第54章 告白
誤字やおかしな表現が少々あるかもしれません。
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「──皆木 姫花…………って、憶え……てる?」
私が発したその質問は、それまでこの部屋で繰り返されていた会話の声に比べて、妙に響いたような気がした。
その質問を受け取った花理崎 菜那は、一瞬目を見開いた後、怪訝そうに眉をしかめた。
「……なんでその名前を……いま出すの?」
彼女はその表情のまま、そう尋ねた。
「思い出話でもする?……リラックスの為にでも」
疑心が深まったせいか、或いは私の出方をうかがうためか、彼女は続けてそう言った。
無理もない。それまでの話の中に、皆木 姫花の名前を連想させるワードなど一つも無かった。
その上、彼女にとって向けるべき疑念など微塵もない私が、突拍子もなくそんな話をし始めたとなれば、そんな台詞を投げかけても真っ当である。
混乱する彼女の心を楽にする為にも、早急に話をつけるべきだと私は、9年間、したくても出来なかった行動に出るのだった。
「──私がその、皆木 姫花だと言ったら、菜那……あなたならどうしてくれる?」
と告げた。
犯してはならない禁忌に足を踏み入れたような気分がして、巨大な罪悪感に駆られたが、
何も告げないまま彼女の前から立ち去る罪悪感を思えば、すぐに拭い去ることが出来た。
一方の菜那は、いよいよ開いた口が塞がらない。
だが、話を持ちかけたのがこのタイミングであったことと、私の真剣な口調が、冗談と受け取られてもおかしくないこの話題に真実味を持たせた。
「……何の……話?」
震える菜那の声。
一言だけだと足りないから、私は更に決定的な証拠を提示する。
「私と菜那と……雛乃と食べたお弁当、美味しかったの憶えているわ。
それに雛乃ってば“追跡ごっこ”大好きでさ……あっ、菜那は運動、ニガテだったんだっけ」
「どうやって調べたのよ……!」
菜那は私に問う。
眼には涙、声は徐々に上ずり、それと同時に、感情の昂りを示すように語気が強まっていく。
「調べてなんかないよ、菜那。
……私は正真正銘、皆木 姫花なんだってば」
「だって……!顔も肌の色も……全然違うわ!私の記憶と!」
彼女の怒りの絶頂がチラチラ顔を覗かせている。
話を濁す為に、他人の心の傷を弄ぶような行為をしているように思える私に対する、怒りの絶頂が。
しかし私には、そんなつもりなど毛頭ない。
私の真の姿を明かしたいだけ、これに尽きる。
だから私は、さらなる証拠を提示する。
「……9年前のあの日……私がみんなの前から姿を消した日……そんな事をした理由は、菜那の言葉なんだよね、実は……」
「……!」
「……あの時から頭の良かった菜那はさ、私が“人造人間”なんじゃないか、ってことに気付いたんだよね?
私も意識してなかったようなトイレのことに菜那は気付いて、その菜那の言葉に私は気付かされて、そのことばっかり考えていたから、ボーッとしちゃって怪我なんかしちゃったんだよね……」
苦笑いに近い状態で私は話していた。
肝心な、菜那の様子を伺うことを忘れながら。
だから彼女が、まるで何かを乞うように
大粒の涙を流しながら、私の身体に縋りつくようにして抱きつくのに気付くのが、わずかに遅れた。
「…………姫花ぁ……!」
菜那は私の両腕を力強く握りながら、真下に崩れ落ちた。
私の真の名を何度も繰り返しながら嗚咽する彼女を、私はただ見守るしかなかった。
「……生きてたんだ……!アタシ……姫花は生きているって……何の根拠も無く言い張ってたのぉ……!不安だったんだからぁ……!」
嗚咽と共に、菜那の口から吐き出される弱音。
彼女が自分すら騙して演じ続けていた強い人物像が、風前の塵のように消し去られていく。
私はこれまで、この秘密をひた隠しにしている私こそ、最も苦しくて当然だと思っていた。
しかし違った。
彼女のように、大事なモノを失ったことを知られない為に強くあり続けている方がはるかに苦しいことを、私はいま身を以て痛感した。
しかしだからと言って、いや、だからこそと言うべきか、私は、今の彼女にかけるべき言葉を見つけ出すことが出来なかった。
「ごめん……今まで、言えなくて……」
故に私は、彼女に謝罪することしか出来なかった。
「……“人造人間”だって知られたら……菜那にも、誰にも会えなかったから……」
もはや言い訳でしかなかった。
本当なら、彼女と再開した時に打ち明けておくべきだったのにそうしなかった言い訳でしかなかった。
それ故か、私の目から涙があふれ出ることはなかった。
「……でも……アタシ、会った時からあんたの顔も名前も知らなかった……。
……何があったの?」
そう尋ねかけてくる菜那の涙は、やや引いている。冷静さを取り戻した証だろう。
無論、私は彼女に教えなければならない。
ならない、と言うより、それを伝える為に正体を打ち明けたのだから、伝えないという手段を選択するのは本末転倒である。
「……話してあげるよ……この9年、何があったのか……」
そう答えて、私は彼女の手を引っ張った──。
──車のドアを開いた途端、潮の匂いが鼻を抜ける。決して心地は悪くない。
普段の快活な菜那なら、遊園地を前にした子ども宛らに飛び出していくが、今の彼女は、アスファルトの道路に私が足を下ろしても、放心状態で、置物のように座ったままだった。
「……菜那?」
優しく問う。
彼女はハッとして、慌てた様子で私の方を見た。
「着いたよ?……行こうよ」
「ああ……うん、わかった」
虚空を見つめるような目をしながら、彼女は応えた。
普段の私ならここで、どうしたのか、と反射的に尋ねるだろうが、今の私はそんな答えの判り切った質問はせずに、何も言わず、先に浜辺に向かった。
──悩んだ時は海に行きな。何でも受け入れてくれるから──。
今年の初めに訪れた神多家で、撫子に告げられた台詞をふと想起した。
はじめにそれを聞いた時は、何のことやらと思ったのが正直なところだが、今になればその通りだとつくづく思う。
ただじっと眺めているだけでも、蚊のような声で呟いても、鬱憤晴らしに叫んだとしても、その全てを受け止めてくれているように思える。
何か答えをくれるわけでも、慰めてくれるわけでもないが、その大いなる海の前を立ち去る時には、シャワーで汚れを洗い去った後のような、さっぱりした気分になれる。
夜の海も何度か訪れたことがある。宵闇が海に映って、視界一面が黒になるのだが、恐怖を感じたことは無い。
そんな海に、私は菜那を連れて来た。
ここならきっと、彼女の心もリラックスできるだろうから。
私は、砂浜の上に腰を下ろした。マットレスの上にそうしたような、柔らかい感触が伝わる。
数十秒待った後、私の隣に菜那が座った。
同時に吹いた浜風の心地よさを感じた後、菜那が切り出した。
「──あの後、何があったの?」
と。
私は切り返そうとしたが、やはりと言うべきか、すぐに声が出なかった。
今まで封印していた秘密を吐露することは、心臓を引っ張り出すくらいの気分になる。
私の中核を担うものを自ら取り除くのはとても勇気がいるが、
私は一度決心したのだ。もう引き退がれない。
腹を決め、私は口を開いた。
「名前を変えたんだ……それも2回ね──」
──私はあらゆることを曝け出した。
菜那の前から消えた理由のこと、
2度も名前を変えたこと、
“父さん”に逢ってから喪うまでのこと、
顔を変えたこと、
それと、菜那に再会してからのこと。
時間など忘れて、過去と、そして菜那と向き合った。
彼女はきっと、何か言いたかったはずに違いない。しかし、そうはしなかった。
沈黙したまま、時折相槌の頷きを見せていた。
その間、寄せて返す波音や、強く吹き付ける浜風の音、背後にある道路の上を走り去っていく自動車の音──静寂を破る音すべてが、私の話に呼応しているように感ぜられた。
「──私の過去の話は、これで全部……あとは、判るでしょう?」
私はそう言った。
菜那は俯いたまま、
「……うん」
と、悲しげに応えた。
「……姫花が、“狂った殺人少女”だ…………ってことでしょう?」
すぐ隣にいる私が聞き取るのがやっと、という声で彼女はそう告げた。
波音の後、私は頷いた。
「……けど、信じられないよ。昔も今も変わんない、優しい姫花が……そんなにたくさんの命を奪っていたなんて……」
彼女の言葉には、怒りはこもっていなかった。
彼女は今、私に逢えた喜びと、私が殺人鬼であったことに対する怒りの狭間で混迷していた。
「…………ホントに姫花が……莉央を奪ったの……?」
震える声で、私を質す菜那。
私は一時、菜那と同じように迷った。
選択を強いられ、それを決断できないでいた。
──真実を偽るか、
菜那を信じるか──。
私が莉央を奪ったのではなく、真に奪ったのは彼女を殺した絢であることを、菜那には到底信じ難いことと知りながら言うべきだろうか。
「──正直に答えて」
菜那の、妙に強い口調。
叱るようでもありながら、優しさも残っている。
「……何か隠しているっぽいけど……隠し事は無しにしようよ。
……私は……いつでも姫花を信じる。
だから……姫花も私を信じて」
その言葉に、私は気付かされた。
私は一体どうして、菜那を疑うなんてことをしていたのだろう。
自分が“狂った殺人少女”であることの重圧と罪悪感が、私を疑心暗鬼にしていたのだろう。
しかし、今まで誰にも明かせなかったことを明かした親友を信じられなくてどうするというのだ。
「──“狂った殺人少女”は私。けど……私が殺したのは一人の警官と、本当の犯人……早房 絢だけ」
菜那は表情を少しも変えず、ただ静かに私を見つめている。
その真っ直ぐな瞳を前にして偽ることは、愚行に思えた。
「……アイツは、“人造人間”に関わる人間全てを抹殺するっていう任務を背負っていたんだって。
あのままじゃ、みんな殺されていた。だから、犯人は絢だって気付いた私が、みんなを守る為に戦って、そしてアイツを返り討ちにしようとした……。
けど、私の電脳が暴走して、関係ない警官を1人殺してしまったの。それを見たパートナーの警官が、私が殺人鬼だと……“狂った殺人少女”だと判断したんだと思う……しょうがないよね。
……菜那が来てくれたあの時、ちょうど暴走が収まったところだったの。……嘘ついてゴメンね、『絢を救けていた』なんて……」
──あれ……?
頬が……熱い……。
何かがそこを流れていく。
な……みだ……?
それもいっぱいの……。
あったことを正直に答えていただけなのに、とめどなく涙が溢れてくる。
続くように、目尻や鼻、喉の奥、そして身体中が熱を帯び始める。
この熱は一体、何の感情が生み出しているというの……?
「……ありがとう」
そうやって自分が泣いている理由を探している私に、菜那は唐突に礼を告げた。
私は、次々と溢れてくる涙を拭いながら、
「……何が?」
と訊ねた。
すると菜那は、私の肩に両手を置き、今の私のように号泣したことで出来上がった少し腫れた目で私をじっと見て、こう言ったのだ。
「あったことを話してくれたことと、
私たちを守ってくれたこと、だよ」
「菜那……!」
「姫花が話すことに嘘は無い、そう思っているの。だから今のこともみんな信じるし、何よりそういう約束だしネ」
菜那はそう言って、私を安心させるためか、その白い歯を見せて笑って見せた。
その笑顔の持っていた得体の知れない不思議な力は、涙が止まらない私を笑わせてしまった。
「けど……」
しかし一転、菜那の表情は寂しげに沈んだ。
「アタシの力だけじゃどうしようもないから……きっと姫花は連れて行かれちゃう……。でしょう?」
「うん……ゴメン。せっかくこうやって会えたのにね……」
「…………ううん……仕方ないよ。絢がいなくなった以上、世の中は”狂った殺人少女”のアンタを認めてはくれないし、人数は大違いでも、人を殺したって事実に変わりはないんだから、それは償わないといけないって、アタシでも思う」
返す言葉も無い。全く以てその通り、としか言いようがない。
「……いつ……行っちゃうの?」
菜那の瞳が、小動物のそれのように潤む。
「……判らない……けど、そんなに遠くない」
私は正直に答えた。
「それなら」
だが、それを聞いた菜那の見せた表情は、私の想像と違った。
菜那の口は、少しだけ綻んでいたのだ。
「残りの時間、目一杯遊ぼ?いけないことかもしれないけど……いっぱい喋ってさ、いっぱい笑って……
後悔の無いようにしよ!ね?」
この時ほど、
─私は菜那にもう一度逢えて良かった──と思えたことは無かったと断言できる。
ここに居るのが菜那じゃなかったら、きっとこんな感情は味わえなかっただろう。
私は菜那に抱きついた。
彼女の身体の中で泣いた。
その涙の中は、
今まで彼女を独りにしてしまっていた、そしてもうすぐ独りにしてしまうことの謝罪と、
彼女のその寛大な心への感謝──それらで満ちていた。
包むように私たちを照らす月光を背に、私は決意した。
罪を償う前に、黒雨さんや美雪さん、寧音さんたちに謝ろうと。
そして、菜那と共に、それまでの時間を存分に楽しもうと。
翌朝の、あの事件が起こるまでは──。




