第47章 狂女
久々の長編!
ゆったりお読みください。
──その男、八洲香 十次は、配属5年目、27歲の新米刑事であった。
5年という、短いようで長い年月を経ても、この世界では新米。それが刑事なのだ。
まだ5年目だと、事件現場での仕事はさせて貰えることなどなかなか無い。事件後、単独での聞きこみ調査が関の山だ。
しかし彼の場合は、警察学校での好成績と、日頃の行いが認められ、晴れて今日、
T市に在るフロンティア・グラウンド研究所にて、つい先刻発生した大量殺人事件の現場調査に派遣された。
十次と、彼の先輩刑事──基が現場に到着した時、先着していた警官たちが、事件とは別の何かで大騒ぎしていた。
「どうしたんです、えらく騒がしいですが」
基が、普段署内でも仲の良かった警官の一人に問うた。
その隊員は、動揺こそしていないものの、落ち着かないと言った様子で告げた。
「実は、この森林の奥にある、トレイル・ブレーザー所有のコテージホテルで、同じように殺人事件があったとかで、3人ほど警官を向かわせたんだが……連絡どころか、現在地も掴めなくなってな」
「ですがここは、ただの森林じゃないでしょう?」
「ああ。耐高衝撃ガラスと特殊電磁波壁のお陰で、外界からの干渉は一切出来なくなっている。そして鳥獣の類も中には一切居ない。
つまり此処は、ただ木だけが生える、鬱蒼とした森ってことだ」
それは十次も聞いたことがあった。何でも、そのトレイル・ブレーザーの社長、界坂 風麻氏には、このフロンティア周辺一帯を、研究所を中心としたリゾート地にするという計画があったそう。
因みにだが、その界坂氏、及び彼の娘であり、次期社長候補として名高かった花蝶氏も、胸を一突きされ即死したと考えられる死体となって、力無く転がっていたそうだ。
「それで、いまはその……」
「そう、対応に困っている。
現在地も掴めなくなるってことは、3人の乗って行った車は破壊されたに違いない。
そして猛禽も獣も居ないこの森でそんな事が起こる理由は、単独事故じゃねぇとすると……」
基を試すようにその警官が言うと、基はゆっくりと言った。
「……人間」
その通りだと言わんばかりに、警官は大きく頷いた。
「恐らくこの一連の事件の犯人──単独犯か、或いは複数犯かの仕業だろう。車に乗っていたのが1人ならまだしも、手の空いている警官を2人も乗せている車相手にそんな事が出来る奴だ。余程狂気れてんだろう。
そんな奴らを野放しにはできねぇ……だがかと言って無闇に別の助けを出しまくって犬死にするヤツを増やすのはもっと出来ねぇ。
ってことで、困ってんだ」
彼は無精髭の目立つ顎を手でさすりながら言う。
「じゃあ行きましょうか」
彼のその熟考を歯牙にもかけず、基がそう提案した。
「はぁ!?何言ってる!?」
勿論、警官は怒鳴る。
「話聞いてたか!?仲間が3人殺されてんだ!それ無視して、自分からノコノコ出向いて行ってどうする!」
「まあまあそう怒鳴らんでくださいよ。安心して下さい、何も独りで行こうなんて言ってねぇじゃねぇすか」
「そういう問題じゃねぇ!」
警官がすぐ傍で怒鳴るので、まるで自らが叱られているような気がして萎縮する十次。
「人数の問題じゃねぇよ、タイミングの問題だ!無闇に突っ込んで犬死にする可能性は大いにあるんだ!
ふざけて無謀な策提案するくらいなら、もっとマシなこと考えろ」
「タイミングの問題……?」
ボソリと基が呟いた時、十次はヤバいと思った。今すぐ彼を止めなければと思った。
しかし、もう遅かった。
「ふざけてんのはどっちなんすかァ!」
彼は、いくら仲が良いとは言えど先輩であるその警官の胸ぐらを勢い良く掴んだ。
そう、これが十次の危惧したこと。
基が他人に聞こえるか聞こえないか程度の小さな声で何かを呟いた時、それはたとえ相手が誰であろうと怒ってしまう前兆なのだ。
「コテージには誰も居ないんすか?居るんでしょう!?その生命を救うのが第一じゃないんすか!?」
この通り、この基という男は人一倍、正義感が強い男だ。
小柄で、筋肉の付きにくい体質を持つ彼だが、他の危険を取り除く為なら己の危険を省みぬ所がある。
それで何度か危うい目にも遭っているが、それでも、救われた人の笑顔を見るのが本望なのだと彼は十次によく語るのだった。
「……判ったよ。オレが間違ってた、すまんな」
その基の言葉が響いたのか、警官は謝った。
基は我に返ると、申し訳なさそうに2回ほど頭を下げ、そそくさと車に向かう。
その際、彼は十次の胸を拳でトンと突いた。
「行くぞ」
と、短い言葉を付け加えて。
十次は瞬時、僅かな不安を抱いたが、それもすぐに払拭し、コテージに残された人々を救いに向かう決意を胸にした──。
──実に奇妙だった。
森の中は暗闇に包まれたままなのだ。
一見、それは何の変哲もないように思えるが、
十次たちが遂行せねばならぬ任務のうちの一つ──音信の途絶えた仲間たちの調査及び救出、それを頭に入れていれば、その奇妙な事実に気付く。
彼等は、車に乗っていたにも拘らず、
その車が破壊された後に起こる、火や煙が全くと言っていい程無いのだ。
危険を承知で、上司の意見を押し切って飛び出して来た基も、
彼に連れられ運転手を任されている十次も、
かつて抱えたことのないであろう恐怖の圧に押し潰されそうになっていた。
彼らは、暗闇からいつ突然飛び出して来るやも判らぬ狂人に対する恐怖も抱えていたが、それよりも
その後──痕跡も一切遺さぬまま殺されて、誰にも気付かれぬまま散っていく事に対する恐怖の方が大きかった。
「……コテージまではどれくらいある?」
助手席の基が尋ねる。
「……あと、10分ほどでしょうか」
十次の声は震えている。
初仕事がこんな、身の毛もよだつ事態になるなど、思ってもみなかった。
彼自身、基に負けない程の正義感と勇気を持っていると自負していたが、そんな物はたった今、風の前の塵のように呆気なく吹き飛んだ。
正気を保っていられるのが不思議な程の恐怖に圧力をかけられながら、彼等は最優先任務──コテージホテルに残留中の人々の救出に向かう。
車を走らせること10分。
コテージの光と思しきものが、彼らの車を照らした。
「よし、着いたぞ!」
白い光に安堵する基。助けに来たのか助けられに来たのか、曖昧である。
十次も、
「ふぅ……」
と溜息を漏らし、一安心する。
しかし、一難去ってまた一難というのが、こういう場合の常である。
コテージまでの距離が判った十次は、再び兜の緒を締めるように、ハンドルをガッシリと握った。
その刹那だった。
折角収まったばかりの恐怖を煽るように、
紅くて、フワリと浮かぶ、
鬼火のような光が2つ、
車の前方、凡そ100メートルほど先に現れたのだ。
「あれは何だ……?」
その“鬼火”には、基も気付いていた。
十次は首を傾げた。
彼の中ではその瞬間、まだ安心の方が優っていた。それもそのはずだ、先程までの、岩のように硬く重たかった恐怖に打ち勝つほどの安堵が、そう簡単に崩れ去るとは思えない。
だが、百メートルほど車が進行し、“鬼火”の周辺の委細が徐々に判明するにつれて、彼等の恐怖は勢いを増していく。
“鬼火”の正体は、人間の眼だったのだ。
脱力しきった腕はだらんと下に降りていて、少し首を傾けたままフラフラと歩み寄ってくる、少女の眼が、紅く発光していたのだ。
そして、彼女の足下には、
頭から足の先まで血塗れの男が一人、
木に凭れかかるようにして居た。
戦慄。
基と十次の背筋は一瞬にして凍りついた。
仲間3人を殺った、そしてこの一連の事件を引き起こした、狂気に満ちた犯人は此奴に違いない。
走り去ろうと考えたりもしたが、それを行う為の脚が言うことを聞かない。
このまま居れば、間違いなく殺されてしまうことに対する恐怖が、その死と恐怖から逃れる手段を全て断ってしまうという矛盾に、2人は支配されていた。
そうこうしている間にも、少女は一歩一歩、歩み寄ってくる。
殺害現場を目撃した奴の口を封じる為に。
着実に強まる恐怖の中、微かに残った勇気が、基を突き動かした。
「うおおおおぉっ!!」
彼は、腰に据えていた緊急用の電強拳銃を握ると、
その微量の勇気を増大させんとばかりに大声で吠え、
果敢にも車を出て、殺人少女に対峙した。
震える両手で銃を握り、その両腕を伸ばして、正位で構えた基。
緊急用であるから、量の限られているエネルギーしか備えていないその銃で、基は、乱れ撃ちしてみせた。
大きな傷にならなくてもいい、責めて当たれ──そう念じて。
その様を──無鉄砲としか言いようのない、されど賞賛すべき勇敢な姿勢で突入していく基の様を、
未だ恐怖に支配されていた十次はただただ見守るしかなかった。
応援も、本部への連絡も一切せずに。
それが正しい行動でない事は、重々承知していた。
然れども、この一瞬にどうすればいいかなどという判断を出来る状態では全くなかった。
恐怖に打ち勝ち、勇を鼓して立ち向かう先輩の背中を、賛辞を送りながら、見守るしかなかったのだ。
そして十次は、
一部始終を見た。
少女は、電強拳銃という、鉛の弾を用いる通常の拳銃よりも、広範囲且つ強力な攻撃が可能な銃の連撃を、
踊り舞うが如く華麗に、透過する幽霊のようにスイスイと躱し、
妖しく囁く小悪魔のようにそっと基に近づいた。
そうして、無我夢中で撃ち続けたまま、少女が近づいてきていることに気付いていない基の顔面の数ミリメートル前に、ハラリと手を持って行った。
その手の存在を、基が認知した瞬間、
少女の手が、
基の身体における、首から上の部位──つまり顔を、
跡形もなく掻っ攫った。
ちょうど、マラソン選手が給水地点で水の入ったコップを手に取り、水分を補給した後、乱雑に捨てるのと同じで、
まるでそれが当然だと言うように、
少女は基の頭を、真下に落とした。
ただ重たいだけの肉塊と化したその頭は、ガサッ、という音と共に、土の上に転がった。
それを目撃した十次の恐怖は、いよいよ最高到達点に達した。
だがそれが、奇跡的にも好機に転じるきっかけになった。
まず、その恐怖は彼の言葉を奪い去った。これが、少女に気付かれにくくなるという役割で彼を助けた。
次に恐怖は、彼を車の外に追いやった。この行動により、十次に逃げ場を与えた。
これら二つの効果に、勿論彼自身は気付いていない。
さて、この次に彼はどうしたか。
答えは単純ではなかった。
彼は刑事として働き始めてからというもの、基が仕事の時以外は常にと言っても過言でない程に、基に付きっきりだった。
その所為か十次には、基の正義感と勇壮さが伝染していた。
その2つが働いたことで、彼はこの瞬間、
慌てて逃亡するとか、沈黙を保って隠れているとか言うことはせず、
震える手をもう片方の手で必死に抑えながら、運転席に転がっていた腕取付型携帯電話を取り、
「メ……メーデー!メーデー!
し、森林内部にて、犯人と思われる人間を発見!応援願う!オーバー!」
と、今まで絶対出したことがないと断言できる高い裏声で救援を願い出た。
その声を、少女が放っておくワケは無論、無い。
十次が一通り言い終わり、相手の返答を待っていると、眼の前で、誰かが土を踏みしめた音がした。
その誰か、の正体は当然知っていた。
それでありながら、彼は重い頭を上げた。
やはりそこには、
あの紅眼の少女が立っていた。
一寸先の光景すら補足しにくい暗闇の中で、十次はその少女を見つめた。
同じように十次を見つめる少女の眼は、良く言えば純粋だった。
眼の前の獲物を殺すことに、純粋に見えた。
獲物がこれまで築いてきた背景や、獲物が大切に想う家族や友人などの事を想像して、殺す手に瞬時、迷いの感情が入る──そんなことは全く無いと言える。
彼女の殺人に対する純粋さがあれば、獲物をその目に捉えた途端、殺す為の最善手を執ることが出来る。
十次はそれを、一瞬にして把握した。
神や運命と言うのは非情だなと恨んだ。
今まで、人道から逸脱した事は無いし、世のため人のために精一杯働いてきたつもりだった。
それでもまだ足りないというのか──十次は切にそう思った。
思うに留まった。
嘆きも叫びも、まるで出て来ない。
その口から漏れるのは、
「た……助けてくれ……!」
という嘆願の言葉の繰り返し。
それが通じれば苦労はしないと言うことを、頭では判っていても、本能がそうせよと口に直接命じていた。
そんな助命嘆願も虚しく、次の瞬間には、
少女の身体に宿る、刑を執行する刃──小さくて鋭い手が振りかぶられた。
その際、地べたに転がっていた腕取付型携帯電話から、先刻の救援依頼に対する、本部の応答が、
『……ど……した……!返……をしろ……!』
と、その必死さがスピーカー越しでもはっきりと伝わる声で十次を呼んでいる。
その腕取付型携帯電話を、少女は何の躊躇も無く、道を渡る小さな虫の存在に気付かずにそうするように――尤も今の彼女は、それに気付いた上でそうしたが──左足で踏みにじった。
踏み潰されてしまった腕取付型携帯電話は、限界に達して息絶えてしまう人間のように、ジジジ……と僅かに残っていた電気を漏らした末に、その一生を終えた。
それを見送った十次の番が、いよいよ回ってくる。
最早、思考は作動していなかった。
何者の命令にも従わぬままの彼の口からは、命乞いの言葉ばかりが弱々しく発され続けていたが、相変わらず効力を持たなかった。
そしてその瞬間は、残酷にも訪れてしまう──。
中世ヨーロッパの断頭台の刃の如く、何の感情も無く振り下ろされ始める手刀。
己の死が近づこうとも、嘆願を止めない十次。
しかし感情の無い少女の持つ刃は留まらず、
その手が、十次の皮膚に触れた。
その時の感覚が、
死刑を断行する手が触れた時の、生暖かい感触が、
十次の死に対する恐怖を、それがあったのがまるで嘘であったかのように、跡形も無く奪い去った。
その刹那──
手が、
首の辺りにあった、
死を怖くなくしてくれる、
皮膚と皮膚の触れ合った感触が、
無くなった──。
自分はこれから死ぬものだと思っていたから、十次は感覚というものを捨てていた。
“この狂った女と、彼女が齎す死からは逃れられない”という絶望は、死に対する恐怖のみでなく、神経と脳の正常な連絡網機能も失わせた。
それらは、
十次が再び前を見て、
刑執行人である少女の姿が無いということに気付いた時に、全て返却された。
したがって、再び彼は恐怖した。
「あ……ああ……」
と、声を漏らし始めた。
どこか、後悔の念すら窺える声を。
その中で、彼は少しでも恐怖を取り除きたい、と思った。
その為に、己が目にも見て取れる真相を究明しようとした。
一体誰が、この世の殺意を集結させ凝固し出来上がった悪魔か化け物にしか見えないあの女の刑執行を食い止めたのか。
幼い頃に夢見た英雄のように、颯爽と現れ、危機を食い止めてくれた救世主──
と言いたいところだが、今の十次にとっては、自分を苦しめた恐怖を拭い去れそうだったタイミングで、まだお前は生きるべきだと言わんばかりに、その恐怖を引き戻してくれた考え無しなヤツ──は一体誰なのか、突き止めようとした。
そいつは、十次が呼んだ訳でもないのに、自ら声を発してくれた。
「おい!そこの男!」
そいつの声だ。
十次は──何を助けてくれてんだ!──と、無配慮なその男に向かって吠えそうになったが、彼なりの善意による行動であったことに漸く気付き、何とか喉元で堪えることに成功した。
では、その無配慮な輩とは一体誰なのか。
その事を疑問に思い、十次は辺りを見回した。暗闇である上に、声のした方角も把握していなかったので、こうするしかなかった。
すると、ある事が判った。
先程まで、あの木に凭れかかっていた男が──まるで、子供に遊び飽きられて乱雑に捨てられた後の人形のようだった彼の姿が、
無かったのだ。
「聞いてんのか!男!」
衝撃の事実が判明したところで、もう一度、あの声が耳に入った。
今度は確かに方角を掴んだので、十次は闇に向かって必死に目を凝らした。
すると、見えた。
傷と血だらけの身体の、あの男が。
ヒーロー気取りは一切せず──というかする余裕などもないのだろう──ただこちらの身を案ずるように見つめていた。
だが不思議なのが、血塗れにも拘らず、よろめいたり、立つのがやっと、というような素振りは一切見られないところだ。
大健闘し、惜しくも敵わなかった戦士の如く、力なく倒れていた彼に、
傷だらけであること以外には、闘った跡が見られなかったのだ。
それによく考えれば、あの女の攻撃を食い止められることもおかしい。
人間の身体は、そう簡単には壊せない。
ましてや、あの華奢で細い腕で、人間の首を、あれほど容易に取り外すことは人間業ではない。
しかし、彼女はそれを行った。
その彼女を、あの男は食い止めたのだから、どう考えても普通ではない。
ダメだ、考えれば考えるほど、頭から湯気が出そうになる。
そうこうしている間にも、女は復活し、刑の再執行に向けて動き出していた。
それも踏まえてか、例の男は痺れを切らしたのか、十次に向かって命じた。
「今すぐその車に乗って来た道を帰れ!逃げるんだ!」
と。
この時、十次の中で何かが芽生えた。
“刑事としての意地”だ。
そもそも英雄になるべきは、刑事である自分じゃないか。恐怖だの何だの言う前に、基のように闘う道を選ぶのが妥当じゃないか。
その過ちを犯しておきながら、『逃げろ』と言われたから逃げるなんて、
警官を夢見て日々奮闘していた過去の自分が許さない。
──ので。
「な……なら、オ、オレもたたかう!」
と、心許ない裏声で宣言してみせた。
が、その言葉も、
「ふざけたこと言ってんな!声も震えてる!悪いことは言わねぇ、さっさと逃げろ!」
と一蹴された。
それとほぼ同時、
ガサガサガサガサ!
と、辺りの茂みが一斉にどよめきだした。
獣も虫も居ないこの森で、そんな音を作り出せるのは、例の女しか居ないワケだが、茂みという茂み全てが騒ぐので、何処にいるか判断のしようがない。
十次も男も必死に捜すが、見つかる気配がまるでしない。
しかし、男は諦めなかった。
そのお陰で、5秒ほどそんな時間が続いた後の、茂みを掻き分ける音が一瞬止むのを判別できた。
止んだ地点の方を見る。
やはり、女は其処に居た。
「危ねェ!後ろだ!」
男は叫んだ。
十次は、それを聞いたところで、どうしようもない。彼の力では受け止めるどころか背後に迫る女をその目で見ることすら出来ない。
それを知った男──早房 絢は、彼自身が、その女──暴走する愛翠 杏紅を食い止めるために跳んだ。
何とか、絢は間に合った。
そのボロボロの腕で、杏紅の手刀を受けた時に感じたのは、
──こいつ……なんてパワーしていやがる──だった。
より気付かれにくくするために、杏紅は素早く、且つ無音であることを心がけねばならない。そうなると、俊敏に動くための下半身や、様々な物体に触れてしまう身体全体に意識や制御するためのエネルギーが、必然的に優先される。
それ故どうしても疎かになってしまうのが、実際に攻撃を仕掛ける部位にかけられる力だ。
しかし、今の杏紅には、その理屈は通用しない。
その攻撃は、自らの出せる限界の力を全て込めたのではないか、とさえ感じてしまう程、重かった。
防御力には多少自信のある絢がこうしてたじろいでしまうのだから、
一般人の十次に受け止められるはずもない。
それは十次本人も理解していたようで、
次の攻撃までの間に、絢が、
「早く逃げろと言っているのが聞こえないのかっ!その車でなるべく遠くまで逃げろォ!」
と叫んだ直後、大型犬に威圧された小型犬のように、尻尾を巻いて逃げた──。
──道中、そこら中の木や草に邪魔されながらも、十次は往路よりも10分早い時間で復路を帰った。
至る所に凹んだ跡や傷がついている車体と、
傷こそないものの、泥に塗れ、疲弊しきった顔をした十次を見て、
フロンティア・グラウンドを調査していた警察官全員が憂慮の面持ちを浮かべた。
「さっきの連絡は……お前か?」
そう尋ねてきたのは、出発直前に基と言い争っていた、あの警官だ。
その質問に対して十次は大きく頷くと、唐突に、嗚咽混じりの涙を流し始めた。
「基(はじめ゛)さんが!ごろざれ゛ましだ!」
号泣しつつも、あったことを懸命に伝える様を見て、皆、言葉を失った。
警官は──やはり送り出さなければ──という後悔を募らせつつも、まずは十次を落ち着かせようと、彼に肩を貸した。
「詳しい話は……帰ってから聞こう」
その涙に関しては何も言わず、警官は、送りの車に彼を誘った。
「……女」
「……ん?」
十次が何か呟いたのを、警官は聞き逃さなかった。
「……女が居たんです。そいつに……先輩は殺された……!」
「女……身元は分かったのか?」
「それどころじゃありませんでした……茶髪の……痩せた女だということ以外は……」
「そうか」
「……でも、助けてくれた人が居たんです……その人が居なかったら……あの“狂った殺人少女”からは逃げられなかった」
「……判った、もう話さなくても──」
「オレは!あの人のようになる!」
震える声で、十次は叫んだ。
その叫び声に、またもその場にいた皆の目が奪われた。
「誰だろうと救ってみせる……!化け物だろうと負けねェ男に!
オレはなるんだっ!!」
そう宣誓した十次は、今まで以上に大きな声で泣いた。咽び泣いた。
ボロボロと溢れ出るその涙の裏にあるのは、
九死に一生を得た事に対する安堵か、
かけがえのない人物を失った悲愴か、
あの男のようになる、という決意か。
問うたものは、誰も居ない────。




