第39話 祈りとお肉
工房用地の候補として最初に確認することになったのは、バーガサレルの南側に位置する広大な土地だった。
街の中心部からは離れているものの、主要な街道へ続く道が残っている。工房や倉庫をまとめて建てられるだけの広さがあり、周囲に民家も少ないため、作業に伴う音や煙が問題になりにくい。
条件だけを聞けば、相場より安く売り出されているのが不思議な土地である。
俺とフレイアさん、アキラさん、ロキ、オティヌスの5人は、町から調査の許可を得たうえで、錆びた鉄柵に囲まれた敷地へ入った。
ロキが同行しているのは、土地の境界だけでなく、地下構造や魔力の流れまで確認するためだ。
オティヌスには、瘴気の残る土地で俺を護衛する役目が与えられている。
ただし、本人は敷地へ入ってから朽ち木の下ばかり覗いていた。長く放置された土地なら珍しい虫がいるかもしれないと期待しているらしく、護衛対象より先に、地面を這う小さな影を追っている。
「その穴へ手を入れる前に、周囲の安全を確認してください」
「確認しておる。中に何かいる」
「俺の安全を確認してください」
「楓は大きいから見失わぬ」
護衛対象を大きさだけで管理する者へ、命を預けてよいのだろうか。
少なくとも、虫より大きい間は発見してもらえるらしい。
敷地の中央には、かつて屋敷が建っていた痕跡が残されていた。
建物そのものは既に取り壊されている。雑草に覆われた石造りの基礎と、崩れかけた地下室への階段だけが、ここに大きな屋敷があったことを示していた。
空気は淀み、僅かに甘い腐臭が混ざっている。
地面の所々が黒ずみ、風が吹いても、雑草の先端だけが不自然な方向へ揺れていた。
「ここは以前、摘発された不動産業者が所有していた土地ですね」
アキラさんは、町から借りた売買記録と、目の前の敷地を見比べていた。
「はい。ただし、不動産業者が最初の所有者ではございません」
フレイアさんが、古い土地台帳の写しを開く。
「この地域を《ルーファウス伯爵家》が治める以前、バーガサレル一帯は《クリスタ侯爵家》の領地でした。この土地に建てられていた屋敷も、クリスタ侯爵家が所有していたものです」
「クリスタ侯爵家……」
アキラさんも、その名前には聞き覚えがあるらしい。
「既に断絶した家ですね。先代当主のジェイド・クリスタが亡くなった後、その弟であるブラッドレイ・クリスタが家督を継いだと記憶しています」
「そのブラッドレイも、後継者を残さず死亡しております。侯爵家の断絶後、この地域は一度王家の管理下へ置かれ、現在のルーファウス伯爵家へ委ねられました」
フレイアさんが説明しているのは、公に残された記録の範囲だった。
ジェイドの死因について詳しい記載はなく、ブラッドレイも当主となってから長くは生きなかったらしい。
クリスタ侯爵家が断絶した後、屋敷と土地は何人もの所有者を経て、最後にあの不動産業者の手へ渡った。
「安い理由は、クリスタ侯爵家が断絶した土地だからですか?」
「それだけではございません」
フレイアさんは、崩れた屋敷跡へ視線を向けた。
「この屋敷では、密かに奴隷売買が行われておりました」
それまで朽ち木の穴へ腕を伸ばしていたオティヌスが、動きを止めた。
フレイアさんによれば、屋敷の地下には、人を監禁するための部屋がいくつも造られていたという。
売買の記録に残されていない者も多い。
家族のもとから攫われた者、借金の代わりとして連れてこられた者、遠い土地から運ばれてきた者。名前すら記録されないまま売られ、その後の行方が分からなくなった者もいた。
地下室からは、鎖や拘束具だけでなく、複数の遺骨も見つかっている。
屋敷が取り壊された後も、土地を訪れた者が誰かの声を聞いたという記録が残っていた。長く滞在した者は悪夢や体調不良に悩まされ、夜になると、何もない地下室から鎖を引きずる音が聞こえたらしい。
不動産業者は、その事情を把握したうえで土地を安く取得していた。
「浄化を行わず、別の相手へ売るつもりだったのでしょうか」
「その可能性が高いと考えております。取得や使用そのものは禁止されておりませんので、土地の来歴をどこまで説明するかは、契約内容に左右されます」
問題を詳しく伝えずに売り、購入者が異変へ気づいた後で、高額な浄化を勧める。
土地を所有者だけで使うなら、異変による被害も本人の責任で済む。
しかし、工房や店舗として利用し、従業員や客へ被害が出れば、責任を問われるのは事業者だ。
何も知らずに購入したとしても、被害を受けた者から見れば、《Hi-end》が用意した危険な職場であることに変わりはない。
アキラさんは土地台帳を閉じ、屋敷の基礎だけが残る場所へ歩み寄った。
崩れた石の隙間には、地下へ続いていた鉄輪が残されている。その表面は赤黒く錆びつき、今も細い鎖の一部を繋ぎ止めていた。
「ここにいた方々の名前は、分からないのですか?」
「確認できたものは僅かです。記録へ残されなかった方々については、どこから連れてこられたのかも判明しておりません」
「御家族のもとへ帰れた方も?」
「屋敷から救出されたという記録は残っておりません」
アキラさんは、それ以上何も尋ねなかった。
静かに地面へ膝をつき、錆びついた鉄輪の前で両手を組む。
魔力を練る様子はない。
術式を唱えるためでも、土地の状態を調べるためでもなかった。
「どうか、ここで苦しんだ方々が安らかに眠れますように」
小さな声が、屋敷跡へ落ちる。
「もう二度と、同じように全てを奪われる方が現れませんように」
それは、誰かへ聞かせるための言葉ではなかった。
家族も、地位も、住む場所も奪われたアキラさんだからこそ、ここへ連れてこられた者たちの絶望を、他人事だと思えなかったのだろう。
白い光が、アキラさんの身体から溢れた。
最初は輪郭を淡く包むだけだった光が、膝をついた地面へ流れ込み、屋敷の基礎に沿って広がっていく。
黒ずんでいた土から、煙のような瘴気が浮かび上がった。
光へ触れた瘴気は、燃えることも、別の場所へ押し退けられることもない。雪が陽光へ溶けるように、音もなく消えていった。
地下室から、いくつもの声が聞こえた気がした。
悲鳴ではない。
長い間、閉じ込められていた息が、ようやく吐き出されたような音だった。
俺の傍らで、オティヌスが黙って屋敷跡を見つめている。
虫を探していた時の軽薄さは消えていた。何を感じ取っているのかは分からないが、アキラさんの祈りが続いている間、一度も声を上げなかった。
「これは……」
フレイアさんも、予想していなかったらしい。
光の広がりを見つめる隣で、ロキだけが地面ではなく、アキラさん自身へ目を凝らしていた。
「ロキ、何が起きてるんですか?」
「これは術式やない」
ロキは即答した。
「人間の魔法は、魔力を組んで、この世界の理に沿う形で現象を起こす。せやけど、アキラは魔力を組んどらん。術式も構築しとらん。ただ祈っただけや」
「祈っただけで、土地を浄化できるんですか?」
「普通は無理や。こいつは祈りに対して、世界の方が結果を返しとる。人が神へ願い、その祈りが届いた時に起こる《奇跡》に近い」
神へ捧げた祈りに似た奇跡。
その説明をしている本人も神なのだが、アキラさんの前で指摘するわけにはいかない。
俺が黙っている間にも、白い光は屋敷跡全体へ広がっていった。
崩れた地下室から漏れていた瘴気が消え、黒ずんでいた地面が本来の色を取り戻す。枯れかけていた雑草も、風に合わせて自然な方向へ揺れ始めた。
やがて光が弱まり、アキラさんの身体が僅かに傾く。
俺が腕を取るより早く、フレイアさんが背中を支えた。
「アキラさん、聞こえますか?」
「はい。少し、力が抜けただけです」
アキラさんは自分の手と、浄化された土地を交互に見ていた。
「私が、これを……?」
「そのようです。どのような術式をお使いになりましたか?」
「何も使っておりません。ただ、ここで亡くなられた方々のために祈っただけです」
本人にも、何が起きたのか分かっていない。
もう一度同じことをしようとはせず、フレイアさんに支えられたまま、静かになった屋敷跡へ頭を下げた。
ロキは地下へ観測術式を伸ばし、浄化された範囲を調べている。
暫くして、その表情から軽さが消えた。
「被害者の残留思念と瘴気は消えとる。地下の魔力溜まりも、屋敷があった範囲はほとんど浄化されたみたいや」
「それなら、この土地は使えるんですか?」
「今すぐ決めるんは早い。敷地の外周にはまだ瘴気が残っとるし、地下水への影響も調べなあかん。それと、もう一つ妙なもんがある」
ロキは、かつて屋敷の中心だった場所へ目を向けた。
「誰かを狙って発動した、古い呪いの残り香や。土地を汚すためのもんやない。標的を殺した時点で、役目を終えとる」
「誰が使ったか分かるんですか?」
「分からん。それが妙なんや。呪いが発動した痕跡は残っとるのに、術者がこの世界の因果へ繋がっとらん」
俺には、言葉の意味を正確に理解できなかった。
ロキ自身も、今すぐ答えが出るとは考えていないらしい。観測術式で痕跡を記録すると、それ以上は追わずに立ち上がった。
アキラさんの祈りによって、土地へ残っていた苦しみは消えた。
それでも、既に断絶したクリスタ侯爵家には、記録だけでは説明できない何かが残されている。
ただ、その正体を調べるより先に、今はアキラさんを休ませる必要があった。
フレイアさんは土地の状態を改めて調査すると決め、俺たちは屋敷跡を後にした。
敷地を出る直前、オティヌスが一度だけ振り返った。
「祈れば、汚れたものでも綺麗になるのだな」
普段のオティヌスなら、浄化された土地より、朽ち木の下にいた虫を気にしていたはずだ。
けれど、今の視線は、アキラさんが祈りを捧げた屋敷跡へ向けられている。
死者の苦しみを感じ取ったのか。それとも、アキラさんの祈りに何か思うところがあったのか。
ヴァルハラの最高神を名乗っているだけあって、オティヌスにも、時には自分の欲望から離れて死者を悼むことがあるらしい。
「そうかもしれませんね」
俺が答えると、オティヌスは浄化された土地を暫く見つめ、静かに頷いた。
今日ばかりは、少しだけ最高神らしく見えた。




