四
翌日から、ヴィンセントは精力的に行動を開始したらしい。
領地の視察に出向いていた時間に、城内で駆け回る姿が、何度も目撃されている。彼が向かう先は、王のところ。もしくは、政治に携わる貴族たちだ。
「アリーチェ」
滅多に名前で呼んでこない彼に、名前を呼ばれることの意味。それが最近、何となくわかってきた。
たいてい、ろくでもない厄介ごとが待ち受けている。
「……何ですか?」
「午後からの会議に、出席してくれ」
「……私が、ですか?」
思わず、首をブンブンと横に振ってしまう。
エレディタですら、政に関わってこなかったのに。今さら、そんな話を振られても、まともな返答ができるとは思えない。
「いるだけでいい。何か聞かれたら、正直に答えろ。それで十分だ」
「正直に答えろって……それこそ、問題になってしまうのではないですか?」
何しろ、国民の生活すらよく知らないのだ。何もかもに、とんちんかんな答えを出してしまう可能性は、決して低くない。
頑として承諾しないアリーチェに、なぜかヴィンセントはやわらかな笑みを向ける。
「いや、むしろ好都合だ。お前が王位や政治に一切興味がないと、たった一度の会議で証明できる。後の話も進めやすい」
楽しそうな夜空色の瞳が、いたずらを企む子供のように、スッと細められた。
昼食を済またアリーチェは、会議が行われる部屋へ連れていかれた。
部屋は窓が多く、太陽の光が降り注いでいて明るかった。見える範囲に、火のついた燭台は置かれていない。
他の面々はすでにそろっていたようだ。彼と入室したとたん、鋭い視線がいくつも向けられる。
ビクッとして、アリーチェは知らず知らず、つかまれていない左手で、ヴィンセントの上着の裾をキュッとつかむ。
「これはこれは、王太子殿下。ずいぶんと遅いお越しですな」
「たいした遅れじゃないだろうが。それとも何か? 普段から女性に対する扱いを説く卿が、まさか女性を空腹で同行させろとでも?」
「……くっ」
声を発した男性が、悔しそうに下唇を噛んだ。それを見て、ヴィンセントはふん、と鼻で笑う。
「無駄な時間は費やしたくないのでね。さっさと始めてもらおうか」
上座にいる王に向かって歩きながら、ヴィンセントは議事の進行を促す。
ヴィンセントが、王の左隣に座る。他に、空いている椅子はない。アリーチェは彼の後方で立っているつもりで、一歩下がろうとした。
「俺は、連れてくる予定だと伝えたはずだが?」
一瞬で、空気が凍りつく。
「まあいい」
ニッと口元だけで笑ったヴィンセントは、アリーチェの腕をグイッと引っ張る。逆らえるはずもなく、アリーチェはつんのめるように数歩、前へ出た。
「せっかくのお膳立てだ。ありがたく受け取るとするか」
「えっと、どういうことでしょう?」
「こうしろとでも言いたいんだろう」
言うが早いか、ヴィンセントは立ち上がる。ひょいとアリーチェを抱き上げ、再び椅子に腰かけた。
驚きのあまり、声も出せない。
「全員集まったんだろう? さっさと始めてくれ」
遠慮も容赦もないぶしつけな視線が、いくつも突き刺さる。
ようやく、じわじわと。衆人環視の中、ヴィンセントの膝に乗せられている現実が染み渡って。
「あ、あのっ……お、下ろしてくださいっ!」
羞恥に頬を染めたアリーチェが、小さな声で精一杯懇願する。だが、ヴィンセントは聞こえていない振りを貫く。
「こいつに質問があるんだろう? いつまで黙っている!」
緊張した空気をビリビリと震わせる、ヴィンセントの低い怒声に。アリーチェはビクッとして、体をギュッと縮こまらせる。
「問う気がないなら、こいつは戻らせるぞ」
チラリと見上げた彼は、ひどく楽しげで、皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「……お嬢さん、お名前をお教え願えますか?」
視界の外から声が聞こえて、懸命に振り返ったものの、誰が言ったのかはわからない。
「……アリーチェ、です」
ちらほらと、長い嘆息が聞こえた。
首を傾げる者の中に、苦々しげな表情の者が散らばっている。
(私がわかる人が、いるのね……)
恐らく、諦めなかったヴィンセントに、散々こき使われた者なのだろう。
白金色の髪に暗緑色の瞳。アリーチェという名。それだけで、知っている者には、はっきりと理解できたはずだから。
「どこの出身かね?」
「……エレディタです」
「最初に来た時は、修道女の格好をしていたと記憶しているが?」
「……確かに、修道女でした」
いったい何を探っているのか。
そう聞いてしまいたい衝動に駆られるほど、まどろっこしい。
「ほお……殿下は確か、血筋はエレディタの王女と言っておられましたが」
「母は間違いなく、エレディタの第二妃セレーネです。あいにく、幼い頃のことはほとんど覚えておりませんので、十一年も会っていない父の顔はまったく思い出せません」
「なにゆえ、修道女に?」
「さあ、私にはわかりかねます。ある日突然、修道院へ連れていかれて、十一年ほど。それっきりでしたから」
彼は、どうして修道女になっていたかを知っている。だが、無関係の大多数に、それを知られるわけにはいかないのだ。
どうしても、こんな受け答えしかできない。
あまりに堂々として、さりげなく事実を隠す。そんなアリーチェの頭上で、ヴィンセントがこっそりと、小さな笑い声をこぼした。
「では、なぜ、エレディタの王城が陥落した日に、そこに?」
「何となく胸騒ぎがしたので、昔の記憶を頼りに、隠し通路で城へ向かいました。出たところで、運悪くヴィンセント様に見つかった次第です」
「……ずいぶんな言い草だな」
ヴィンセントの声音は怒りを含んでいるが、顔は笑っている。
見上げたアリーチェは、すぐにふいっと視線を逸らした。
「胸騒ぎさえ、しなければ。あの場所に、ヴィンセント様がいなければ。今でも時々、そう考えます」
「そうか? 俺は自分の運のよさに、かえって惚れ惚れするぞ?」
ニコニコと、心底嬉しそうなヴィンセントに、アリーチェはこれ見よがしなため息をついてみる。
「さて、くだらんやりとりもいい加減飽きたな。なあ、アリーチェ。傀儡としてエレディタの女王になるか、それとも俺の正妃になるか。どちらを選ぶ?」
「……あの、ちょっと聞きたいのですが、それだけのために、あんなにまどろっこしい質問を繰り返していたのですか?」
「お前に王位は向かんな」
苦笑いなのか、楽しんでいるのか。わからない彼の微笑に、何だかムカムカしてきた。
「大切なものを守るために必要ならば、王位を継ぐことも考えます」
元々、そう考えていたのだ。
たとえ傀儡にされようと、一族を守れるなら。エレディタの女王になることも、やぶさかではない。
「だったら、俺の正妃になれ。お前も、お前の大切なものも、まとめて守ってやる」
「で、殿下! そのようなことを勝手に決めては……」
「黙れ」
たったひと言。けれど、場はしんと静まり返る。
「俺が滅ぼしたとはいえ、アリーチェはエレディタ王の娘だ。血筋に問題はない。少なくとも、国内の有力貴族からもらうより、俺にとってはよほど有意義だ」
(……私が何を言っても、最初からそういう話に持っていくつもりだったのね!)
やっと、彼の思惑が見えてきて。それにまんまと乗せられた格好の自分が、情けなくて。
そのくせ、彼が断言した内容に、悔しさよりも嬉しさが上回っていて。
「いいか? 俺は、アリーチェ以外の妃を、何があっても絶対に認めない」
彼の熱を帯びた言葉が、強い語気が。アリーチェの頬を、ゆるゆると染めていく。
「し、しかし、王太子妃となるならば、最低限の常識が……」
「修道女は常識がないというなら、人前には絶対に出さん。どうしても出せと言うなら、そうだな……この髪が映える、太陽か月光の下に限って許可をするか」
ヴィンセントはそっと、唇をアリーチェの髪に落とす。
「何しろ、建物の中では、せっかくの愛らしさがかすむ娘なんでな」
臆面もなく、ヴィンセントはつらつらと言葉を並べ立てる。
人と違う。ただそれだけで、ずっと嫌な思いをしてきたからだろうか。
彼のさりげない気遣いと優しさに、思い切り甘えて、泣いてしまいたい気分だ。
「……では、その娘を殿下の正妃とした場合の利点が、ありますか?」
出会った当初の、ヴィンセントのような。冷え切った声音が静かに響く。
「殿下自身でなく、我々に、ですよ?」
ヴィンセントの視線が、下座に近い奥へ、スッと向けられた。彼から漂う空気は、明らかに凍りついている。
「ほぉ……国のために働くのが、お前ら貴族の存在意義だろうが。それを忘れて、自分の利益だけを求めるのか?」
「我々も人間ですからね。完全に善意で、というわけにはいきませんよ」
「ならば、今すぐお前の領地を国へ返納しろ。爵位も剥奪だ。貴族でなければ、お前が何をどうしようと、お前の勝手だからな」
「なっ……いくら何でも、それは横暴が過ぎますよ!」
「横暴で結構。貴族の義務を忘れる者など、元より国に不要だ。王族としての知識など一切持たずとも、守るべきもののために王位に就く、と言うアリーチェの方が、よほどまともだ」
当たり前の顔をして、毅然と渡り合う。
(私が、王位に向かないと言うわけだわ……)
口で相手を言い負かすなど、とてもできそうにない。これから身につけようにも、一朝一夕には無理だ。
格下の相手に必死で頼み込む女王では、国はいずれ立ち行かなくなるだろう。
ただ上に立つことだけが、すべてを守る術ではない。
「ヴィンセント様」
ひどくピリピリした空気を、気に留める余裕はこれっぽっちもなかった。
「あなたの妻となれば、私の大切なものを守るというのは、本当ですか? 何があろうと、しっかり守り通してくれますか?」
「その程度でお前が手に入るなら、いくらでも守ってやる。約束だ」
「でしたら、あなたの妻になります。代わりに、私をこれまで育んでくれたエレディタを──エレディタの民を、これまでと同じ形で生きていけるように守ってください」
きっぱり、はっきり言い切ったアリーチェに、ヴィンセントは、しばらく目を瞬かせていた。やがて、肩を震わせて低い笑い声をこぼし始める。
「……くくっ、本当に、お前にはかなわんな」
「何がおかしいのか、私にはわかりかねますけど……これだけの人の前で約束されたのですから、きちんと守ってくださいね」
「ああ、わかっている。一日でも早く婚約を公表して、式を挙げないといけないな」
言い終えるとほぼ同時に、ヴィンセントはアリーチェの額に口づけを降らせる。
力強い言葉や、夜空色の瞳にはとにかく弱いのに。降ってくる口づけに対して、アリーチェはまったくの無反応だ。
「子供の頃から修道院育ちのアリーチェですら、王族の義務を理解しているというのに……どいつもこいつも、まったくもってふがいないな」
それが挑発だと、アリーチェでもわかった。
「さて、まだこいつに聞きたいことがあるなら、受けて立つが?」
言いつつ、ヴィンセントはすでに腰を浮かせている。どう好意的に見ても、追加の質問を受けつける気などなさそうだ。
「……ゆめゆめ、後悔なさらぬよう」
「十一年追いかけてきた女が、あの頃と変わらないまま現れたんだ。みすみす逃がすことはもちろん、手に入れない選択肢も存在しないだろう?」
誰かの低いうめきに似た忠告に、ヴィンセントは、この上なく嫌みったらしい笑みを浮かべる。そのままアリーチェを抱き上げて、颯爽と部屋を出ていった。
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離宮へ戻ったヴィンセントは、アリーチェを抱き上げた格好のまま、自室のソファにどっかりと座る。
毎日、何度もこういう真似をされれば、嫌でも慣れてしまう。
「……アリーチェ」
心細そうで、寂しげな声。
キュッと音がして、心臓がギュッと縮み上がった。
「本当に、いいのか?」
「何がですか?」
「……俺の、妻になると言ったことだ」
王位を継がないと決めたことか。それとも別件か。そう悩んでいたアリーチェは、こくりと頷く。
「ヴィンセント様が、約束を守ってくださるなら……これまでどおり、母の一族を人目にさらさず生かしていけるなら、決して後悔はいたしません」
二つの夜空をジッと見つめて。ひと言ひと言をできるだけ、はっきりと伝える。
まるで根負けしたように。ヴィンセントは視線を、アリーチェからすうっと外した。
「……お前は、生まれながらにして王女なんだな」
「そうですか? 王女らしい振る舞いは、何ひとつできませんけれど」
「気構えはすでに、一国の王女そのものだ。振る舞いなんぞ、そのうち何となく覚えられるだろうが……心意気は別物だからな」
心構えは、振る舞いを覚えると同時に培うもの。そう思っていたアリーチェは、不思議そうに首を傾ける。
呆れた嘆息が、頭上で聞こえた。
「国のために、好きでもない男に嫁ぐような真似ができるのは、根っからの王女くらいのものだ」
「お言葉ですが、家のために愛もなく嫁ぐ方でしたら、貴族のご令嬢にもいらっしゃいましたよ。その方と私と、たいして違いはないでしょう?」
心持ち沈んだ声音で、顔を向けようとしないヴィンセントに。アリーチェは全力で、ニッコリと微笑みかける。
「でも、私は少なくとも、あなたのことを嫌いではありませんから……エレディタのために、心を無理矢理殺す必要はありません。そこが、大きく違うところでしょうか」
星も月もない、小さな夜空。ジッと見つめていると心が吸い込まれて、頭がぼんやりしてしまう。黙っていたいはずのことを、うっかり話したくなる、不思議な夜。
音になった彼の言葉は、行動よりもたくさん、確実に熱を伝えてくる。容赦なく、振り回してくれる。
それでも、彼を好きか嫌いか。どちらかで聞かれると、返事に困ってしまう。
間違いなく、嫌いではない。けれど、はっきりした恋愛感情があるかと言われると、判断に悩んでしまうのだ。
「……?」
静かな呼吸音も聞こえなくなって、アリーチェは何気なく上を見上げた。
大きく目を見開いて、こちらを見ている彼と。ふと、目が合う。とたんに、彼の顔に赤色が走り抜ける。
「どうか、されましたか?」
急な発熱か。はたまた、別の病気か。
心配になって、アリーチェはヴィンセントの額に手を伸ばす。
「……熱が出たわけではなさそうですね」
ホッと安堵の息を吐いた後で、もう一度。アリーチェはじっくりと、ヴィンセントの顔を見つめる。
「……なあ」
「はい、何でしょう?」
「長の引き継ぎに、まずはひと月、だったな」
「ええ。様子を見て、追加するかどうかを決めるそうです」
知識はともかく、習慣や生活などは、実際に見聞きして経験しなければ身につかない。数年は、折々の行事のたびに、あちらを訪れる必要がありそうだ。
「……アリーチェ」
彼が急に名前を呼ぶ時は、要注意。
それが理解できているから、否が応でも気を張ってしまう。
「ひと月の引き継ぎは、俺が時期を決める。それでも、いいか?」
「えっと、事前にあちらに伝えておけば、問題はないと思いますが……」
近くの街まで馬車で向かい、後は徒歩でも何でもかまわない。そう考えていた。
(もしかして、送ってくださるの?)
「新婚旅行なら、少々強引に日程を調節しても文句は出まい」
「……え?」
まったく、これっぽっちも、予想していなかった言葉。それが彼の口から飛び出して、思わず怪訝な声がこぼれ落ちる。
これ見よがしに、盛大的なため息をつかれた。
「それとも何か? 俺がひと月もお前と離れて平気でいられると、そんな薄情なことを考えているのか?」
「……あ、あの……ひと月くらいでしたら、平気ですよね?」
「無理だ」
「ちょっと我慢してください!」
「嫌だ」
絶対に頷こうとしないヴィンセントに、今度はアリーチェがため息をつく番だ。
「いいか? 俺は何があろうと、お前だけを見て、いつまでも愛し続ける……お前の、迷いそうな深い森に誓おう」
カッと顔が熱くなる。
「……だから、俺から離れることは許さない」
心臓をギュッとつかまれたように、痛くて苦しくて。鼓動がやけに速い。
「……十一年、探してきたんだ。お前だけを送り出したら、またいなくなるかもしれない。そんな不安はもう、うんざりだ」
涙は流れていないのに。彼の声は、声を殺して泣いていた。
「じゃあ、先ほどお会いした貴族の方々が許してくださるなら、一緒に行きましょう。それでいいですか?」
「ああ」
大きく弾んだ、嬉しそうな声と裏腹に。彼の顔には、やけに意地の悪い笑みが浮かんでいる。
(……あれ?)
何か、やってはいけない間違いを犯したのではないか。
ふと、そんな気がしてしまう。
「そうだな……冬になれば暇が作りやすいから、式は秋の終わりで、雪が降る前がいいか。雪が降り始めたら、すぐにここを発とう。それで、雪解けまで向こうで過ごせばいい」
「え……あの、そんなに長く、あちらに滞在するのですか?」
「煩わしさもなく、お前と一緒にいられる時間は、少しでも長い方がいいからな」
彼の言葉どおりに実行すると、式は今からおよそ半年後。出立から戻るまで、内輪に見ても数ヶ月はかかる。
王太子がそんなに留守にして、いいはずがない。
そんな思考が、すべて顔に出ていたのか。彼がくつくつと低く笑う。
「なぁに、冬場は案件も少ない。お前が気に病むことはないし、重要な仕事が入ったら連絡を取ってもらえば済む話だ」
「だからといって……」
「今までずっと、お前が足りなくて生きてきたんだ。半日程度なら離れても平気になるまで、お前はもちろん、周囲にも耐えてもらうからな」
「えぇっ!?」
呆れ果てて、ものも言えないアリーチェの唇に。ニヤリと笑ったヴィンセントは、そっと唇を寄せた。