第46章 刹戦
──私の背中で突き破られたガラスは、
ガシャァァァン!!
というそうそう聞くこともないけたたましい音をたてながら砕け散り、
その破片の2つか3つが、私の左頬と、右脚の太腿に、切疵を創り出した。
私の背中を、ガラス窓の突破に利用した当本人──早房 絢の両手は、私の首元をこれでもかと言わんばかりの力で掴んでおり、私がちょっとやそっとの力を出したところでは、引き剥がせそうになかった。
ましてや今この刹那、私は浮いている。力を存分に込められる状況ではない。
したがって私は、ガラス窓を抜けた先にある地面に背中がつくまでは何もしなかった。
そのぶん、感覚と反射神経を司る伝路の、精密且つ迅速な作動に集中した。
そして、0コンマ数秒後、
背中の一部が地面に着いたのを私は確認した。
それと全く同時、私はこの形勢を逆転する為に尽くした。
恐らく、私の身体が地面に叩きつけられた時の衝撃は、微弱ながらも、絢に伝わるはず。その際、絢の力は、絢の意思に関係なく、僅かに緩むだろう。
ほんの一瞬の間できる、その不慮の隙を突いて、この上下の体勢を引っくり返すしかない、と、ガラス窓を抜けた瞬間から考えていた。
しかし、それは甘かったと知る。
私が態勢を立て直す為に起き上がることは、絢の予想の範囲内であったのだろう。
そうはさせまいと、彼が執った行動は、
私の首を捻ることだった。
起き上がろうとする身体につられて起きる、上に向かう力と、
絢がかけている、横に向かう力。
同等、或いは片方が優っているかと思しき2つの力が、このまま私の首にかけられ続ければ、危険であるということは当然の事実。
したがって、この状況をすぐに脱しなければ、命が危うい。
私は起き上がろうとするのを中断した。
だが、このまま黙って首を捻られノックアウト、という展開には持ち越したくない。
次の作戦を考えるのに、私は絢の眼を見た。
完全に、私の首元に集中しているのが見て取れた。
ので私は、ガラ空きだった絢の脇腹部分に、
やや絶えつつある息の中で出せる全力を込めた拳を炸裂させてやった。
「ぐふっ……!」
堪えきれずに息を漏らした絢。
無論、首元に押さえられ続けていた両手の力も緩んだ。
数秒ぶりの酸素を取り込んだ私はすかさず脚を内側に屈め、
ちょうど彼の胴体の中心あたりに足裏が当たるように、その脚を伸ばした。
しかし、絢はその攻撃を察知したのか、
足下の地を強く蹴り、大きく背後に跳ぶことで、
私の蹴りを回避した。
私たちの間には、10分か20分程の時間が経過されたかのように感ぜられたが、
実際時間で言えば、瞬き1回分程しか時間が経っていない間の出来事だった。
凝縮された時間を過ごした私たちは、一息ついてお互いの様子を探る。
その中で、互いに気付いたことがあった──。
「お前……噂に聞く、NHFW-1500か?所謂【強制返還法】を免れたって、話題が立ってたよ」
しかし彼は、ごく小さいものではあるが、間違った解釈をしているようだった。
彼の言う機体名──NHFW-1500とは私ではなく、少し荒い気性を持つ女、金子 結由──つまり現在、乾 寧音という、あの非攻撃的な少女の魂が宿る機体に付けられた名前だ。
“天獄”──広楽島から逃亡し、血眼で捜し出し、にも拘らず逃してしまい、今も何処かで暮らしている憎々(にくにく)しき女──絢はそう考えたのだ。
それも仕方のないこと。私の今の正体を知っている政府の人間は居ないから。
なので私は、イエスかノーの返答はせず、敢えて答えを曖昧にして、
「……そう言うあなたは、人間のようね」
と返した。
絢はそれを聞くと得意げにほくそ笑み、
「そうだが……なにか珍しいことでも?」
と言った。
「珍しい事だらけだと思うわ」
負けじと私も返す。
「そのパワーと俊敏性……そして状況判断力は神がかったものが感じられるわよ」
そいつは光栄だな、と絢は返してきた。次いで、
「だがそれは、お前にも共通しているんじゃあないのか?」
と問うてきた。
「“天獄之外”で訓練したワケでもねェのに、オレに付いてくるとはな」
「……そう言うあなたは、何処かで特別な訓練をこなしてきたと言うの?」
私がそう訊ねても、彼はほくそ笑むのを止めぬまま、こう話した。
「特別なんて言葉じゃ片付かねぇ……2度3度は死んじまいそうな訓練だったさ。
『Special Humanoid Assassin Team』──通称『SHAT』に劣らぬ実力を会得する為に、オレ達は死に物狂いで訓練を突破した──。
だから今みたいなのなんか、屁でもねェ……!仮に今ので全力出してたのなら……
お前、死ぬぜ」
絢は、宛ら挑戦状を叩きつける戦士のような勝った風な表情を浮かべながらこちらを見つめる。
しかし、死ぬ気など欠片も無い私。
「……それじゃ……その実力、見せて欲しいものね」
と、挑発してみせた。
その挑発に乗ってか乗らずか、絢は直後に、
拳を伴ってこちらに駆けてきた。
先程とは違って、不意打ちではないから、構える時間は十分あった。
絢もそれを知っていながら突撃しに来たに違いない。
それでも勝てる、と考えていたから。
両手両足を使った怒涛の連撃。
受け止めるのが精一杯だった。
しかし、普段と何も変わらない状態の私に勝ち目もない。
時折、受け止め切れなかった蹴りが、私の脛や足首を掠めていた。
だがその傷が生む痛みも、第六感に近い感覚で攻撃を察知し防御するのが限界の私は、感覚として受け取っていなかった。
よって、私の電脳は、蓄積されていくそのダメージを知らずにいた。
私は攻撃する暇も与えられず、ただただ防戦一方。
その疲労も相まってか、絢の連撃が1分程継続されていた中、絢の一蹴りが、私の足首に決まった瞬間、
その足首が悲鳴をあげた。
その激痛は、さすがに電脳も無視出来ず、堪え切れなかった私は、結果、
その場に崩れるように倒れてしまった。
「くっ……!」
思わず声を漏らしながら倒れた私の身の上に、間を置かずに、絢が跨ってきた。
その顔には相変わらず、勝ち誇ったようににやついた表情があった。
「……さっきのは偶々(たまたま)だったようだな」
一方的に攻め続けていた、というのもあるのだろうが、それにしても不思議なくらい、
絢の息はあがっていなかった。
やはり『SHAT』に追随する実力を持つだけはある。肺活量も尋常ではないようだ。
このままじゃ勝ち目がない……!
でも……これまでだって似たような状況はあった。
それを切り抜けてきたから今がある。
アレを……“勇戦状態”にさえなれれば……!
と念じてはいるものの、どうしてもなれない。
今までのような、引鉄が無い。
私の心の奥底に眠る“勇戦状態”を目覚めさせる決定打に欠けるのだ。
これは……『“勇戦状態”に頼ってばかりでは勝てない。それに頼らずとも勝てる方法を探し出せ』という、神のお告げか何かなのか……?
と焦る私を下目に見つつ、絢が言った。
「正直言って期待外れだな……あのスピードの攻撃についてくるんだから、本気になればどんなもんかと楽しみにしてたのによ」
ガッカリだと言わんばかりに溜め息を吐く絢。
「本気……復讐に燃えるヤツらをぶちのめす、って悦しみが一つ減って残念だよ」
──プツン──。
何かの音。
私の身体で起こった音。
小さく、それでありながら身体中に響く音。
私の中核を担う何かが、切れた音──。
「……ククク……!
昔から小柄でよォ……弱そうな見た目のオレをナメて突っかかってくる奴ァ多かった……。
それに腹が立ってよォ……そういう奴はみんな叩きのめしてやったんだ。
それがいつの間にか……悦楽感に変わったんだ。訓練を受けてから、より強くなったその力で捩じ伏せられた後の殺られる奴の表情を見てるとよォ……」
絢の顔は、みるみるうちに、先刻の幻滅するようなそれから、
恍惚感に浸る、何処か卑猥な雰囲気すらある表情に変わっていった。
「悦しくてたまらねぇんだよォォ〜ゥ!」
不快だった。ただただ不快だった。
やがてその不快感が吐き気に変わった時、
あの音が、再び私の中で響いた──。
──プツン──。
「さっきもよォ……あの女を──坂巳根 莉央の部屋に入ってよォ……
オレァ『今からお前を殺すがイイか』と訊いてやったんだ……!
勿論答えは『ノー』だったよ……そしてアイツァ……貫禄の漂う、女王様のような態度で言いやがったんだ、
『お前に、人を殺せるはずがない。そのような痩せた身体で』ってなァ……!」
莉央。その名を聞いた私の脳裏に、彼女の笑顔が過ぎる。
今日漸く、それが嘘偽りでなかったと知った、あの笑顔を。
「ナメやがって、と思った瞬間、オレのスイッチは入るんだ。
痩せて、小柄だから……自分でも勝てると思ったあの女に、キレたんだ!」
違う。
彼女の言葉に込められた真意はそうじゃない。
彼女は、命の尊さを知っている。
気安く売っていいものではない事を知っている。
他人に従い、言うなりのままになって人を殺めたという過ちを犯した彼女なら、
殺してやるなどということを軽々(かるがる)しく口にしてはならないという意図を持ってそう告げたはずだ。
彼のした解釈のような、ただ他人を下手に見る意思を持って告げたのではないことくらい、真実を知った私なら判る。
「それからのオレの豹変ぶりにビビったアイツの表情……最高だったぜェ……!?
お前には解らねェだろうなァ……額は冷や汗だらけでよォ……!口は細かく震えるし……!何より、泣いてんだよアイツ!命乞いでもするみてェによォ!
嗚呼……アイツの怖がる表情を思い出しただけで……興奮して鳥肌止まらねェよ……!」
恍惚感が膨れ上がり、所謂絶頂を味わった絢の顔を見た瞬間、
──プツン──
今までのよりも大きな音を立てて、
今までのよりも太くしっかりした何かが切断された────。
「────お前はそう言うのはねェのか……恐怖に慣れているのか……疲労感でそれどころでもないか……或いは、恐怖が強すぎて最早感情として表れなくなった、とかかァ……?」
男──早房 絢は、絶頂を味わう最中、
跨っている身体の持ち主である少女、
もとい“女性人造人間”が、死に対する恐怖の色を微塵も見せない理由をあれこれ考えた。
しかし結論から言うと、そんなことはどうでもよく、
相手が恐怖する表情を見せないこの状況すら悦しんでいた。
その“女性人造人間”の精神の中で、
理性という名の箍枷を完全に捨てるという行為がなされた事を、
知らぬまま──。
「まあ……オレァとにかくお前を殺せりゃァ満足なんだがよォ……!!
死ねェェェ──」
絶頂の、その更に最高潮を味わおうと、
若しくは、その死に様をしかと目に焼き付け、余韻を味わおうとして、
絢はその右手拳を高々と振りかぶってから、
人間であろうとなかろうと、その部位に致命傷を負えば死に至る確率は格段に跳ね上がる、頭蓋骨に向け、それを放った。
勝利を確信していた。言い換えるなら、負ける場合を想像出来なかった。
だから絢は、
致命傷を負わせる筈だった右拳を、
跨られている女が掴み、
まるでリンゴのような果実をそうするように、
掴んだ手の力だけで易々(やすやす)と砕かれてしまっても、
その瞬間は、微か程も痛みを感じなかった。
というより、視覚で認識はしていても、それがいかに重大で深刻な事であるか理解していなかった。
結果、彼が、水底まで浸かっていた恍惚感から勢い良く放たれ、痛みに悶えることになったのは、
右手の骨を粉々に砕いた力が伝わり、手首から肘にかけての骨まで全て粉砕してしまった直後だった。
「ギィィィヤァァァッッ!!!」
闇に包まれる森林に響く、絢の悲鳴。
その所為か、暗闇に潜むように、木々に留まっていた鴉たちが、バサバサと羽音を立てて飛び立って行った。
「グゥオォゥ……!こい……つ……!」
患部を押さえ、唸る絢。
そんなことなどお構い無しとばかりに、女は追撃を重ねようと、
今まで散々、自らがなされてきたような蹴りを繰り出した。
痛みに全神経を支配されてしまいそうな中、僅かに残る感覚だけで、その蹴りを、決まる直前に察知した絢は、
本気の速度で背後に跳んだ。
間一髪、難を逃れた絢だったが、彼には一息つく間も与えられない。
強まる痛みで朦朧とする中で、眩む視界で、女の姿を捉えようとした。
しかし、先程まで居た筈のその場に女の姿は無く、
コンマ数秒を更に10分割した時間を意識出来る程に研ぎ澄まされた感覚を駆使し、
顳顬を掠めたそよ風で、
いつの間にか、背後に忍び寄っていた女の存在を把握し、
咄嗟に、躱す態勢を執った。
その察知が、ほんの僅かでも遅れていれば、絢は確実に致命傷を負っていただろう。
その事実を彼自身が知ったのは、
女の拳が空を切った時、
ブゥオォン!!
と音が鳴り、突風と見紛ってしまいそうな勢いの風に襲われたからであった。
その瞬間の絢には──無論というべきか──恍惚感などという感情は、塵ほどもなかった。
彼にあったのは、その恍惚感の材料であるとしていた、
恐怖、それのみであった。
更にそれは、彼が女の姿をしかと捉えた瞬間、倍増してしまう。
両腕はだらんと脱力しており、あの拳を振り下ろしたそれとは思えない。
少し首を傾けたまま、絢の方に突き進んでくる女の眼差しには、生気は全く通っていなかったが、その眼球の奥で、ダイオードランプが紅く光っていた。
その姿が与えるのは、
感情の無い殺戮機械の生み出す戦慄の質を持つ恐怖でも、
死に怯える人間を見ることに悦びを感じる異常者に対する脅迫の色を帯びる恐怖でもない。
得体の知れない絶望を帯びた恐怖。
この状態の女に、何をしようと打開出来ないと、本能が直感的速度で感づいてしまった時に浴びせられる恐怖なのだ。
その恐怖に刺激されたのか、絢の聴覚と視覚が、いつにも増して過敏になっていた。
そのお陰で、
先程の悲鳴を聞きつけてコテージを抜け出し、こちらの様子を見に来た誰かの立てた足音に、気づくことができた。
絶望の中、他の人間にバレることはまずいことだと言うのは判断出来たので、
女に隙など無いのは承知の上で、森林の奥──ちょうどフロンティア・グラウンドの研究所がある方角に飛んだ──。
アドバイスを頂いた、
なおさん、千曲さん、本当にありがとうございます!




