プロローグ 数千万年の沈黙、一滴の衝動
その日、俺――結城創が、近所の公園で開催されていたフリーマーケットに足を運んだのは、単なる気まぐれだった。
美大の課題に追われ、三日三晩ろくに寝ていない脳が「非日常的な質感」を求めていたのかもしれない。広場には使い古された子供服や、誰のものかも分からない食器が並んでいた。そんな日常の垢がこびりついたような場所で「それ」は異彩を放っていた。
「……これ、いくらですか?」
思わず足が止まる。ブルーシートの隅に無造作に置かれた拳大の石。いや、それは「牙」の化石に見えた。表面には幾何学的ともいえる緻密な文様が刻まれ、角度によっては内側から朱金色の光を放っているように見える。
「それか。……出所は分からんが妙に目を引く石でね。1万でどうだ?」
普通の大学生なら眉をひそめる価格だろう。だが、俺は「二度と出会えない」というオタク特有の直感に突き動かされていた。財布に残った有り金をすべて叩き出し、俺はその「牙」を奪い取るようにして持ち帰った。
――これが、俺の「平凡」が粉砕される前秒だった。
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「……たまらん。この曲線の流れ、人類の設計思想じゃないな」
四畳半のワンルームに帰り、卓上ライトの下で改めて化石を眺める。あまりの興奮に、ドクンと心臓が跳ねた。極度の寝不足と高揚感が、俺の毛細血管を限界まで拡張させる。
ツン、と鼻の奥で熱い何かが弾ける感覚。
――ポタッ。
「あ……」
あろうことか鼻血が化石の表面に落ちた。慌ててティッシュを伸ばしたときには、もう遅かった。鮮血は石の表面に弾かれることなく、スポンジが水を吸うように、スウッ……と内側へ消えていったのだ。
直後、部屋の静寂が死んだ。
『ドクン……』
地響きのような重低音が、俺の足元から響く。石の表面に血管のような赤い筋が走り始めた。冷たかったはずの化石が、まるで生き物のように生暖かい熱を持ち始める。
「うそだろ、これ、ただの石じゃないのか……?」
ピキッ、と乾いた音がした。
化石の外殻がひび割れ、剥がれ落ちていく。中から現れたのは、現代の生物学では説明のつかない、虹色の光沢を放つ未知の鱗。
それは加速度的に巨大化していった。
「待て、待て待て! デカすぎる、ストップだ!」
俺の悲鳴など無視して、元化石は部屋の容積を無視して膨れ上がる。
本棚がバキバキと砕け、窓ガラスが圧力でひび割れた。逃げ場を失い、壁際に追い詰められた俺の目の前で,
巨大な黄金の瞳が開く。
そこにいたのは伝説の「龍」そのものだった。
龍は巨大な顎を開き、俺の喉元へと迫る――死を覚悟し、目を瞑った。
だが、訪れたのは衝撃ではなく、地鳴りのような甘えた声だった。
『グルル……ゥゥ……』
恐る恐る目を開けると、龍は「おかわり」をねだる猫のように、巨体を壁にこすりつけながら俺に鼻先を寄せていた。鼻血がついていた俺の手を物欲しそうに眺めている。
「……俺を、親か何かだと思ってんのか?」
問いかけると龍の瞳に知性の光が宿った。
まるで俺の血に含まれる「情報」を読み取ったのか、龍の巨躯が霧のように揺らぎ、凝縮されていく。
「これでよろしいですか? マスター」
霧の中から現れたのは、透き通るような肌と白金髪を持つ、一糸まとわぬ美少女だった。彼女は嬉しそうに、全裸のまま俺に抱きついてくる。
「な、なんだって……!?」
混乱の極致。だが現実は待ってくれない。
「おい、結城! 今の音は何だ! 大丈夫か!?」
隣人の怒声と共に、半壊したドアが外側から蹴破られた。
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「……んで。気がついたら、こうなってたんだ」
四時間後。
俺は、ボロボロの鞄を抱え、ブカブカの俺のパーカーを一枚だけ羽織った彼女――琥珀を連れて夜道を歩いていた。
部屋は「ガス爆発に似た怪現象」として処理された。面倒見の良い隣人がテキパキと通報し、警察と病院をハシゴする羽目になったが、結局「原因不明」の厳重注意で放免されたのだ。帰る場所を失った俺に残された選択肢は、一つしかなかった。
こいつを、どうやって家族に説明するか。俺は胃をキリキリと痛めながら深夜の住宅街を歩いた。
「マスター。先ほどの紫の雷、お気に召しましたか?」
「琥珀、あれは『名付け』に感動したからって出しちゃダメなやつだ。街が停電するかと思っただろ」
名付けた瞬間に空を裂いた紫電を思い出し、俺は頭を押さえる。歩くこと一時間。ようやく見えてきた懐かしい我が家の門。俺は意を決して、玄関のチャイムを鳴らした。
「はーい……あら、創! 連絡もなしに……って、その子は?」
出迎えた母の目が、俺の隣で無表情に立つ絶世の美少女に釘付けになる。
「……母さん。信じられないと思うけど、フリマで買った石に鼻血をかけたら、こうなったんだ」
三日不眠の脳が弾き出した正直すぎる説明。
直後、背後から父親と、そして……何より恐ろしい妹の気配が迫ってきた。
「ちょっとお兄ちゃん、何そのファンタジーな言い訳!? てか、なんでその人、お兄ちゃんのパーカーしか着てないのよ! 変態! 警察!? 警察呼ぶよ!?」
結愛の絶叫が夜の住宅街に響き渡る。
俺の「日常」は、この瞬間、音を立てて完全に崩壊した。




