Ⅴ. データ交換レート
静まり返った民家の庭には、老プログラマーと、ウーティスの二人だけが残された。
ウーティスの体は、激しい衝撃で震えていた。彼はこれまで、力には力で、ハッキングにはハッキングで対抗してきた。裏切りには裏切りを、システムの搾取には憎悪のバグを返すことこそが、この不条理なデジタル社会を生き抜くための唯一の「データ交換レート」だと信じていたからだ。
しかし、この老人が行ったことは、その全ての計算法を無効化する「絶対的な無償の贈与」であった。
老人は、ウーティスの手の中に、残されていた二本の銀の燭台をそっと握らせた。その銀は、朝の光を浴びて、神聖なほどに輝いていた。
「ウーティス・バルジャン、私の兄弟よ」
老人は、国家のデータベースに登録された彼の本当の名前を静かに呼んだ。
「あなたはもう、悪のシステムに組み込まれた存在ではありません。善のプロトコルを実行する人間です。私は、あなたのデジタルな前科と、その頑なな心を、このアセットによって社会から『買い戻した』のです。私はあなたの魂を、暗い憎悪やテロリズムの精神からレスキューし、それを人間性の本来の価値に捧げたのです」
ウーティスは言葉を失った。画面の信用スコアの赤枠が、なぜか消えていくように見えた。
「……なぜだ。なぜ俺を救う。俺はあなたのアカウントをハッキングし、アセットを盗んだ犯罪者だぞ」
「あなたがかつてITの王であったか、あるいは囚人であったかは、私のサーバーのログには関係ありません」
老プログラマーは言った。
「あなたの前に広がるのは、かつての会社への復讐ではなく、『真の人間への帰還』という長い巡礼の旅路です。この暗号資産と燭台を、あなたの新しい『シードマネー(元手)』にしなさい。そして、社会的に正しい人間になりなさい。社会のアルゴリズムがあなたを拒絶するなら、あなたがその天才的な知略とプログラミング能力を使って、誰もデータによって拒絶されない、新しい分散型の社会インフラ(仕組み)を作り出しなさい。それこそが、あなたの本当の、生涯をかけた開発(戦い)です」
老人はそれだけ言うと、キーボードを叩くために静かに家の中へと消えていった。
ウーティスは、果てしないデジタル監視社会の真ん中に、一人で立ち尽くしていた。
手の中にある銀の燭台と、数億円の鍵が眠るウォレットは、重く、そして人間の血の通った温かさを持っていた。
彼の脳内で、何かが決定的に崩壊し、同時に全く新しいプログラムが再構築されていった。
かつて競合を叩き潰し、己の利益とプラットフォームの支配のために戦ったオデュッセウスとしての「エゴイズム」は、この地方都市の片隅において完全にコンパイルエラーを起こして消滅した。
国家という巨大な機構にサイバー復讐を誓っていた囚人百七号の「怨恨」もまた、銀の光の中に溶けて消えた。
「俺は……生まれ変わる」
彼はポケットからスマートフォンを取り出した。国家が彼に貼り付けた「社会的危険分子」という名のラベリングデータ。彼は端末のルート権限を強制奪取し、自身の全行動ログとGPSデータを完全に暗号化された闇の中へとパージ(消去)した。
「我が名はウーティス。デジタル上の、誰でもない男だ。今日から、俺は過去の名前を捨て、この命をデータ社会に虐げられた他者の救済のために組織する」
ウーティス・バルジャンは、大いなる知略の眼光をその瞳に再び宿し、歩き始めた。
彼の胸に灯ったのは、アルゴリズムの支配を打ち破る、消えることのない人間性の松明であった。彼が進むべき「帰還の旅」は、今、ここに全く新しい市場と社会構造を持って、その幕を開けたのである。




