第59章 勝敗
──夜川 涼美。
現在──2116年の広楽島において、彼女の名を知らぬ者は居ても、存在を知らない者はいない。
暗闇に現れては、無差別に“人造人間”を襲い、狩り、終いには殺してしまう。
その惨殺された死体を見て、残された仲間たちは、犯人である涼美をこう呼んだ。
“天獄之使”と──。
──涼美の前に現れた一人の女。
彼女は愛翠 杏紅と名乗り、目の前で他人が駆られる姿を見て許せなかったのか、勇敢にも涼美に戦いを挑んだ。
涼美はこう言った類のヤツはひどくキライだった。相手と自分の力量の差を量らずに、偽善者ぶって突っ込んでくるヤツを、彼女はこれ以上ないほどに蔑んでいた。
しかし杏紅は、力の無いヤツではなかった。
今までこの広楽島には、涼美の名を知っていても、年齢や身長、或いはスリーサイズを知るものはいなかった。ましてや、自分の人体番号なんて、どうでもよくて彼女自身忘れていた。
だがその杏紅という女は、何をしたか知らないが、涼美のそれらの情報を突然口にしたのだ。
しかしそれだけなら、当てずっぽうのよく当たる運のイイヤツ、ぐらいにしか思わない。
杏紅はもう一つ、涼美の理解の度を越すことをしてみせた。
涼美がその手で切り落としたはずの杏紅の腕が、切断後僅か数分で、自己修復されたのだ。
その過程が、涼美の眼には“修復”ではなく、“自然治癒”に見えた。だが人間同様、あそこまで自然治癒力の強い“人造人間”なんて聞いたことも見たこともない。
久しく見ない強いヤツ──その時はそう思った。
だが今、彼女の中で前言を撤回する行為がなされた。
杏紅が、何の手応えも無いまま、あっさりと散ったのだ。
涼美が少し本気を出しただけで、いともたやすく、何の抵抗もせずに彼女は意識を失ってしまった。
その際、彼女は涼美の首に向かって手を伸ばした時は、何かするのかと涼美も警戒したが、結果的にその首を優しく撫ぜるだけに終わった。
──あまりに呆気ない終わりだな──涼美は思った。
そのとき、彼女は、いつもと何かが違うことに気付いた。
常識じゃ考えられない能力を見せられたこととか、敵があっさり敗れたことではない。
敗北した杏紅に向けた気持ちが、それまでに彼女が交戦した敵たちに向けたそれと、違ったのだ。
今まで彼女に挑んだ男たちは、敗れた後は皆決まって、「命だけは」だの、「俺が悪かった。だから助けて」だの、「ここで俺を殺そうものなら後から悔いることになるぞ」だのと、命乞いの言葉だけを口にしていた。
そんな彼らを涼美は、哀れむ目で見つめた。
死に行く彼らが、手を伸ばせば辛うじて届きそうな位置で。
無様。彼らを表す言葉はそれしかないと断じていた。
しかし、杏紅の場合は違った。
彼女の散り際に涼美は、
喪失感を抱いた。
ほんの数分にも満たない間の出来事で、彼女は杏紅に希望を抱き、
その希望を裏切られて幻滅したのだ。
彼女は、待っていたのかもしれないと思った。
弱い男たちを蔑視しながら、自分を奮い立たせてくれる人物を、無意識に待っていたのかもしれないと。
そんな思考に至ったあと、彼女は、眼前で力無く倒れている杏紅を再び見た。
あれだけ激しい攻撃を受けた後とは思えぬ程、安らかな顔をしている。遊び疲れて眠った子どものような、何の苦しみも抱えていないような顔を。
そんな彼女を見て、涼美は思った。
──コイツの死を、ただ見送るだけなんてことはしてはならない。この場で、確実な死を送らねばならない。それが、戦う者として持つべき敬意ではないか、と。
もちろんその裏には、ここで殺さないでおいて、後々復活されて自分が殺されることなどあってはならない、という理由もあったが、そんなものは微かであった。
彼女はその決意の下、杏紅の殺害に取り掛かった。
痛みで目覚めることなどないように、確実に“動力源”を取り除くことに専念する。
何千万円とする宝物に触れるかのように、指先ひとつひとつにまで力を注ぐ。杏紅の“動力源”のある位置を推測して、それを確実に、1度で奪取できるコースを計算する。
ここだと定めたコース通りに行くよう、角度、距離、そして“動力源”を奪い取る手の形まで、緻密に作り上げる。
10秒後、涼美は行動に出た。
細密な計算の末に構えたその手を、
杏紅の胸元に向かって突き出し、
その身体を貫いた。
──違和感。
杏紅の身体を貫いた時、涼美は違和感を抱いた。
人、或いは“人造人間”をの身体を貫くとき、骨や肉を掻い潜っていく感触というものがあるはずなのに、
それを微塵も感じない。
空を切ったように、何も感じない。
健康そうに見えるだけでコイツ、不健康だったのか、とか、皮膚を薄めにして造られた、自分の知らない機体なのか、などという、その空疎感の理由を強引に理論づけたような考えだけが、涼美の電脳の中でぐるぐると渦巻く。
とにかく理由は放っておいて殺ろう──涼美は答えを見つけるのを後回しにして、杏紅の“動力源”を探した。彼女の命を絶ってしまえば、ゆっくり考える時間を作ることが出来る。
だが、ここでまた問題に突き当たった。
解決のしようのない、問題に。
──“動力源”が……ない──!
否、正しくは、在る。そこに、“動力源”が稼働している証である光が見えている。
けれど、掴めないのだ。
その光のもとに手を伸ばして、いくら掴もうとしても、すり抜けてしまう。
距離感がおかしいのかも、そう思い、必要以上に腕を伸ばしても何も変わらない。
奇怪な現象を前に、涼美の額には、彼女自身、これまで生きてきた中で流したことのない、尋常でない量の汗が。
それらは目の脇を通り抜け、鼻のくぼみを乗り越え、口角を優しく撫でるように伝い、そしてやがて、顎の先に待ち構える首元に到達する。
涼美がそれを感じ取ったのとほぼ同時、
彼女の、細く逞しいその首に、
誰かの手が、触れた──。
触れたというより、首とその手が接した、という方が適している。それくらい、わずかな面積しか触れ合っていなかったが、涼美はこれだけで悟った。
──下手に動けば、自分の命が奪われることを。
その首に触れている手が、誰のものなのかはまだ解らない。
だが、電脊椎という中枢的部品が通っている首にそれを添えているあたり、そいつは、自分の命を狙ってきていることは確実。
加えて、いくら眼前のことについて焦っていたからと言って、人の気配くらいは彼女なら察知できる。しかし今、この手を添えている人物の気配は微塵も察知できなかった。
実力者である彼女の感覚を掻い潜って、その傍にやってきたような奴だ、誤って殺し損ねるなんてことも無いはずだ。
涼美は、自分の死期を悟った。その上で、ひとつだけ尋ねたいことがあった。
「──誰?」
その答えとして、自分と同じくらいの男勝りな女性の声か、声からだけでもその大きな図体が予想できそうな低い男の声が聞こえてくるものだと、涼美は想定していた。
しかし、違った──。
「──また会いましたね。夜川 涼美さん」
「……っ!?アンタ……!?」
死の準備をする為に噤んでいた口から、涼美の驚嘆の声が漏れた。
当然だ。自分の耳に、
眼の前で倒れているはずの、愛翠 杏紅の声が飛び込んできたのだから。
「……【MOON・D】、解除」
背後で杏紅がそう唱えた。
自らの置かれている状況、そして杏紅の唱えた言葉に対する理解が追いつかず戸惑う涼美の前で、予測もつかなかったことが起こる。
彼女の前にあった杏紅の死体や、その傍にあったビルや道路が、粉塵のようにボロボロと崩れていき、それらがフワフワと、天に舞い上がっていったのだ。
それと同じように、彼女を包んでいた視界360度全て、塵になって舞っていく。
その代わりに現れたのは、杏紅の死体のあった場所に、彼女の血が塗られているだけ光景。
「これって……つまり……」
「察しがいいみたいですね。……涼美さん、あなたは今まで、
幻を見ていたんですよ。
私が、呆気なく敗れ、辛うじてまだ生きていたので殺さないといけなくなったという状況の、幻を」
唖然とした。この世に幻を見せることが出来る人間や“人造人間”なんているはずないと思っていた。
違う。それが常識。自分は間違っていない。涼美はそう言い聞かせた。
しかしこれで合点は行く。杏紅の身体を貫いた時に感触が無かったのも、“動力源”を掴もうとしても掴めなかったのも皆、
文字通り、虚空で行っていたからだ。
「あなたの眼と電脳を繋いでいる伝路を支配させてもらっていました。眼で見た情報が電脳に伝わる前に、書き換える……それが私の3つ目の能力です」
伝路を支配して、都合の良いように書き換える。その出来すぎた能力に、涼美は呆れた。
こんなの勝てっこないな……。
──この『勇戦状態』が無ければ、のハナシだけどね──。
首元に手を添えられた状態で、涼美は口を開いた。
「──さっきまでね、思ってたんだよ。
アンタは今まで逢った誰よりも、尊敬すべきヤツだって。……けど違ったわ。
アンタが一番、」
そこまで告げて、涼美は姿を消した。自らの身体に懸けられた危険性を恐れず、瞬速で動き、杏紅の手を逃れた。
「軽蔑すべきヤツだっ…………!?」
彼女の言葉が、中途半端に止んだ。
瞬速に追いつけず、無力でただ佇むはずだった杏紅の姿が、
涼美の前に無かったからだ。
「私初めて見ました、『勇戦状態』、使える人」
杏紅の声が、何処からともなく聴こえる。
「しかも何の契機も要らないなんて。便利ですね。そんな力があれば、
『SHAT』史上最強の“人造人間”になるのも、御茶の子さいさいでしょうね」
「っ!?」
この女は一体、自分をどこまで知っているんだ……!?
涼美は、この島に来てから誰にも話したことのない情報を口にした杏紅相手に、とうとうパニックに陥った。
「……けどだからと言ってしちゃダメですよ、他人の“聖貨”奪って、長く居ようとするなんて」
「……っ!」
涼美は耐えきれなくなって叫んだ。
「アンタに何が判る!?こっちの辛さも知らないで!他人の過去抜きに、偽善ぶったことを──」
「──知ってますよ。何もかも」
杏紅の声が、今度は背後からしかと聞こえた。それまでの涼美を叱りつけるような声ではなく、
彼女を慰めるような声が。
「──あなたは友を失った。
4年前……自分は参加出来なかった、
海凪 希良梨との戦闘で──」




