第31章 憎戦
「──宙音……!生きてたんだな……!」
隣に立つ、所々破けたデニム柄のジャンパーを着た一人の少女、結由。
彼女は、目の前に立つ緑髪の少女の姿に安堵の声を漏らした。
しかし当の本人は、眉一つ動かさない。
眼前で安心に表情を緩ませる少女が、かつて死戦をくぐり抜けた友人だったというのに。
「宙音……?大丈夫か?」
妙に空いていた距離を縮めようと、結由は歩みを進める。
しかし、その配慮は無駄なものだったと、彼女は知ることになる。
その少女──宙音は、結由の言葉に応えるように足を一歩踏み出した。
それを認め、思わず口角の緩む結由であったが、
次の刹那、
10メートル程あったはずの距離が一瞬にして無くなり、
宙音は、重く速い拳を結由の鳩尾に食らわせた。
しかもそれはただの上半身攻撃ではなかった。
その攻撃によって、結由の身体は後ろに飛ばされ、私たちの乗っていた車にぶつかり、
その衝撃が、車をグチャグチャに壊したのだ。
「結由さんっ!」
その一部始終を見ていた私──愛翠 杏紅は、金属の塊である自動車にその身を叩きつけられ、
「グフッ……!」
と声を上げながら吐血する結由の身に向かって叫んだ。
「よくやった、角中 宙音よ。そのまま捕獲にかかれ」
「……了解」
私と同じく、その戦いを旗から見守っていた指揮官の“女性人造人間”、獅牙 百華の命令に答える宙音の声は、
柔らかく、どこかに優しさを含ませながら、けれどもその大部分は冷淡さで構成されたものだった。
「宙……音……!?どうしちまったんだよ……!」
痛みに耐えながら立つ結由。
その声はまだ、宙音のことを心から信じていた。
「手荒い……挨拶じゃねえか……!」
「広楽島の管理長が言っていたそうだ」
結由のかけた言葉に応えたのは百華だった。
「『人体番号NHFW-1200、角中 宙音の世話にはそれはそれは手を焼いた。
いつまで経ってもどれだけ鍛えてもその口から出てくるのは、ユユ、ユユ、ユユ。お陰でノイローゼになる所だった』」
ゆっくりと捕獲対象に向かって歩みを進める宙音に背を向けながら、百華を睨み続ける結由。
「『だから強硬策を執らせていただくことにした。
それまでの記憶の削除と、
感情システムの排除という手段でな』と」
「テメェらァ!!」
怒りに任せて百華に襲いかかる結由であったが、傍でウズウズしながら出番を待っていた男──豹堂 久吾がここで動いた。
彼は、百華しか眼中に無かった結由の前に立ちはだかり、その顔面に目掛けて、車のフロントガラスを貫いたあの鋭い手を繰り出してきた。
絶望的に思われたが、それを食らうほど結由も弱くはなかった。
彼女は持ち前の反射神経とその強靭な脚力を生かして、地面との摩擦で煙が生じるほどの急ブレーキをかけた。
槍のように尖った豹堂の手の爪まで残り僅かに数センチという所で彼女は後ろに跳んだ。
豹堂は攻撃に失敗し、舌打ちをした。
「感情に任せて突っ込んでくるただの馬鹿ではなかったようだな」
褒めるようにそう言う百華。
「……許さねぇ……!」
無論、結由の怒りも収まることは無かった。
「友人であるとかいう君、下がっておいた方がいい。私たちの目的はその女だ。君に危害は与えたくない」
「おかしいですよね?」
百華が諭すように言うので、私は嘲るように返した。
「あなた今、私が彼女の友人であることを認めましたよね。事実私は彼女の友人です。
なのにここで『はいそうですか』と言って自分の安全を優先するような友人が何処にいるんですか……?
そんなのは友人じゃない、ただの知り合いです……!」
「……先ほどの情報だけでは、君を“敵”とみなすには足りないなと思っていたところだよ。名前は何かは知らぬが、とにかく君は我々の敵だ。
たった今より、君を排除対象とする。捕獲ではなく排除だ。
……豹堂、角中。優先対象変更だ。あの女の排除を優先しろ」
今まで単調だった百華の語気が少し強まった。
彼女は傍らに立つ二人に向かって命令を出した。それに応えるように二人は、
「ヒヒッ……!待ってたぜ、その言葉ァ……!」
「……対象確認。……排除開始……!」
と言い、一目散にこちらに駆けてきた。それを追うように、百華本人も攻撃に転じる。
私は身構えるが、はっきり言って3人相手など出来るはずがない。
慌てて結由も援護に入ってくれるが、それでも状況は依然、人数的不利。しかも相手はこちらよりも実力のある者ばかり。勝ち目が見出せない。
自分の死を垣間見た、まさに崖っぷち状態だったその時、
私と結由の両脇を、黒い、人間程の大きさのある何かが通り過ぎた。目にも留まらぬ速さとはこの事で、残像すら見えそうな速度でそれは通り過ぎた。
そしてそれは、豹堂と宙音の速攻を食い止め、結果的に私は百華のそれを凌ぐだけで良くなった。
攻撃が通用しなかったことを知った彼らは即座に、先刻の結由のように後ろに跳んだり、バック宙回転で戻ったりした。
「そのケンカ、2人追加してもらってもいいか?」
私たちを助けてくれたその何か──というより“誰か”は言った。
「人数で言えば公平じゃないけどよォ……実力で言えば五分五分ってとこだろ」
「……お前らは?」
声に対して、百華が問う。
「アタシらかい?そりゃあ勿論、」
するとその誰かは、結由の肩に手を置いて言った。
「金子 結由の家族さ」
と。
「家族……?データにはこの女に家族など無かったが」
「確かにデータにはないだろうね、一切登録してなかった。けど家族のつながりってのは何もデータに残さなかったら認められない訳じゃないだろ」
「……屁理屈を」
「屁理屈な女はどっちなんだろうねェ」
「……」
百華に物怖じすることなく正面からぶつかりに行く女──神多 撫子。
そしてその隣には夫──潤もいた。
撫子は間を見て私の方に寄って言った。
「アンタらを見送ったあと、どうも危なっかしさがあったのを放っておけなくてね。付いてきたらコレだよ。女の勘ってやつが当たったね」
「……撫子さん」
私の口から思わず声が漏れた。
「あの娘があんたの言ってた宙音って娘なのね?結由」
彼女は結由にも問うたが、彼女は反応を示さない。
なので代わりに私がそうですと答えた。
「とにかく結由は連れて行かせない……そして可能なら、あの娘も連れて帰る……!だよね?潤」
「当たり前だ……!」
静かに燃ゆる男、潤。
しかしその視線は、あるモノしか見ていなかった。
「……人生ってのは何が起こるかわからねぇなぁ……。苦しみってのは乗り越えるべきもんだよ、ホント」
向こうで誰かが言っている。豹堂だ。
彼は今まで以上の笑みを見せている。
目の前まで迫っている戦いが楽しみでならないという風な笑みを。
「ずいぶん間が空いちまったが……第2ラウンドといこうじゃねぇか……!」
「ああ。再戦なら大歓迎だ、豹堂……!」
その笑みを浮かべているのは潤もまた同じだった。彼もまた、子どもが作るような無邪気な笑顔を見せていた。
それはちょうど昨日、結由と拳を交えた時と同じだった。
「あの豹堂って男、私も知ってるよ」
撫子が彼らを見て言った。
「“人造人間”ってだけあって力も耐久力も破格だった。
だが戦闘技術でアイツは潤に敗れた。それ以来アイツは潤にケンカを挑むことは一度もなかったけど、
潤がああして笑っているんだ、余程記憶に残っているんだろう」
「……行くぜ……“喧嘩両成敗人”!」
「ふっ……かかって来やがれ!」
2人の宣言は、戦闘開始の号鐘となった。
まず豹堂が駆け出し、槍の手を用いて、潤の顔辺りを狙った。
その陰で彼はもう片方の手も鋭くさせていた。そして、先に突き出した方の手が潤に当たる寸前、彼はその手も武器として使った。
恐らく彼は、先に繰り出した手を躱そうと潤が首を横に傾けるのを狙っていたのだろう。その避けた先にあるもう一つの手で潤は致命傷を負う──この状況を期待していたのだろう。
が、潤は第一撃を避けようとしなかった。
その攻撃が、避けられることを前提として、最初から当たらないような位置を突いていたことを知っていたから。
結果的に、裂かれた空気が鎌鼬のようになり、潤の頬に切り傷を作ったが、所詮小さな傷。致命傷ではない。
一方、それを見た豹堂は、もう片方の手を真っ直ぐ突き出すことはせず、むしろ引っ込め、同時に足を蹴り出した。
もしそのまま手を出したとしても、それもまた無駄な攻撃となってしまう。
──だけなら良いが、潤の場合はそこから反撃に転じるだろう。そうなった場合、両手を使えないのは態勢的に圧倒的な不利を被る。
それだけは避けようと、彼は手を引っ込めた。
しかし、欲張って繰り出した足、これが仇となった。
潤がそれを足で受け止め、そのまま後方へと流したのだ。
足を受け流されてしまった豹堂の身体は一時的にバランスを失う。その無防備な状態の彼の身に、潤の強烈な拳が突き刺さった。
そして豹堂の身体は後ろに吹っ飛んだ。が、彼は空中で回転しながら体勢を整え地面に降り立つという華麗な身のこなしを見せた。
「……お前、傭兵やってたんだってな。それでこれが本気だって言うんなら、世界の奴らのレベルも大したことはなさそうだ」
見下ろすように豹堂に目を向ける潤。
「へっ……まだまだ準備運動ってやつだ。こっからだよ、本番は」
対する豹堂もあの笑みを未だに保っている。攻撃を受けた腹部を押さえる素振りも見せるが、その笑いは決して強がっているようには見えない。
楽しい。ただそれだけのものだ。
ただ覚えておかねばならないのは、今この2人の間で起こったことは、子どもや猫のじゃれ合いではない。
互いに相手がどういう人間か、どんな戦法を得意とし、どれ位の戦闘能力を持つのか、自らの行うことがどのような展開に繋がるのか。
それらに留まらぬ多くの情報を瞬時に処理する能力が無ければ届き得ない段階の、高レベルな駆け引きだったという事だ。
そのレベルの高さに見惚れていると、
「杏紅ちゃんっ!」
と、撫子の必死さの伝わる叫びが、私の耳に飛び込んできた。
そうだ、私は傍観していられる立場じゃない。私も、戦闘に巻き込まれている1人なのだ。
それを実感し、私の身は引き締まった。
「私は結由の援護に回るよ!油断するな!」
「はいっ!」
先に百華と戦闘を開始していた結由のもとに私たちは駆けつける。
しかし、回避しなければならない相手は百華以外にもう一人いる。
感情を失ったまさに抹殺兵器である女、宙音だ。
感情が無いというのは、戦闘においては至極優位である。
戦況的優位による油断も無ければ、攻撃を与える際の躊躇いも、凄惨な攻撃を浴びた際の恐怖も一切無いのだから。
ただ目的の執行のみを追う事が出来る。
そして彼女の今の目標は、杏紅だ。
だから私は援護する側のポジションではない。されないといけない側だった、ということに今、気づいた。
斜めの方向から駆けてきた宙音は、さながら先程の豹堂のように拳を繰り出す。
私は、これは誘い技であると判断した──のだが、だからどうしようということが判断出来なかった。
彼女の拳の速度が、それをする猶予を与えなかった。
致し方なく、私はその拳を受け止める体勢をとった。
やはりそれは、私の隙を作り出すための誘い技であり、彼女はその拳を私に炸裂させることはしなかった。
そして彼女は、私の視界から消えた。
しかしそんなすぐに何処かに移動することは不可能である。ので、私は彼女を懸命に探した。
その私の、ガラ空きになった右脇腹に、ナイフのような何かが刺さった。
恐る恐るその場所を見ると、
脇腹に刺さった宙音の手が、そこから吹き出る私の血で真っ赤になっていた。
それを認識したと同時に激痛が生じ、私の身体全てにそれは走った。
流れに逆らわず、自ら後ろに引き下がってその手を抜く。
ドクドクと血が流れるので、私は手でそれを押さえた。
が、そんな猶予など与えまいと宙音が追撃を行おうとしてくる。
真面に戦闘に持ち込んでも勝ち目はないと本能で察した私は、跳ぶようにして横に走った。
早くも次の攻撃として拳を出してきた宙音であったが、それは空振りになった。体勢の崩れた彼女であったが、まるで何事も無かったようにすぐに立て直し、任務を続行する。
車道を外れ、私は歩道に乗った。十メートル強ほど先にいた彼女を捕捉し、その進路を妨げる為に、脇にあった公共のゴミ箱を蹴り倒した。
そのゴミ箱と、倒れた拍子に中から飛び出たペットボトルが彼女の足を邪魔する──と思われたが、宙音はそれすらも無駄という風に、走る脚で次々と蹴り払っていく。暴走した馬車のごとく。
やはり彼女から逃げ切るなど無理策で、戦わざるを得ないのか……!
そう考え、私が身構えた時だった。
「杏紅!そこ避けなっ!」
やや前に聞いたあの声が、再び私に指示する。
慌てて私は、また横に逸れた。
その私を追わんとして、宙音が身体の方向を僅かに変えた時。
その背中のちょうど真ん中に、撫子の強力な拳の一撃が突き刺さった。
彼女の身体は吹き飛んだ。その中で彼女は、悲鳴も堪える声も出さなかった。
「大丈夫かい!?その傷……!」
「な、何とか……。これでも傷の治りは速いので……」
撫子に余計な心配をかけさせないために、私はそんな言葉をかけた。
「ならいいが……!次来るよ……!」
撫子がそう言う。振り返ると、まだ2秒も経っていないのに復帰してこちらに向かってくる宙音がいた。
──私もこの闘いに参加しているんだ──。
身構える私は考える。
──このままだと……私は“迷惑”をかけるだけだ。
私は不器用……攻撃に対する反応はどうしても遅れてしまう……ましてや次に相手がどう仕掛けるなんて予想は出来ないし、したところで裏目に出て尚更窮地に陥るだけだ。
だから一度攻撃を受けてしまう、どうしても。それしか道はない。
しかしそれでは、傷を負う度に次の一手が遅れて、その僅かであるが致命的な遅延の穴を埋める作業をしなければならないという手間を、撫子さんたちにかけさせてしまう……。
それではいけない……!
私は、“迷惑”をかけすぎてきた……!
もう……そんな訳にはいかない……!
私の中で、何かが燻る。
身体が、熱くなっていく……!
力が湧いてくる。
感覚が研ぎ澄まされ、周囲を流れる時間が遅くなっていく。
防御で受け止めるので精一杯だった宙音の動きも、今はまるで両足だけで歩けるようになったばかりの赤ん坊と同じくらいにしか見えない。
宙音の振りかぶった拳も簡単に目で捉え、私はそれを両手で掴んだ。
「うぉぉぉりゃああっ!!」
柄にもない叫び声とともに、私は彼女の身を、後ろにあったビルに向かって投げた。
彼女の身体はコンクリート造りのビルの壁に凄まじい轟音とともに激突した。
この感覚……憶えている。
“あの夜”体感した、私に宿る特別な力……!
「貴様ァァーッ!!」
声が──獅牙 百華の怒声が聞こえ、その方を向くと、彼女が今までに見せなかった怒りに満ちた目でこちらに激走して来ていた。
しかしそれでも、私には何てことのない遅さだ。
「貴様何故……!」
百華が叫びつつ放った右拳をやすやすと受け止め、次いで放った左拳も受け止めた時、彼女は私の目の前で、耳がキンキンしてしまうような大声で怒鳴った。
「『勇戦状態』を発動出来ているのだァ!!」
鼻息を荒らげ問い質す百華だが、対して私は冷静であった。
「貴様のような“人造人間”の識別情報は無い……!
だが急激なその戦闘能力の向上……“戦闘式人造人間”の特殊能力、『勇戦状態』以外に有り得ない……!
貴様はいったい、何者だ……!?」
得体の知れない“人造人間”が存在するという事実に動揺を隠せない百華。
それを小馬鹿にするように、私は言った。
「情報だけが、全てじゃないかもよ?」
と。
ますます怒りをふつふつとさせる百華。
思ったよりもその本性は感情的であった。
「巫山戯るなァァーッ!!」
彼女は性懲りも無くその拳をぶつけようとしてくる。
それを私は子どものそれを相手するように止め、怒りで前しか見ていなかった百華の身体を蹴り飛ばした。
“あの夜”の私は、冷静さを欠いていた。ちょうどこの百華のように。
しかし今は、それを持っている。研ぎ澄まされた感覚と、戦況を正しく把握し処理し行動する理性。
これら2つを併せ持つ私に、もはや死角などない。と、私は自覚していた。
「よし!いいじゃないか、杏紅!あんたは結由の援護に向かってくれないか!」
背後から撫子が来た。
「ビルの上で宙音とかいうのと闘っているんだ!どうにかして助けようとしているんだが、そのおかげで致命傷を喰らいかねない!
攻撃はするな、杏紅を守るだけにしろ!ダメージを与えちまったら逆効果だからな。
百華の相手はアタシに任せて、さっさと行ってきな!」
この撫子という女は、普段は実に大雑把な女である。昨夜だけでそれが十分わかった。
しかし戦闘の最中となると、恐るべき状況判断力を発揮する。
さすがは元“愛流虎”リーダー。人並みの力ではなることが出来ないのが判る。
「判りました!」
その撫子の言葉を信頼しない手はないと、私は彼女に背を向けて、ビルの中に駆け込んで行った──。
──数々の衝撃の所為で、ビルの至る所に被害は及んでいた。道中の階段も、御世辞にも登りやすいとは言えぬ有様だったし、各階どこを見てもガレキだらけ。
その中を掻い潜り、私はようやく辿り着いた。
金子 結由とその相手、角中 宙音のいる屋上に。
──結由だって実力者だ。いくら抹殺兵器を相手にしていると言えど、余程ではない限り圧倒されているなどということはないだろう──。
私はそう踏んでいた。
しかし現実は真反対であった。
私が屋上に到着した時の光景は、
「ぐふっ……!」
と激しい痛みを堪えながらも吐血する、傷だらけの結由と、
微塵も感情が無い瞳でその彼女を見つめる宙音の姿があるだけだった。
「結由!」
私は反射的に駆け出し、彼女の身を庇おうとした。が、
「来るな!」
と言葉で弾き返された。
「どうして……!?」
と私が問うとこう答えた。
「お前であろうと、宙音を殴るのは許さねぇ……それに、アイツの欲しいのはおれの身体だ、お前が代わりになる必要はない」
口の端から流れる血を拭い、彼女は笑った。
だがそこへ容赦なく、
宙音の蹴りが刺さった。
「ぐおっ……!」
「結由っ!くっ……!」
私は追撃を重ねようとする宙音の身体を、手刀で払おうとした。
だが、
「やめろォっ!」
と、またも結由がそれを制した。
私はその手が残り数センチで宙音に当たるという所で引き止めたが、危険を察知した宙音は既に身を後ろに退けていた。
「殴るのは……ゲホッ……!許さねぇ、つったろ……!?
お前は手ェ出すな……!」
その時彼女は、とても威圧的な目でこちらを睨んだ。
戒め咎めるような目と、怒りと憎しみに包まれたような目。両方の感情を併せ持ったそれは、戦闘においての絶対的な自信に満ちていた私すらも、怯えさせ、一歩身を引かせた。
「おれが……こいつを……変えてやる……戻してやるんだ……元の、宙音に……」
そんなことは不可能であった。けれどもその事を伝えるのすら憚らなければならぬほど、今の彼女には気迫が溢れていた。
だがそんな彼女の優しさは、宙音の心には全く響かなかった。
まるでそれに仇で応えるように、彼女はその後も次々と殴打を浴びせていく。
しかも宙音たちが結由に求めているのは“死”ではない。自分たちが結由の身を持って行きやすくなる状態、つまり“気絶”、あるいは“瀕死”の状態だ。
生と死の狭間に相手の身を置くと言うのは非常に難しいものだ。あまりに弱過ぎては何の意味も持たないし、強過ぎては死に至る。
宙音はその絶妙な力加減も無論、身に染み込ませていた。
その証拠を、私は目撃した。
身体も温まり、だんだん本領を発揮するようになった彼女の攻撃は、『勇戦状態』の私では捕捉は難しくないが、恐らく他者にとっては厳しいものであった。
その常人では見切るのが至難の業である拳を何度も連続で放っているわけだが、ただ無闇に殴っているのでもないようだった。
宙音はその拳を、結由の身体にそれが触れる10分の1秒ほど前に、その勢いを一瞬弱めているのだ。
およそ自分の腰あたりから放ち続けているのだが、そこから目にも留まらぬ速さで繰り出すわけだから、真面に喰らわせれば部位によっては死亡する可能性も考えられる。
それを考慮し、彼女は刹那的時間で拳の勢いを調整し、じわじわと痛みを与え続けているのだ。
弱める前の勢いは無駄なように思えるが、その速さの拳を止められることは恐らくない。ましてや傷を負い疲労困憊の結由には尚更だ。
この僅かな時間に、宙音はこれだけのことを考えながら闘っている。
彼女は、主人の命令をただ我武者羅に行うだけの操り人形じゃない。
いかにして、その命令を正しく効率よく遂行するか。それを瞬時に判断し行動する、れっきとした戦士だ。
その戦士を相手に、結由は拳をその身に受け続けている。
無抵抗で相手の攻撃を受け続けるというのは、心身ともに傷を負う行為だ。内容を言わずとも誰でも判る物理的な傷と、本心は抵抗したいにも拘らずそれを抑え相手の思うままにされ続ける屈辱の生み出す心理的な傷。
そしてその辱めを味わうのは、第三者としてそれを見守る私も、だった。無論、物理的外傷は無い。
しかし後者、精神的内傷は、私にもひしひしと伝わった。
そしてそれに耐えきれなくなった私はとうとう、結由の放つ威圧を押し切って、とある行動に出た──。
──パシッ──!
「……お前……!何を……!出てくるな、つった……ろうが……」
「……もう、見てられません……!」
結由の顔面を目掛けて出された宙音の拳を握り、それでもなお諦めることなく攻撃を続けようとする彼女を片手で抑制しながら、
私は震える声でそう答えた。
「ふざけんな……!見てられねぇなら……下に降りて……ハァ……ハァ……撫子の奴でも……助けに……行きやがれ……!」
もはや彼女は、結由は、意地だけでその場所に立っていた。何をされてもどれだけ苦しくても微動だにしない意地だけで。
そんな彼女の健闘を、心中で密かに讃えながら、そんな心を持つからこその言葉を、私は叫ぶのだ。
「あなたは!宙音ちゃんを変えたいと!そう言った!」
その心に思うありのままの言葉を。
「その為には!金子 結由ッ!あなたが変わらなければならないと、私は思う!」
「……!?」
結由が息を呑むのを、私は感覚で掴んだ。
「あなたにとって宙音ちゃんは、自身の一部のような存在だと、撫子さんから聞いた……だからあなたが彼女に反撃したくないのは痛いほどわかる。
自身の身体を無駄に傷つけたいと思うような人などいない」
感情の昂りが弱まり、少し力が緩くなったお陰で宙音に瞬時押されかけたが、直後、私はまた押し返した。
「だがこうなってしまったならば、
そして、あなたが彼女を変えたいのならば!
無情になることも、私は必要だと思う!!
あなた自身が変わって、彼女を変える必要がある!」
「……杏紅……!」
「……あなたが望むなら、私は彼女に攻撃はしない。けれど、宙音ちゃんの攻撃からあなたを防御する。
そしてあなたの、その手で!彼女を変えるのよ……!」
こんな経験は、無論、初めてだった。
他人を叱り、説得し、変える経験など。
結由の顔は、何かを心に決めたそれだった。
私は言った。
「……今から彼女の拳を手放す……あなたはそれをどうにかして受け止めて……!
いい……?」
私が見ると、結由は深く頷いた。
それが心底からの決意の所作だと判断し、
私は宣言通り、
宙音の手を、放した。
宙音の瞳が私を見ていたのなら、そんなこともしなかったと思う。しかし彼女の瞳は、結由の方を向いていた。
今まで何の色も無かったその瞳に、
助けを求めるような表情を隠し持ちながら。
「……ありがとな、杏紅」
対する結由は、私に向けて呟いた。
今まで恥ずかしそうにして言わなかった礼の言葉と共に、
どこか嬉しそうに微笑みながら。
「目ェ醒めたよ……お前がそう言ってくれなきゃ……きっと何も変わらないままだった。けど、今なら変えられる……!」
今までの、かつての友に情けをかけるあまり弱気になっていた彼女とは違った。
「だろ!?宙音ェーッ!!!」
彼女は吠え、
今まで頑なに出さなかったその強靭な拳を、
宙音にお見舞いした。
今まで発揮しようとする度に封殺され続けてきた力はその分、凄まじい威力を持っていた。
その力は、決してそれに劣らぬ力を間違いなく出していた宙音の身体を、その力ごと跳ね返した。
そのまま彼女の身体は、後方遠く、ビルの屋上の端まで飛んだ。
隙を与えぬように、結由はそれを追う。
私は約束通り、それを傍から見守ることにした。
立ち直る宙音。容赦なく殴り掛かる結由。
二人の攻防は始まった。
しかしながら、疲労と痛みが蓄積している結由は、必然的に不利要素を背負ってしまう。そしてそれは、早くも体力の激減という形で現れた。
対して宙音はまだ平然とした顔で闘い続けている。傷を負っていないこと、そして日頃の『SHAT』としての生活、この二つの差が今、体力の限界値という形で顕になっているのだ。
わずかな時間のみ優勢だった結由も、最初に飛ばし過ぎたお陰で、逆に劣勢に立たされた。
そしてある瞬間、結由の行動に僅かな隙ができた。それを見逃さず、宙音は、結由の呼吸を妨げようとしたのか、首を掴みにかかった。
しかし、私がそれを許さなかった。
その首を掴もうとした右手の手首を掴み返し、手荒ではあるが、遠くに放り投げた。
「ハァ……!ハァ……!す、すまねぇ……!」
「謝らないで。それより……」
次の攻撃に備える私に向けて、結由はある宣言をする。
「……次で勝負かけてやる…………!」
と。
「体力も……もう無ェ……!体力切れ起こすくらいなら……やることやって負ける方が……マシだからな……!
邪魔……するなよ」
「……するわけない」
私が言ったのと同時、宙音が立ち上がった。
彼女の体力は無限にすら思われる。
それを確認した結由は、赤いマントを見た闘牛のように、迷いなく駆けていく。
そして、同じように前から猪突猛進してきていた宙音の肩を鷲掴みすると、
そのまま力ずくで前に押していく。
「うおおおおぉっっっ!!」
その先には壁も何も無い。
それを知ってか知らずか結由は宙音の身体ごと突き進み、次の瞬間、
ビルの屋上から、落ちた。
「結由っ……!!」
私も慌ててそれを追うように落ちていった。
だがいくら動きが数段階速くなる『勇戦状態』とは言え、落下速度までは変えられず、結果追いつけぬまま、
結由と宙音の身体が、アスファルト造りの道路に叩きつけられるのを見送るしかなかった。
しかも、“人造人間”の頑丈な身体は、単に叩きつけられるだけでは終わらず、その道路を粉砕し、その地下に通ってあった、
地下電線を露わにさせた。
比較的新しい人工島に通された地下電線は、下手に身体があった宙音の身体に、
高圧電流を流し込んだ。
そして、結由にもそれが流れてしまい感電するのを恐れた私は慌てて、彼女の身を攫い上げた。
「宙音ェーーっ!!」
と叫ぶのを、無情にも見ぬ振りをしながら。
感電し、激しく身を波打たせる宙音。途中、その身と電線の間に火花を散らしていた。
そして電気は止まり、宙音の身体は動かなくなった──。
宙音の眼は、今までのような冷たさすらなく、その瞳はただ虚空を見る黒い物体でしかなくなった。
「宙音……!おれの……おれの……せいで……!」
泣き崩れる結由。声を噦り上げながら泣く彼女を見ることになるとは、正直予想もしていなかった。
しかし、突然その泣き声はやんだ。
「…………らのせいだ……!」
そして、怒りに満ちたそんな声をあげて唸った。
「……アイツらが…………宙音を連れて来さえ……しなけりゃ……!!」
顔を上げて見せた目は、先程私に向けたそれから戒めと咎めを取り除いたモノに見えた。
「……許……さねぇ……!!」
と、唸り声を上げる彼女であったが、
その彼女を絶句させてしまう出来事が、次の瞬間起こるのだった。
「──ユユ……姉ちゃん……?」
「……!?」
突然飛び込んできた聞き覚えのある声に固まる結由。
振り返り見上げると、そこに立っていたのは、
昔見た純粋無垢な瞳で彼女を見つめる、
角中 宙音だった──。




