朝_闘技場
闘技場は、一つの建物のように見えるが、主に、階段状に設えた観客席を四つ、簡単に廊下で繋いだだけでできていた。それに、入場口や、控え室用の建物を加えて、全体を闘技場と呼んでいる。
朱真は、あの日から、意図的に避けてきた、闘技場の威容を見上げた。
試合が始まるにはまだ早いが、それでも、もう観衆は集まり始めている。
少しでもいい席が取りたいのだろうか、それとも闘技場自体を見にきたのか。
それで、朱真も、闘技場が景芝の名物であることを思い出した。
あいつは、これを見ることができたのだろうか。
祭り見物と言って連れてきたのに、今日この街にいない友人を想う。
――――さっさと片付けて、串焼きくらいは食わせてやるか。
そんな風に、自分らしく気合を入れて。
「頼むぞ、相棒」
充分に馴らした、とはとても言えない、青鹿毛の首筋を軽く叩く。
最初は馬装すらままならなかったが、なんとかハミも噛むようになってきた。
少しは諦めてくれたのだ、と思いたいのだが。そうやって、気を緩めると。
ガチン、と。首を回し、叩く手に噛みついてくる。
「……試合前に怪我させるのは、勘弁しろよ」
素早く手を避けた朱真に、なおも挑戦的に、ぶるる、と鼻を鳴らした。
やれやれ、と。
肩をすくめて、苦笑する。
今日は、こいつとの戦いでもありそうだ。
決意も新たに。少し強めに、手綱を引いて。
朱真は、足を踏み出した。
これまで禁忌としていた、闘技場の中へと。
「――――本当に、来たんだな」
その揶揄の声は、朱真には予想されたものだった。
指定された馬房に馬を入れ、自分の武装も整えて。
少し、身体でも動かしておこうかと思った、その矢先だった。
「王者自らご挨拶いただけるとは、光栄だな」
揶揄には揶揄で返し、朱真が笑う。
からかうつもりが先手を打たれ、朱塊が強く舌を打った。
しかし、すぐにその顔色を戻すと。
「うちの牧場には顔も見せなかったらしいが、どこで馬を調達したのだ? その図体を乗せる馬など、馬車馬くらいしかないだろうに。貧相な痩せ馬になど乗って、脚を折って失格、なんてことのないようにしてくれよ」
軽薄な口調でぺらぺらと、わかりやすい挑発をくれる。
これには、朱真も苦笑するしかなく。
「オレも遊牧民の端くれ。自分の一頭くらい、自分で捕らえるさ」
そう言って、馬房の閂を外した。
壁に掛けていた手綱を引くと、のっそりと、青鹿毛の巨体が姿を見せる。
朱塊が、息を呑むのが伝わってきた。
そうだろう、南須の国民にとって、この馬は大きいだけではない。
「こ、こんな大きな馬を、一体、どこで、、、」
いや、朱塊にとっては、ただの大きな馬らしい。
孔族の神馬も知らんのか。見せつけるつもりが、アテが外れる。
だが、馬の巨体に呑まれたこともあるが、朱塊の驚きはまた別にもあって。
朱真が参加すると聞いた朱塊は、すぐに、朱真へ馬を譲り渡すことを禁止した。
今や、朱塊の命は、朱家の内はもちろん、景芝中の牧場へと及ぶ。
南須国内に他に繋がりも持たないだろう朱真にとっては、それは大会用の騎乗馬を得る唯一の伝手のはず。それを潰されては、勝負以前に万事休す。
参加表明したはいいが馬がいなくて棄権、というのは、過去にもない恥だろう。もし、窮した末に頼ってきたならば、それこそ痩せ馬の一頭もあてがってやろうと考えていたのだが。
これほどな馬は、そもそも、どの牧場を探そうとも、いるものではない。
そもそも牧場にも馬飼にも頼らなかった朱真は、朱塊が裏でそんな手を打っていたことすら知らずに。
「馬とは、牧場でしか産まれぬものではないぞ」
呆れた口調で、子どもに教えるように諭す。
馬車馬に乗る朱真の姿を想像して、陰でほくそ笑んでいた朱塊だったが、それ以上の巨躯を見せられれば、その笑いも乾くしかなく。
「は、はは。馬を野で捕らえねばならんとは、貧乏人は大変だな。しかもこんな、無骨で、粗野な野生馬など。暴れて試合にならぬ、ということがなければ良いが」
蔑まれたのがわかったのか。朱塊へ向けて、いきなり青鹿毛が歯を剥いた。
上がりかけた声は嚙み潰し、下がりかけた一歩は踏み止まったが。
それでも荒れる鼓動を、なんとか抑えつける朱塊。
朱真は、笑いを噛み殺しつつ。
「失礼。確かに、少々やんちゃが過ぎてな。試合ともなれば、相手に噛み付くこともあるかもしれん。もし、当たることがあれば、気をつけられよ」
朱塊の顔が、羞恥に染まる。
従兄弟などに、虚仮にされた。怒りに任せて、怒鳴りつける。
「このような駄馬で、伝統ある大会に出場するなど、朱家の恥だ! これ以上、家名に泥を塗らぬうちに、去れ!!」
結局、そうなるのか。
あまりに予想通りの展開に、朱真は先ほどにも増して、呆れ返ってしまう。
「一戦も交えずに去る方が恥だと思うが」
こんなつまらぬことばかりしているから。という怒りは、まだ押し込めて。
それは、当然の返し。だからこそ、朱塊は、かかった、とばかりに。
「そうでもないさ。棄権なら、慣れているだろう?」
不意に。禁忌に土足で踏み込まれて、朱真の肩に力が籠った。
そうだ。朱塊は、あの日のことを知っているのだ。
あの時、朱真が、紅信が、次に当たるはずだったのは、朱塊だったのだから。
「山場で突然いなくなるくらいなら、最初からいない方がいいだろうよ」
その、公家の跡取りとは思えぬ、下卑た笑み。
いや、公家らしい、のか。
知らず睨みつけていた視線を外して、朱真は己が冷静さを取り戻すように。
「今回は、そういうわけにもいかなくてな。やらねばならんことがある」
見せた弱みはつけ込むもの。朱塊は、そう言わんばかりに。
「ほう、それは、なんだ? もう、妬むべき義兄もおるまいに」
あれを、朱塊は、妬みゆえ、と思っているのか。
それは、いかにも、朱塊らしい考えで。
思わず、朱真から、苦笑が漏れた。
「……何を、笑う」
「いや、失礼。随分と、お気楽なものだ、と思ってな」
「なんだと!」
わかりやすい挑発に、簡単に引っかかる。
これでも、王者か。
「オレのやらねばならんこととは、その迷蒙を開くことだ。そして、一昨年、お前に預けたものを、返してもらう」
「預けた、だと? ふん、思わぬ結果に恐れて、逃げ出した者が、よく言うわ!」
もう、そんな安い嘲りに、乗ってはやれない。
「お前が、ここまで、畏れることも知らぬ者だと思わなかっただけだ。お前ら親子が、もう少しでも真っ当であれば、オレがしゃしゃり出ることもなかったろうよ」
それは、朱真の本音。だが、朱塊はそれも単なる挑発と取ったのか。
「おのれ、親父まで愚弄するか!」
朱真は、もはやそちらを見もせずに。
「一応、怒りはするのだな。褒め讃えて欲しければ、父の愚行を諌めるべきだ」
馬を馬房に戻し、手にした手綱を壁に戻す。
その淡々とした所作に、朱塊は歯ぎしりすら立てて。
「……貴様。これほど世話になっておいて、何を抜け抜けと」
朱塊は怒っている。
だがそれは、ただ愚弄されていると感じているだけ。
怒りに囚われただけの、怒りだ。
「正しく反論もできぬか。だろうな。お前のことだ、親父殿が何をしているか、知ろうとしたこともないのだろう」
言葉の意も介さぬのでは、変われるはずもない。
それを裏付けるように、朱塊がわめく。
「オレは南公になるのだ! 朱家のことは、当主に任せて、何が悪い!」
考えもせぬ、その常識が、朱真の精神を引っ掻いた。
「口を出さぬのと、口も出せぬとは違う。知りもせぬのでは、出せぬだろうよ。お前のような者が、公位をますます飾り物にするのだ!」
朱塊の顔を睨みつけ、初めて朱真は激昂する。
それはあの日、碧流へ、自嘲のように口にした言葉。
朱真にああ言わせたのは、今の南須国を作ってきた輩どもだ。
「お前らに任せておいては、それこそ朱家の家名が泥に染まる。仕方ないから、オレが出るのだ。まずは、その、ガキ臭い口調をなんとかするところから始めろ。いつまでも、誰にも相手にされないままだぞ」
朱真は、それを変えるために、上がりたくもない舞台に上がるのだ。
「黙れ!」
既に、出せる言葉は出し尽くしたのか。
朱塊はただ一言、強く怒鳴ると。
「この決着は、試合で、だ。今度はオレが、お前の喉を貫いてやる」
吐き捨てて、振り返ることなく、去っていった。
だが、そこで。もし、一度でも、振り返っていれば。
朱塊は、少しは溜飲を下げることもできていただろう。
その、真っ青に血の気の引いた、朱真の顔色を見ることができていれば。
赤のイメージが、脳裏を去らない。
どくどく、と。迸るように。いつまでも、流れ続ける、赤が。
朱真の出番は、既にやって来ていた。
青鹿毛を引き、待機用の通路に立っている。
それでも、朱真の視界は、仄赤く、染まっていて。
「騎乗!」
脇に立つ兵士から、鋭い指示がかかる。
考えることもなく、朱真が馬に跨った。
正面は、すぐに試合場だ。歓声は、この薄暗い通路にまで届いている。
一際高く、声が上がった。
先に、対戦相手が入場したのだろう。
もう何度も出場している選手で、昨年は惜しいところまで進出したはずだ。
その分、人気も高い。観客の多くは、彼の勝利を信じているのだろう。
一昨年、決勝戦を前にして棄権した、朱真などではなく。
――――オレは、また悪役か。
手にした長槍の穂先が目に入る。あの時のものよりは、ずっと太い。
泰陽へ行く時に作ったものだ。手にも充分に馴染んでいる。
だから、あの時よりも、強く、速く、相手の、の――――
「――――うおっ、と」
急に馬が棹立って、朱真が仰け反った。
振り落とされることこそなかったが、慌ててバランスを立て直し、腿を締める。
馬鹿にするように、馬がぶるる、と鼻を鳴らした。
「……お前」
睨みつけるが、馬は素知らぬ顔で正面を眺めており。
「……行くぞ、大丈夫か?」
呼び出しの兵士には、半笑いで確認される始末。
「問題ない。いつでも」
いつものように。何事もなかったかのように。
朱真が、馴染んだ槍を手挟んで。
「朱真!」
大きな呼び出しの声に合わせて、朱真は試合場へと跳び出した。
――――馬にまで、気を使われるとはな。
苦笑混じりで自嘲する。
だが、その分、気合いは入った。
朱真の登場に、大きな歓声はなかった。代わりに、どよめきが漂う。
それは恐らく、朱真へではなく、この騎乗馬へと向けられたものだろう。
少なくともこの数年、この会場に、この大きさの馬が現れたことはあるまい。
開始位置に着き、南公と、対戦相手に礼をする。
――――これで満足か、ご老体。
遠目に見えた南公へと、心のうちで告げて。
「始め!」
審判の合図とともに、朱真が前に出た。
「ハァッ!」
牽制代わりに、一つ払う。
相手も前に出て受ける、かと思いきや、やや引いた位置でそれを捌いた。
馬が、前に出ようとしないのだ。朱真の馬に、怯えている。
朱真に、苦笑が漏れた。
――――もう少し、馴らしをしたかったのだがな。
これでは訓練にもならない。
朱真は、一気に片を付けるべく、左右から連撃を繰り出す。
相手は、動かない馬に困惑しながらも、なんとかその槍を受け止めるが。
立て続けに、両腕に傷を負って。
「そこまで!」
思いもかけない早さで、審判から二度目の声が飛んだ。
観客も、予想もしない展開だったのだろう。やはり歓声ではなく、どよめきが会場を包んだ。なぜこんなに一方的だったのか、わからなかったのかもしれない。
せめて、手綱を使えば、違う形にもなっただろうに。
規則上、手綱を使うことに問題はない。ただし、それは恥だ、という風潮がある。勝利よりも名誉を取る、というのは士族として誤りではないかもしれないが。
「勝者、朱真!」
朱真は、煮え切らないものを抱えつつ、相手と向き合い、礼を送る。
そこへ。
パンパンパンパン、と。
最奥の貴賓席から、拍手の音が響いた。
見ると、立ち上がって手を拍っていたのは、大きく笑った南公で。
釣られるように、観客からも、ばらばらと拍手が鳴り始める。
やがて、それは会場中に響き渡って。
やむなく、朱真も改めて、南公へ礼を施す。
――――贔屓のしすぎだ、ご老体。
その拍手の意味を知るものは、今のところ、朱真しかいなかった。




