夜_客室1
朱真が戻ったのは、夕方ももう遅い時刻だった。
すぐに夕食になるというので、食後に話があることだけを伝える。
朱真は少し怪訝な顔を見せただけで、後はいつもの通り、興味なさげに頷いた。
夕食は昨夜の大広間ではなく、朝食と同じ食堂だった。
二人きりだったので、碧流も気兼ねなく、今日景芝で見たものなどを報告した。朱真は何度か頷く程度で、特に口は挟まなかったが、それもいつも通りだった。
珍しく、酒は飲まなかった。
食後、少ししてから。
朱真が、約束通り、碧流の部屋へとやってきた。
朱真を長椅子に座らせて、碧流はその向かいに椅子を引いて腰掛ける。
真っ直ぐに向かい合ってから、碧流は単刀直入に話を始めた。
「朱家が孔族から鉄鉱脈を買い取ろうとしている、という噂を耳にしました」
朱真はなにも言わず、その表情も変わらない。
「数人の鍛治師から、同様の内容を確認できました。ある程度は信憑性のある話かと思います。さて、朱真。今、孔族が鉄鉱脈を失うと、どうなりますか?」
「どうもならないだろう。孔族の内で鉄産業に関わっているのはほんのひと握りだし、そいつらには充分な金が分配される」
それは、鍛冶屋の親父でも言えることだ。
そんな上っ面のことを、碧流は訊いてはいない。
「では、歴史の問題です。過去に、南須国が孔族へ、軍を向けたことがありましたが、その理由は?」
「……九山連峰に眠る鉄鉱脈を手中に収めるためだ」
その通り。
だが、それはいま必要な情報の、半分に過ぎない。
「――――ですが、その争いが未然に防がれた、その経緯は?」
「央香国が仲裁した。孔族の握る鉄が南須国に渡るのを避けた、とも言うな」
そう。重要なのはその、裏の理由。
「では今後、鉄鉱脈を失った孔族に、再び同じことが起きれば、どうなるでしょうか?」
朱真は、いかにも馬鹿馬鹿しいという風に、鼻を一つ鳴らすと。
「起こらんだろう。そもそも南須国が軍を向けた理由が、その鉄鉱脈だ」
「そうとは限らないでしょう。争いが起こる理由など、数限りなく存在する」
碧流の論理には、前提に仮定が多過ぎる。それはわかっているが、それでも論を立てずにはいられない。辿り着く結論は、朱真とて同じはずなのだから。
沈黙した朱真へ、碧流は次の話を向ける。
「直接、孔族の若者と取引をしている、という方からもお話を伺うことができました。基本的に、孔族は金に執着がなく、相場もよく知らない者が多い、のだそうです。買う方が逆に値を上げてやったんだ、と屈託もなく笑っていましたが」
これは、鉄産業に関わる、孔族の青年の話。
「それでいて、今、孔族では、景芝に出てきたがる若者が増えているそうですね。礼儀は知らないが、真面目でよく働く、と、食堂のおばさんも喜んでいました。頭が悪いと言われるが、教えてもらっていないだけなんだ、とも」
これは、景芝に憧れて、下働きに励む、孔族の若い女性の話。
「孔族は、まだまだ教育も行き届いておらず、商取引の理屈もわかっていない者が商売に関わっています。それでいて、全体では、都会に出る金を欲しがっている。そして、そんな孔族から、その金を餌に、鉄鉱脈という民族の武器を、奪おうとしている者がいる」
これらはすべて、別の方向から見た、同じ話だ。
「買い取る、だろう。奪うのではなく」
「相場を知らぬ者に、はした金を掴ませるだけなら、奪うのも同様でしょう」
正しい訂正を、一方的な決めつけで潰す。
だが、潰された朱真からは、次の言葉は出てこない。
「……否定しないんですね。相場に応じた金額を渡す、とは言えませんか」
「オレがやることではないからな」
変わらぬ、そっけない態度。しかしそれも、どこか苦い。
否定しないのであれば、訂正と決めつけの正誤は入れ替わる。
「朱堅さん、ですか?」
「朱家がそんな大きな取引を動かすのだとしたら、他にはいないだろうな」
「若殿では、当主には意見できませんか」
朱真は答えない。
「できませんか。それとも、しないだけなのですか?」
碧流の問いは、より強く。
それでも、朱真は答えない。
「朱家の噂も聞きましたよ。先ほどまでとは、違う人たちからですけど」
鉄工町の方々ではなく、気楽に酒を楽しむ酒場での話だった。
「評判、悪いですね、朱堅さん」
さらり、と言ってみる。
しかし朱真は、それも当然とばかりに。
「上が金に厳しいと、下には嫌われるものだ」
「がめつい、の間違いではないですか。国外からではなく、国内からばかり金を巻き上げて、国ではなく、家ばかりを富ませている。それでは、嫌われるはずです」
ここでも、朱真は黙った。
「朱塊さんも、ですね。家の名を出して、酒代を踏み倒すのもしばしば、とか」
ちっ、と。朱真の舌が鳴る。しかし、言葉は出てこない。
「その反動ですかね。朱家の若殿に期待する声は多かったですよ。放蕩で、何事にもやる気を見せないが、少なくとも、嘘は吐かない。人を騙しもしない」
ここ二年は景芝にいなかったというのにも関わらず。
意外と正しい朱真評に、碧流も苦笑を禁じ得なかった。
しかし、当人となると、笑ってもいられないようで。
朱真は、妙に厳しい表情のまま。
「……それは、当たり前のことだろう」
「そうですね。でも、当たり前のことを、当たり前にするのは難しいらしいです。難しくなる、のかな。僕にはわかりませんけど」
権力を持つと。偉くなると。金を持てば、持つほど。
どれも、そういうものらしい。残念ながら。
若殿の口が重たいので、碧流はまた、話題をずらす。
「赤家の南公が、高齢と病を理由に退位を望んでいる、とか」
ぴくり、と。初めて朱真の眉が動いたように見えた。
「次代を選定すべき朱家の当主は業突くで、紅家の当主はそれに逆らう甲斐性がない。その上、次代と目される若者は、腕っ節が強いばかりで、情がない」
「……世話になっておいて、口が過ぎないか?」
「すみません。ですが、これは街の人々のご意見なので」
失礼は元より承知の上。笑ってかわす。
碧流は、そんな言葉が聞きたいわけではない。
「都である、景芝の民の本音が、これなのです。南須国の民は、報われませんよ。自国に、誇りと希望が持てない民は、切ない」
民とて、胸を張って生きたいのだ。
改めて、碧流は、朱真の瞳を正面から見据える。
「朱真、南公には、ならないんですか?」
問われた朱真も、真っ直ぐに碧流の瞳を見返して。
そう言えば、言葉のない時も、朱真はずっと碧流の瞳を見つめていたが。
ふい、と。
初めて、その視線を逸らした。そして。
「オレは、その柄ではない」
それは、碧流が最も聞きたくなかった言葉。
「ガラも骨もないんですよ! 民が望んでいる。それ以上に資格が必要ですか?」
民が胸を張って生きるには、誇りに思える首長が必要だ。
例え、何もしてくれなくてもいい。嘘を吐かず、人を騙さず、ただ真っ直ぐに生きてさえいてくれたら、それでいいのに。
なのに、その男は、もはや目を閉じ、口も閉ざしている。
「……それなら、あなたはもう、両親の元へ赴くべきだ」
朱真の両親は、朱堅から吹っ掛けられる権力争いに辟易して、当主の座を前に、須弥の向こうへ逃れたという。きっと、あの広々とした草原のどこかで、昔ながらの遊牧民としての暮らしを営んでいるのだろう。悠々と。
だが、朱真はそれを断ったはずだ。両親と離れてまで、景芝に残ったのは。
「朱真」
「――――こうなるはずでは、なかったんだ」
絞り出されたその声には、朱真からは聞いたことのない感情が滲んでいて。
「紅家は、朱家などに従うはずではなかった。次代と目されるのは、あんなヤツではないはずだったんだ。紅家を率い、次代南公となって、南須国を導いていく」
それは強い、後悔の念。
「そうなるはずだった男を、オレが、殺したんだ――――」




