第19話 黄金比と、布による再定義
電車に揺られること二駅。
駅を降り、若者向けのハイブランドが立ち並ぶエリアへ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。『アルカナ・モード』の店頭に店長の佐藤が仁王立ちしていたのだ。
「……いたわ。来たわねッ!!」
店長・佐藤が、鼻息も荒く俺たちを凝視している。その背後には、まるでSPのように直立不動で控える店員たちの姿。
「佐藤さん、何やってるんですかそんなところで」
「何って、決まってるでしょ! 伝説の再来を最高のコンディションで迎えるためよ! さあ、御託はいいから入りなさい! その新しい『最高傑作』に合う服、既に私の脳内では数パターン組み上がってるわ!」
佐藤は翡翠を一目見るなり、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべた。
店内に案内されると、連休中で混み合っているはずの店内は妙に統制が取れていた。女性客はそこそこいたが、店員たちの「総員戦闘配置」という気迫に押され、誰も携帯を向けたり騒いだりはしない。俺たちはそのまま、パーテーションで仕切られたVIPスペースへと案内された。
「佐藤さん。翡翠の魅力は無駄のない『しなやかな直線の美』にある。控えめな胸部から腰、そして驚異的に長い脚。この計算し尽くされた建築物のような機能美を殺す装飾は禁忌だ」
「分かってるわよ! 彼女に必要なのは、カッティングの鋭さと素材の『張り』。この最高級コットンの白シャツを見なさい。一番上のボタンまで留めた時の首筋のライン、これこそが彼女を『定義』すると思わない!?」
「……悪くない。だが、このスラックスの裾はあと数ミリ絞るべきだ。くるぶしの造形が隠れてしまう」
パーテーションの内側では、俺と佐藤の美学の殴り合いが始まった。
次々に持ち込まれるサンプル、飛び交う専門用語。俺の脳内では、翡翠がまとうべき「正解」の輪郭がコンマ数ミリ単位で研ぎ澄まされていく。
そんな俺たちの様子を、翡翠はシルバーフレームの眼鏡をくいっと押し上げながら、じっと見つめていた。
「主。……この女の提案、0.1ミリ単位で私の『可動域』を測ろうとしています。……ふん、美への執着だけは合理的だと認めましょう。いいでしょう、貴方が望む『最適解』、私に着せてみなさい」
理知の女神と、狂気のデザイナー、そして変態的造形師。
三つの火花が散る中で、翡翠を「再定義」する着せ替え狂騒曲が幕を開けた
数分後。
パーテーションの向こうから現れた翡翠の姿に、俺は満足して頷いた。
最高級コットンの白シャツは、ボタンを一番上まで留めることで、彼女の凛とした首筋のラインを鋭く強調している。そこから流れるように続く細身のスラックスが、驚異的な脚の長さを「直線の美」として完璧に描き出していた。
「……計算通りだ。余計な装飾を排したことで、お前の骨格そのものが持つ『機能美』が浮き彫りになったな」
「主。……この衣服、私の関節可動域と皮膚の摩擦係数を極限まで考慮されています。非合理な締め付けが一切ない。この『佐藤』という個体、演算能力は悪くないようです」
翡翠は鏡の前で眼鏡を指で押し上げ、自身の姿を冷徹に、だがどこか満足げに分析していた。
「最高……! 完璧よ! さあ、お兄さん。今回も『支払い』の話をしましょうか」
「……ああ。これだけの『仕事』をしてもらったんだ。きっちり支払わせてもらう」
俺は、懐にある例の『特務管理基金』を取り出そうとした。
国家予算の「誤差」という名の、事実上の無限決済権。正当な対価を支払うことに躊躇いはない。
だが、佐藤は前回以上にギラついた目で、俺がカードを出すより速くその手を制した。
「お金なんて、この『奇跡』の前ではただの紙屑よ! そんなものより、もっと価値のあるものを寄越しなさい!」
正直、面倒ごとは避けたかった。だが、意外にも翡翠が短く答えた。
「主。許可を。このデバイスによる『視覚情報の記録と拡散』が、現代社会においてどのような波及効果を生むのか。そのプロセスを至近距離で観測したい。……興味深いデータが取れそうです」
翡翠の知的好奇心が動いたのなら、止める理由はない。
なし崩し的に、既に準備万端だった琥珀と紅羽も合流し、三人がカメラの前に立った。
シャッター音が鳴り響く中、俺は背筋が震えるのを感じた。
琥珀は、店側のスタッフが前回の経験から絶妙な距離感を保っているせいか、終始落ち着いた様子で静謐な神性を漂わせている。
紅羽は、溢れんばかりの自信をまとい、情熱的なポージングで見る者の魂を焦がすような色香を振りまく。
そして翡翠は、氷のような冷徹さと、計算し尽くされたラインの美しさで空間を切り裂く。
琥珀が『慈愛』を、紅羽が『情熱』を、そして翡翠が『秩序』を。三人が並んだ瞬間、空間のパースが彼女たちを中心に再構成された。それはもはやファッションショーではなく、三つの異なる宇宙が衝突し、融和するビッグバンの観測だ。スタッフの一人が『ああ……浄化される……』と呟き、崩れ落ちるように膝をついた。
「これよ……! これが私の求めていた『究極』の光景よ……!」
周囲の店員たちがその神々しさに圧倒され、腰を抜かさんばかりになっている中、佐藤だけは創作意欲の炎を燃やし、一心不乱に指示を飛ばしている。
俺はといえば、カメラの邪魔にならない場所で、無意識にクロッキー帳を広げていた。
「……ああ、いいな。衣服を纏うことで、裸体だった時とは別の『境界線』が生まれている。布の皺、張りが、彼女たちの肉体のパースをより鮮明に補完している……」
裸婦の造形も至高だったが、衣服によって「再定義」された今の彼女たちもまた捨てがたい。
狂ったように走る鉛筆の音と、佐藤の絶叫、そしてシャッター音。店内の客たちは、もはや買い物どころではなく、目の前で繰り広げられる「神々の顕現」を、ただ呆然と拝んでいた。




