第53章 背徳
「──なるほど、そんな事が……」
私の話を一通り聞いた直後、花理崎 菜那は、何故だか少々落ち込んだ風な様子でそう言った。
夜の月光を遮るカーテンを、エアコンの風が揺らす。
「……何だか感じの悪い役人さんだね」
お察しかと思うが、いま私たちが話しているのは、私たちの住むこのシェアハウスで今朝起こったことについてだ。
「他に傷ついた人たちの為に、拒んでないで答えるべきだって言いたいのは判るけど……そんな言い方無いよね……」
口振りは子どもがふてくされて他人の悪口を言うみたいな感じであるが、態度は落ち着き払っているという言葉そのものであった。
そこから窺えることがひとつある。
彼女もまた、自分たちの抱えてきた主張の独善性に気づいていることである──。
──あの後、家に残った3人──私と乾 寧音、そして遅れて目覚めたばかりの初葉 美雪──で食べた昼食は、まるで味がしなかった。
それは、単に味が薄かったとか、身体の調子が悪かったとかいう理由ではない。
味覚、という神経に使うエネルギーすらも残さないほど、私の電脳が思考をフル回転していたからだ。
つい数時間前、緒張 万李という女に告げられたことは、私たちにとって考えもしなかった、しかし、言われれば至極当然であることだった。
──私たちの周り以外にも、大勢の死傷者がいる。
そしてその人たちそれぞれに、大事に想う人々が沢山いる。
或いは、その人たちそれぞれを想う人々もまた、数え切れぬ程いる。
その人々の、安らぐ暇すら有しない心を蔑ろにしたまま、自分たちの心が傷つくのを嫌って何も話さないなんてことは、本来あってはならないのである。
そんな当たり前のことにすら気付かず、失ったものが大きいからと自分たちを棚に上げていたことに衝撃を受けていた。
黒雨さんは予定通り出かけてしまったが、彼もまた同様に衝撃を受けているに違いない。
そして考えているだろう。
私たちの口から、あの日のことを話すべきか否か。
黒雨さんや私はまだ良い。菜那もまだ比較的復調していると言えるだろう。
だが残りの2人に関してはどうだろう。
寧音さんはこの事件においての第一発見者であるわけだし、元より精神が弱々しい。ちょっとしたことで、再び乱調してしまいそうだ。
そして美雪さん。事件発生前の彼女なら何てことは無さそうだが、今の彼女の心はボロボロと表現する他ない状態。寧音さんと同じ、“何が地雷になるか解らない”状態なのだ。
この2人の聴取には、それなりの対策を講じないと、今度こそ復調が困難になる。
そのことに黒雨さんは頭を悩ませているに違いない。
しかし私の場合は、全く以て別の内容で頭を回転させているのである──。
「──でもありえなくない?……その“狂った殺人少女”ってやつ」
菜那はそう口にした。
「だって1000人だよ、1000人。爆弾が爆破した跡も無いのに、そんなの分身の術でも使えない限り無理だよ」
無関係の人間のような口調の彼女だが、決して優しい表情はしていない。
“狂った殺人少女”を断じて許しはしない、そう言いたげな表情だった。
──そう、私が悩ませているのは、“狂った殺人少女”についてだ。
被害者やその遺族の心を解放していないのは、帰らぬ人に対しての想いともう一つ、
未だ正体の明らかにならない犯人に対しての恐怖であることは確実だ。
否、確実であるどころか、それが大部分である。
そしてその犯人は……私。
そういう推論を立てられている。
勿論、私ではない。私が殺したのは、事件の真犯人である早房 絢という男たったひとり──のはずだ。
しかしそんなことをいくら真実味を持たせて話したって、馬鹿げたことを言っているだけにしか聞こえない。物的証拠が無い以上、この推論は覆らないだろう。
大人しく正体を明かすべきなのかもしれない。
そして捕まるべきなのかもしれない。
世間の幸せを優先すべきなのかもしれない──。
「──ねぇ、杏紅」
すっかり思考の真ん中にいた私を、菜那の声が呼び覚ました。
反応の遅かった私には触れぬまま、菜那が口にしたことは、またもや私を戸惑わせるものだった。
「その万李って人に、私たちは無実だってこと、ちゃんと証明してやろうよ」
話の突飛してしまう発言だが、菜那ならいつかそう言うだろうと、私は既に予想できていた。にも拘らず、私はひどく困惑した。
菜那に対して私は、
正体を明かすべきなのか?
仮に正体を明かしたとして、私は彼女に許しを与えてもらえるのか?
かつての級友だと知ったら、彼女は何を思う?
その級友が、大量殺人を犯した上でここに居るという情報があっても、友情を優先するのだろうか……?
……いや、そんなことはしないだろう。何故なら、殺人鬼の私は、菜那にとって同じ友人である坂巳根 莉央という女性の命を奪ったことになっているから。
他人との友情を裂いた者とつながる友情などあるはずもない。
「う……うん、そうだよね」
心の中に生じた迷いに対する答えを出したつもりだったが、私の口は正直だった。
言葉や声に伴われた意思はもろくて、揺らぎが激しかった。
戸惑いのせいで震えていた声に、きっと菜那も気付いていたはずだが、彼女は何故かそれには触れなかった。
代わりに彼女は、部屋の壁に掛かったアーティスティックな白黒の掛け時計を見上げて、
「じゃあ、アタシもう寝るわ」
と言って、恐らくたくさんあるはずの話したいことをぐっと飲み込んだ風な表情をした後、彼女の自室に戻ろうとした。
彼女が振り返った時の背中が、
私に、多大な罪悪感を背負わせた。
そして、あれだけ揺らいでいたはずの私の心に、ある決意を生じさせた。
これ以上、彼女を置き去りには出来ない──と。
彼女は今まで、置き去りにされることばかり経験してきた。
稀崎 雛乃は、『大人』になって彼女の前から消えた。
坂巳根 莉央は、せっかくの信頼を無碍にするように彼女の前から消えた。
そして皆木 姫花は、ある日突然、何の別れの言葉も残さずに彼女の前から消えた。
それでも彼女は暮らしている。そんなことなど無かったかのように、溌剌と。
何の心の準備も出来ないままに、大切な人を3人も失えば、気がおかしくなっても何らおかしくないのに、彼女は別れた人を惜しむ様子も見せたことがない。
辛いのをひた隠しにして笑うことの苦痛を知っている私が、
菜那が失った3人のうちの1人である私が、
彼女に知られたくないからと、何も伝えないまま立ち去ることがあって良いものだろうか。
否。
彼女の前から立ち去ろうというのならせめて、事実を全て伝えた上で──。
「ねぇ」
ドアノブに手をかけたところの菜那を、私は声で引き留めた。
菜那は何故か、少しの間だけ振り返らなかった。
2秒ほど、彼女は静止した後、ゆっくりと振り返った。
「……何?」
そう言って首を傾げる菜那を前にして、再び私の口は、音を発するのを拒んだ。
9年もの間、何があっても告げなかった名前を口にするのを、この時の私の本能は、
見るからに凶暴な獣に、素手で餌をやろうとしているのと同じふうに捉えていた。
しかし、ついさっき心に決めたばかりの意思は揺るぎなくて、若干の吐き気すら感じながら、必死の思いで告げた。
「…………皆木 姫花…………って、憶え……てる──?」




