閑話 獅子の落涙と神の領域
彫刻棟の喧騒を離れ、教授室の分厚い扉を閉めた瞬間。
熊谷は、耐えきれずデスクに両手をつき、崩れるように椅子へと沈み込んだ。
自身の指先が、目に見えて震えている。
この道で三十余年、国内の主要な賞を総なめにし、数多の「天才」を育て上げてきたという自負が、一人の教え子が持ってきた石膏の塊によって、文字通り粉砕されていた。
「……写実、だと?」
熊谷は自嘲気味に呟き、震える手でタバコに火をつけようとした。だが、三度失敗してそれを灰皿に投げ捨てる。
結城創が提示した三柱の胸像。
それは技術という言葉で語れる次元を超えていた。
通常の彫刻家であれば、対象を観察し、咀嚼し、自身のフィルターを通して表現する。その際に生じる「歪み」や「誇張」こそが、芸術家の魂の証明となる。
だが、あの作品にはそれがなかった。
まるで対象そのものが、三次元の時空を捻じ曲げてそこに「出現」したかのような、圧倒的な存在の純度。
(指紋一つ、産毛一本に至るまで……執念を越えて、もはや『祈り』に近い。奴は、彼女たちの神性という巨大な光に自分自身の魂を焼かれて消滅してしまったのだ)
熊谷は、翡翠の像の頬に触れようとした時の、あの得体の知れない恐怖を思い出していた。
あの一瞬、不惑の彫刻家であるはずの自分は、石膏の塊を前にして「自分のような汚れた人間が触れてはならない」と本能が叫んだのだ。無機物の塊に、神聖不可侵の結界を感じるなど、芸術家として敗北を認めるに等しい。
「……あれは禁忌だ。あまりにも美しい、毒だ」
モデルとなった三人の女たち。
彼女たちの正体など、熊谷にはどうでもよかった。
ただ一つ確かなのは、結城創という男が、あの超越的な美しさに「愛されすぎている」ということ。
愛は、時に牙を剥く。
彼女たちの完璧な美を写し取れるだけの「空っぽの器」として、創が完成してしまったこと。それが熊谷には堪らなく恐ろしく、そして――たまらなく羨ましかった。
「百点……。ああ、そうだ。百点だよ結城。だがな、芸術ってのは百点を取ったその先にある地獄を指すんだ」
熊谷は、暗い部屋の隅に置かれた、自分が若かりし頃に彫った「最高傑作」に目をやった。
かつては誇らしかったその造形が、今では稚拙な泥遊びにしか見えない。
結城創が持ち込んだ「神」の残像が、老彫刻家の審美眼を、修復不可能なまでに破壊してしまっていた。
「鏡になどなるな。神の操り人形になどなるな」
誰にも聞こえない声で、彼は呪詛のように、あるいは切実な祈りのように独りごちた。
完璧な神の造形を、その手でぶち壊し、醜くとも泥臭い「自分」を刻みつけた時。
結城創は、全芸術家が夢見ても到達できなかった神をも殺す「一太刀」を手にするだろう。
「……見せてみろ結城。お前を愛する神々を絶望させるほどの魂を」
椅子に深く背を預け、熊谷は天井を見上げた。
目尻を伝う液体が、悔しさによるものか、それとも極上の「美」に出会えたことへの歓喜によるものか、彼自身にも分からなかった。




