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泰皇国立皇統学院記 〜 一年目 春 〜  作者: 都月 敬
3日目
12/30

夜_客室2

 それは、朱真という男が、たった一つだけ犯した罪の、独白だった。



 朱真には、幼い頃から兄と慕う男がいた。名を、紅信 (コウシン) という。

 自家には、歳の近い従兄弟として、一つ上の朱塊がいたが、朱真はむしろ三つ歳上の紅信によく懐いていた。朱真は紅信を信兄と呼んでは何処へでも付きまとい、紅信もそんな朱真を真と呼んで、弟のように可愛がってくれていたように思う。


 紅信は、幼い頃から利発で落ち着きがあり、いわゆる神童との評判があったが、それは長ずるにつれて、損なわれるどころか、ますます高くなっていく。

 泰陽へも、朱真より一歳若くして留学を許され、二年で一通り修めて戻ってきた。その時点で既に、彼に学識で優る者は南須国にはいない、と言われていた。

 また、武芸も達者だった紅信は、長槍の扱いもすぐに極めたが、自らの腕を誇示することを嫌い、周りに乞われても祭りの槍術大会に参加することはなかった。しかしその才の高さは、身近な者、直に教わった朱真らを始めとして、次第に景芝中に広まっていった。

 文武両道の噂は、すぐに南公の耳にも届く。紅信を呼び寄せた南公は、その瞳を一目見ただけで、我が後継はこの者だ、と、皆に聞こえる声で宣言したと言う。

 こうなると、紅信の噂は、士族を超えて、民衆の口の端にも登るようになる。市井の民は皆、口々に紅信を褒めそやしたが、誰もが、実のところは、紅信の名と、噂しか知らなかった。その不満は、一つの期待へと結実する。すなわち、槍術大会への出場。いつしかそれは、槍術大会で優勝さえできれば、紅信の次代南公位は確定だ、という声に変わっていき。誰一人として、それを否定することはなかった。


 恐らく、誰も、疑問も、不安も、抱いてはいなかったのだろう。

 ただ一人、朱真を除いて。

 だが、誰よりも近しい距離にいた朱真だからこそ、知っている光景がある。


 それは、紅信が泰陽へ留学を始める前の、まだ幼き日のことだった。

 案内も取次もなかったから、たぶん、なんの約束もしていなかったのだろうが、朱真は紅家の屋敷に遊びにきた。ふと、用事がなくなって暇になったのだったか。

 勝手知ったる他人の屋敷、紅信がいるであろう部屋をいくつか回ってはみたが、どこにもいない。それで、普段は足を踏み入れない場所にまで入り込んだ。

 探検気分だったのか。時折通りかかる侍女からも身を隠して、朱真は奥へ奥へと進んでいった。やがて、客人には立ち入ることが許されない、奥の棟へまで。

 そこで。


「――――あ。」


 ようやく見つけた紅信は、常になく、緊張した表情をしていた。

 彼に、朱真が声を掛けるよりも、早く。


「紅信、入れ」


 紅信が立っていた扉の中から、呼び入れる声がした。紅義だ。


「はい」


 紅信が扉を開けて、中へと入る。

 結局、朱真は気づかれぬまま。

 それでもとぼとぼと、紅信が入っていった扉に近づくと。


「――――これが、お前の妹だ」


 扉の隙間から、くぐもってはいるが、声が聞こえた。

 礼儀正しい紅信には珍しく、扉をきちんと閉めなかったらしい。

 それだけ緊張していたのか。

 それだけ緊張するほどの、何が行われているのか。

 良くないとは知りつつ、朱真はなおも扉に近づいた。

 わずかに開いていた扉をもう少しだけ押し開けて、そっと、隙間から覗き込む。


「お前が!」


 信じられない光景が、そこにあった。


「お前のせいで、母様が! 父様が!」


 いつも冷静で、穏やかで、取り乱すことなどない紅信が。


「お前の! 全部、お前のせいで!」


 常に優しい笑みを絶やさない兄が。


「お前さえ、いなければ!!」


 未だ幼い少女の、細い首に手を掛けて、ガクガクと、揺さぶっていた。


「……やめろ! 紅信、やめないか!」


 目の前で起きていることが信じられなかったのか。

 呆然と眺めているだけだった紅義が、ようやく紅信を押さえにかかって。


 ――――ゲホッ、ゲホッ。


 その両手から解放されて、少女がうずくまって咳き込む。

 紅義に抱えられた紅信は、突っ立ったまま、無表情で彼女を見下ろしていた。

 その、虚ろのような暗い瞳が。


「――――お前らなど、消えてなくなればいいんだ」


 その、唾棄するような、冷たい声が。

 朱真にとって、いつまでも、忘れることのできないものとなった。


「少しだけ、出ていなさい」


 冷静さを取り戻した紅義にそう言われて、少女はよろよろと立ち上がると、部屋の外へ、朱真の元へと歩み寄ってきた。

 まずい、と思いながらも、朱真はその場所を立ち去ることはなかった。

 少しだけ横にずれて、扉が開いても、中からは見えない位置に移動する。

 やがて、ゆっくりと扉が開いて、少女が廊下へ出てきた。

 大きな扉を、全身で引っ張るように閉めると、その場にずるずると崩折れる。


「……だいじょうぶ?」


 中に聞こえない、小さな声で。なるべく、驚かさないように。

 そのつもりだったが、少女はこちらを振り仰ぐと、慌てて後ろへ後退った。


「何もしないよ、怖くない。ほんとだ」


 なんだか片言で言い訳してしまったのは、見知らぬ少女に対する緊張とともに、少女の肌が褐色であることに気づいたから、というのもあったかもしれない。

 少女は、孔族だった。

 彼女は怯えた瞳のまま、それでも、それ以上は下がろうとしなかった。


「だいじょうぶだよ。もう、だいじょうぶだ」


 なだめたかったのは、彼女か、自分自身か。

 朱真は、何度も大丈夫を繰り返しながら、そうっと、彼女の頭に手を伸ばし。

 優しく、できるだけ力もかけないように、触るか、触らないか、くらいで。

 おっかなびっくり、その紅色の頭を撫でた。何度も、何度も。

 少女は何も言わず。俯いたままで、大人しく、撫でられるままになっている。

 そうしているうちに、朱真は、自分の中の恐怖も和らいでいるのを感じて。

 それで、自分が、ひどく怖がっていたことに気づいた。

 ただ、紅信が、怖かったのだ。

 そうするうちに、中から誰かが出てくる気配がして。

 朱真は、少女に声も掛けずに、慌ててその場を去った。

 少女がこちらを見つめているのは気づいていたが。

 その後、紅家の屋敷で、あの少女を見ることはなかった。


 それからも、紅信の態度は、何も変わらなかった。

 いつも冷静で、穏やかで、取り乱すことなどなく。

 朱真にも、周囲にも、常に優しい笑みを絶やさずに。

 泰陽へ留学する前も、二年後に帰ってきたその後も、一切変わることなく。

 むしろ、ますます明晰な、紅家の御曹司として。次代南公の第一候補として。

 その年も、祭りの日が訪れる。紅信は、槍術大会への参加を表明していた。


 皆は、紅信の圧倒的な優勝を信じていた。

 彼の負けを期待していたのは、一方的な対抗心を燃やしていた朱塊くらいなものだろう。実際に、辞退者も相次いだのだと言う。だから、その穴を埋めるように参加した、朱家のもう一人の青年に、興味を示す者はほとんどいなかった。

 朱真とて、紅信に負けて欲しいと思ったわけではない。むしろ、誰よりも、紅信の優勝を信じていた。次代の南公だって、紅信以外にはあり得ないと思っていた。

 ただ、あの、暗い瞳が。あの、冷たい声が。

 どうしても、あの日の光景が思い出されて。

 このまま紅信が南公位に着くのは、なぜか不安でたまらなかったのだ。

 紅信は教科書通りの槍捌きで勝ち進んでいった。決してやり過ぎることもなく、必要最低限のダメージを与えるだけ。その王者の槍といった風格に、客も沸いた。

 朱真も、初の実戦ということでぎこちないところもあったが、紅信仕込みの槍を振るって、なんとか勝ち上がることができた。

 そして、遂に、二人が相見える時が来た。


「まさか、お前がここまで来るとはな。強くなったな、真」


 紅信が、馬上ですらりと槍を構える。

 実際に相対してみると、畏怖心すら覚える。朱真も、同じように構えるが。


「信兄のおかげです。絶対に優勝して、南公になってください」


 真剣な表情でそう言う朱真に、紅信は大きく笑って。


「まさに雌雄を決しようという相手に掛ける言葉ではないな。全力で来い、真!」

「もちろんです。ただ、その前に、一つだけ聞かせてください」


 出鼻を挫かれて、紅信が首を傾げた。

 すでに試合は始まっている。問答を繰り広げる場ではないが。

 歓声をあげる大観衆が見守る中、朱真は早口で問い掛けた。


「信兄が南公になったら、孔族はどうなされるおつもりですか?」


 孔族。

 その単語が出た瞬間に、紅信の目が見開かれたように、朱真には見えた。

 やはり、その瞳が、あの時のように、暗く、昏く。


「……なぜ、それを」

「一方的に滅ぼすようなことは、しませんよね、信兄!?」


 紅信の異様に気圧されるように、朱真の声が大きくなる。

 だが、それ以上に。


「なぜ、お前が! それを、知っている!!」


 弾けるように、紅信が馬を駆った。

 勝負を分けるという初撃。しかし、そこには技も型もなく。

 ただ思い切り打ち付けられただけの槍を、朱真はそれでも必死に受け止めた。


「お前が! 何を! 知っているというのだ!!」


 次々と、槍が叩きつけられる。

 朱真は何も知らない。あの光景を見ただけだ。

 経緯も、理由も、因縁も、感情も、何一つ、知りはしないが。


「滅ぼすなだと! 庇うのか!! あれを! あいつらを!!」


 無数に襲う槍の連撃は、もはや荒れ狂う春の嵐のごとく。

 いかに受けようとも、しなる槍を完全に止めることはできない。

 だが、長槍のしなりでえぐるには、相当な技術が必要だ。相手の受けようとする間合いに合わせて槍を繰り出さなければ、しなった穂先も相手には当たらない。無闇矢鱈と振り回しても、相手を倒すことなどできはしないのだ。

 朱真は既にいくつも打たれているが、競技としての有効打はほとんどなかった。

 しかし、暴風と化した紅信は、もはや止まることはなく。


「あれが! 私のすべてを奪ったのだ! あれさえいなければ、私は!!」

「信兄! 落ち着いてください。もう誰も、何も、奪いはしません!」

「黙れぇッ!!」


 一際大きく振るわれた槍が、朱真の脇腹を打ち据えた。馬上で大きくバランスを崩し、馬も慌てて踏鞴を踏む。落馬は即失格だ。

 今思えば、審判も迷ったのだろう。試合の中で、長槍がこれほど強く打ち付けられることは、ほぼない。衝撃だけなら、決着とするに充分。しかし競技としては、有効打にはあたらない。だが、そこでの審判の判断は、永遠に謎のままとなった。


「お前が! お前も!!」


 口角泡を飛ばすも、もはやその言葉から論は失われており。

 癇癪を起こして暴れる槍からも、とうに理は感じられず。

 ただ、見開かれた瞳孔の奥には、深淵の闇が黒々と。

 ――――こんなモノは、紅信ではない。


「――――ッ!!」


 最期の、信兄の声は、言葉にはなっていなかったように思う。

 いや、言葉に紡ぐことを、頭が拒否したのか。

 朱真にも、狙いは無かった。

 信兄が、槍を振り上げてきたから。

 それを受けようと、身体を捻って。

 だが、幾度も打たれて、疲れ切っていた身体は、上手く、動いてはくれず。

 気づけば、朱真の槍先は、紅信の喉を、貫いていたのだった。


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