夕_集落
楽しかった道連れも、馬車が進むにつれて、一人減り、二人減り。
やがて、碧流一人になってから、道は山を登り始めた。
傾斜はさほどきつくはないが、周囲からは青草が絶え、ゴツゴツとした石が転がり始める。そんな道を進むこと、しばし。
「着いたよ、おつかれさん。」
御者の声とともに、馬車がその車輪を止めた。
ここが、孔族の村か。
「ありがとうございました」
料金を払って、荷台を降りる。
馬車はすぐに、元来た道を引き返していった。
それを見送ってから。碧流はまず、眼下の景色を眺めた。
山、といっても、それほど登ってきてはいない。
それでも、遮るもののない視界一杯に、夕暮れに染まる草原が広がっていた。
遥か遠くに、うっすらと、最後に過ぎた村らしき影が見える。だが、それだけ。
それ以外は、すべて。茫々と茂り、風に揺れる草の原だった。
ゆっくりと、視線を近づけていくと、徐々に緑は減り、山肌が現れる。
それに刻むように作られた山道を、碧流は登る。
右手から左手へ、山の斜面が続いていく中の、ほんの少し開けた平地に。
その村はあった。
出迎えてくれるのは、太い樹を組んだだけの門。
両脇には、申し訳程度に、柵も張られていた。
その奥には、木と枝で組み上げた家と、床を上げた倉庫が並んでいる。
碧流は、その門の手前で、足を止めた。
こう、門を構えられると、無許可で潜っていいものか、少し迷う。
逡巡していると、向こうから、一人の女性が近寄ってきた。
「――――誰? 何か用?」
どうしても、泰陽の常識に囚われていると、こういうところで面食らう。
わかっている。孔族に礼節の文化はない。だから、これでいいんだ。
かと言って、碧流には身についた習慣というのがあるもので。
「すみません、急にお訪ねして。私は泰陽の学院から来た、碧流という者です」
「……タイヨウ、ヘキル?」
まずい。泰陽も知らないか。となると。
「えっと、紅兎、いや、コトさんは、ご存知ですか?」
「コトサン?」
「コト、です。コト」
女性はやっぱりぴんとこない様子で首を傾げている。
こうなれば仕方ない。無理は承知で。
「では、村長に会わせていただくことは、できますか?」
言ってみるもんだ。
この言葉を、今日ほど実感したことはない。
村長、と言った途端に、女性は大喜びで、村の中へと案内してくれた。
わからないことばかり言う旅人が、ようやくわかることを言ってくれたので安心した、というのはあるのだろう。だとしても、その親切さは充分に伝わってくる。
その、道すがらも。
「タイヨウは遠い?」
「遠いです。でも、今日は景芝から来ました」
「ああ、景芝。じゃあ、朝からだ。おつかれさま」
とか。
「お腹減ってる?」
「まぁ、少しだけ」
「ほんとに?」
「……あ、いや、かなり」
とか。
でも、食堂はありますか? という質問には、微笑うだけで答えてくれなかった。
泰陽以降の食事は、昼時に通りかかった町で買い込んだ弁当一つのみ。
考えてみると、宿もなにも考えて来なかった。野宿にはまだ辛い時期なのに。
「着いたよ。ここ、長のウチ」
女性が指したのは、この村で見た中では、一番に大きな家だった。
「ここ?」
「そう。ここ」
にこにこと。
案内してくれるだけで、特に取次をしてくれる様子はない。
……仕方ない、もう一度、腹をくくるか。
「ありがとう。じゃあ、行ってみます」
そう告げて、軽く手を振る。
女性も、それに合わせて。
「がんばれ〜」
と、応援してくれたが。
何をがんばるのか、わかってるのだろうか。
「失礼します」
妙に軽い、木の扉を押して、中へと入る。
ふわり、と、草の匂いがした。
薄暗い室内。天井は高いが、板はない。三角に設えた屋根の裏まで見える。
左右に壁はあるが、正面にはなかった。代わりに、梁から何枚もの布が垂らしてあって、部屋の奥が見えないようになっている。
入ってすぐは、土間、というやつだろうか。土がむき出しの地面があって、その少し先から、床板が敷いてある。どうやら、そこで、靴を脱ぐらしいが。
「――――どなたかな」
布の向こうから、声がした。
思わず、声が出そうになるほど驚いたが、それはおくびにも出さず。
「泰陽の学院生の、碧流、と言います」
とりあえず、名だけを名乗り、後は直立で待機する。
礼節がない、と言われると、逆にどう振る舞っていいのかもわからない。
「碧流。コトの、友人の方か」
「そうです!」
ようやく話が通じそうで、ついつい気が逸ってしまう。
「約束もなく、急に来てしまって申し訳ないのですが、コトさんは――――」
「碧流。我々に礼節は不要。友と接するようにしてくれれば、それで良い」
碧流のぎこちなさを感じ取ってか、声が優しく助言をくれた。そして。
「入りなさい。コトも、じきに戻ろう」
「……はい」
言われるがまま。土間で靴を脱ぎ、床に上がる。
布を大きくまくるのははばかられて、いちいち避けるようにして進んだ。
やがて、大きな囲炉裏の向こうに胡座をかく、一人の老人の姿が見えた。
「座りなさい」
老人は、囲炉裏を挟もうとした碧流に、右の円座を示す。碧流もそれに従った。
「遠路はるばるご苦労。さ、山の夜はまだ冷える」
囲炉裏には、炭が明々と燃えていた。窓は高いところに小さく切られているだけだから、そのぼんやりとした明かりが、この広間では唯一の光源だった。
それに下から照らされた長は、枯れたような手で、白い灰を掻き回しながら。
「碧流のことは聞いている。コトが世話になったようだ。泰陽でも、ここまでも」
「あ、いえ、そんな」
謙遜してみようにも、世話をしているのは間違いない、という自覚がある。
長は、そんな碧流の反応を、どう受け取ったのか、穏やかに微笑うと。
「あれは、泰陽では、元気でやっているだろうか」
「ええ。元気ですよ。友だちもいますし」
元気なのは、間違いない。講義中を除けば。
「そうか」
と、嬉しそうに頷いて。
「景芝では、いや、景芝でのことは、あなたは知るまいが、なかなかに難しいところもあったようだ。だが、泰陽で上手くやれているなら、何よりだ」
景芝でのこと。
それは、朱真の言う、核心なのだろう。長は、その内容を知っているのか。
「……その、景芝でのこと、とは?」
恐る恐る訊いてみるが、長は炭をつつくだけで答えず。
「ところで、コトからは、こちらへは来ない、と聞いていたが」
話を変えられた。
「あ、ああ。すみません、ちょっと気になることがありまして」
簡単に話せる内容でもなし、仕方ないか。こちらも、紅兎の話をしにきたわけではないのだし。
気を取り直した碧流は、ここまできた目的を話し始める。
「孔族が、鉄鉱脈の情報を売る、という話が出ているそうですが」
囲炉裏の炎を眺めていたその目が、すう、と細められた。
「――――そんな話を、どこで?」
「景芝の鉄工町です。仕入先が、孔族から朱家に変わる、と言っていました」
「……朱家、に」
火搔き棒を置いて。長が腕を組む。
「ご存知では、ありませんでしたか?」
碧流の問いにも、その視線は、炎へ据えられたまま。
こうなると、碧流には、それ以上の言葉を重ねることもできず。
釣られたように、二人で炎を眺めること、しばし。
「碧流」
「はい」
パチン、と一つ、炭が弾ける。
「今夜は泊まっていきなさい。夕食を用意させよう」
長が、静かに腰を上げた。
そして、そのまま、布の向こうへと消えていく。
残された碧流は、どうすることもできずに。
パチン、ともう一つ、炭が弾けた。