとき――おそらく、透華の心にも一筋の光明が差し込むのではなかろうか。
そして、透華を取り巻く暗雲も霧散し――眩耀な青空が、何処までも……何処までも広がってゆく。
不意に、澪は……そのような光景を幻視していた。




