プロローグ 数千万年の沈黙、一滴の衝動 前半
プロローグ 前編
その日、結城創――俺が、近所の公園で開催されていたフリーマーケットに足を運んだのは、単なる気まぐれだった。
美大の課題に追われ、三日三晩ろくに寝ていない脳が「五感を揺さぶる強烈な刺激」を求めていたのかもしれない。
広場には、色褪せたプラスチックの玩具や、誰のものかも分からない曇った食器が並んでいた。安っぽい洗剤と埃の匂いが混じり合う、そんな生活の垢がこびりついた場所で「それ」は異彩を放っていた。
「……これ、いくらですか?」
思わず足が止まる。ブルーシートの隅に無造作に置かれた拳大の石。いや、それは「牙」の化石に見えた。表面には幾何学的ともいえる緻密な文様が刻まれ、角度によっては中心部にある琥珀色の核が、朱金色の光を脈動させているように見える。
この曲線の流れを逃せば、一生後悔する。創作に携わる者としての直感が、逃がすなと告げていた。
「それか。……出所は分からんが妙に目を引く石でね。一万でどうだ?」
普通の大学生なら眉をひそめる価格だろう。だが、今月のキャンバス代を諦めてでも手に入れる価値がある。そう思った俺は、財布に残った有り金をすべて叩き出し、その「牙」を大事に抱え込んで持ち帰った。
――これが、俺の「平凡」を粉砕することになるとは露ほども知らなかった。
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「……たまらん。この有機的なライン、人類のデッサン力じゃ一生辿り着けない領域だ」
四畳半のワンルームに戻り、卓上ライトの下で改めて化石を眺める。あまりの興奮に、心臓がキャンバスを叩くようなリズムで跳ねた。極度の寝不足と高揚感が、俺の毛細血管を限界まで拡張させる。
ツン、と鼻の奥で熱い何かが弾ける感覚。
「あ……」
あろうことか鼻血が化石の表面に落ちた。慌ててティッシュを伸ばしたときには、もう遅かった。鮮血は、緻密な文様の溝をなぞるように滑り込み、乾いた大地が雨を待っていたかのように、文様の奥へと貪欲に飲み込まれていった。
直後、部屋の静寂がはじけ飛んだ。
『ドクン……』
地響きのような重低音が、俺の足元から響く。
石の表面に血管のような赤い筋が走り始めた。冷たかったはずの化石が、まるで生き物のように生暖かい熱を持ち始める。
「うそだろ、これ、ただの石じゃないのか……?」
ピキッ、と乾いた音がした。
化石の外殻がひび割れ、剥がれ落ちていく。中から現れたのは、現代の生物学では説明のつかない、虹色の光沢を放つ未知の鱗。
それは加速度的に巨大化していった。
「待て、待て待て! デカすぎる、ストップだ!」
俺の悲鳴など無視して、むき出しの核は狭い立方体を内側からミシミシと圧迫する。
床が悲鳴を上げ、愛用の大型イーゼルが無残な音を立てて砕けた。逃げ場を失い、壁際に追い詰められた俺の目の前で、巨大な黄金の瞳が開く。
そこにいたのは伝説の「龍」そのものだった。
龍は巨大な顎を開き、俺の喉元へと迫る――死を覚悟し、目を瞑った。
だが、訪れたのは衝撃ではなく、地鳴りのような甘えた声だった。
『グルル……ゥゥ……』
吐息が熱風のように頬を撫でた。恐る恐る目を開けると、龍は「おかわり」をねだる猫のように、巨体を壁にこすりつけながら俺に鼻先を寄せていた。鼻血がついていた俺の手を物欲しそうに眺めている。
「……俺を、親か何かだと思ってんのか?」
問いかけると龍の瞳に知性の光が宿った。
まるで俺の血に含まれる「情報」を読み取ったのか、龍の巨躯が、まるで水面に落としたインクのように揺らぎ、一点へと凝縮されていく。
「これでよろしいですか? マスター」
霧の中から現れたのは、どんな名画を並べても霞んでしまう、暴力的なまでに完璧な色彩の調和だった。
透き通るような肌は、磨き上げられたどんな大理石よりも滑らかで、月光を閉じ込めたような白金髪が、この世ならざる純度で輝いている。一糸まとわぬ、あまりに完成された造形に、俺は恐怖も忘れて、一瞬だけ「描きたい」と魂を奪われた。
「な、なんだって……!? というか、服! 服を着ろ!」
混乱の極致。だが現実は待ってくれない。
「おい、結城! 今の音は何だ! 大丈夫か!?」
隣人の怒声と共に、半壊したドアが外側から蹴破られる寸前、俺は反射的に脱ぎ散らかしていたパーカーを彼女の頭から被せた。
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