夜_景芝
「……礼なんて、言わないぞ」
二人より強めの酒を買ってから、同じテーブルに着いた朱真に。
紅兎の一言目が、それで。
「いらんよ。身内の不始末だ」
やはり、朱真は素っ気なく返す。
「じゃあ、馬返せ」
「今さら返すか」
それは、さすがに返せないだろう。
街の噂に聞こえただけでも、優勝者の名前よりも、その馬の話題の方が多いくらいだ。すでに次代の南公の象徴とも呼ばれているほどだった。
それでも不満げな紅兎に、朱真はどこまで本気か知らないが。
「まぁ、オレが泰陽に行っている間に、孔族が世話してくれるなら助かるがな」
だが、そのわざわざの譲歩にも。
「ふん。預かりパクしてやる」
紅兎はとんでもない言葉を返して。
「じゃあ、学院に戻るのか?」
「ああ。この春限りかと思っていたが、それでは足りなくなりそうなんでな」
足りない学問、それは。
「――――南公に、なるのか?」
上目遣いで向けられる紅兎の真剣な眼差しも、朱真は軽くはぐらかして。
「さぁな」
遠く、景芝の街を見晴るかすと。
「オレになれ、という声が多いなら、そうなるかもしれんが」
その飄々とした態度とは裏腹に、その声には確固とした意志が感じられた。
紅兎も、それを感じ取ったのか。
それでも、俯いたままで。
「……アタシは」
「ああ。紅家の娘になる、と言うなら、いらんぞ」
「――――は?」
ぽかん、と、紅兎が顔を上げた。
朱真はそれを、馬鹿を見るような顔で見返して。
「お前のような娘がいるか」
「なんだと!」
噛みつく紅兎を、片手であしらうと。
「紅義もな。生きていてくれれば、それでいい、と言っていた。紅家の血が流れていることを、拒否しないでくれるなら、それだけで充分だ、とな」
あの時の、穏やかな笑みを思い出す。少しだけ、淋しげな。
紅兎は、もう一度、顔を下げて、自分の両手を見つめた。
そこに透ける、赤い血。その半分は、紅家のものだ。
紅誠の娘であること。紅義の義娘であること。
それを、忘れないでさえ、いてくれるなら。
ぎゅっ、と。
強く、強く、目を閉じて。
心に刻みつけてから、顔を上げる。
そして、そこにある朱真の顔を、正面から睨みつけた。
「――――アタシは!」
……途切れた。
朱真は何も言わず、ただ真っ直ぐに、その鳶色の瞳を見つめ返す。
紅兎は、もう一度。意を決し直すと。
「じゃあ、アタシは、族長になる!」
――――は?
あまりに予想外な宣言に、間抜け面で言葉を失う二人。
しかし紅兎は、むしろ必死な表情で。
「今の孔族じゃダメだ! アタシが族長になって、その、ほら、ちゃんとさせる!」
「……ちゃんと、な」
「……ちゃんと、ねぇ」
たどたどしいその所信表明に、呆れを通り越して、繰り返すことしかできない。
だが、紅兎はどこまでも真剣に。
「うっさい! 今はまだ、……だけど、これからだ。アタシは、これからなんだ!」
両手を堅く握り締め、何度も大地を踏みつけて。
呆れる二人を、そう怒鳴りつけて。
「だから――――」
堅く握り締めたままの、その右手を、ずいと前に。
「――――?」
差し出された形の朱真が、訝しげに見つめる中。
その手が、親指を上に、おずおずと開かれて。
「だから!」
もう一度。さらに、ずずい、と。
朱真も、ふっ、と鼻で笑いつつ。
差し出されたその右手を、しっかりと握り返した。
「よろしく、頼む」
「頼まれてやる!」
最後まで、強気で、上から目線で。
それが、なんとも、紅兎らしくて。
「……鼻で笑われながらの握手って、どうなんですか。」
「うっさい!」
どうしても、茶化さずにはいられない。
「……顔、赤いですよ?」
「もっと、うっさい!」
握られた右手を振り払い、紅兎が碧流に向かって振り上げた。
でもそれは、振り下ろされることはないままに。
碧流の鼻先を指差して。
「いいか、覚えてろよ! この、……バーカ!!」
さらに、朱真に向かっても。
「バーカ!!」
子どものような罵倒を残して、どこへともなく走り出す。
「……あれが、次代の族長なのか?」
「なんとも、頼もしい長ですね」
顔を見合わせた二人は、苦笑するしかなく。
それでも、孔族の先頭を駆ける紅髮の族長の姿は、なぜか容易に想像ができて。
「バ――――カ!!」
遠くから響き渡る罵声にも、もう笑いしかこみ上げてはこなかった。
これまでのすべてを、笑い飛ばせるほどに。




