第15章 存命
──宵闇の中、その書面は、白鷺家の玄関の灯りに照らされ、確かにそこには『回収命令』と大きく記され、その下にそれに至った理由や、回収に際しての注意事項、管理局の対応などが整然と書いてあった。
「美依莉を……回収……?ちょっと待ってくださいよ」
義母の感情が、いよいよ爆発寸前である。
「経過観察とか、一時拘留とか……そういう方法は無いの!?回収ってことは、私たちはもう、あの娘に会えないってことでしょう!?そんなのお断りよ!!」
同感だ、と続いたのは父だ。
「あまりにも話が急過ぎる。それに本人のいない場所でそんなことを伝えられてもどうしようもない。少し時間を……」
父は冷静であった。
「時間はございます。回収期間は2週間です」
しかしその父に全く劣らない静けさを見せるのが、この瓦田 正という男である。
「……しかしお言葉ですが、彼女、及びあなた方の意思は関係ございません。こればかりは、政府、そして管理局の出した最終決定です。入る余地は──」
「なら何故決定出来たのよ!?決定の前に私たちの意思を確認する段階は無かったの!?美依莉はあなたたちのものじゃない!私たち家族のものよ!!」
血管がはち切れそうな程の怒りを露にする義母の背中を、ボクは思わずさすってしまった。
「……ならば、こちらも一つ」
一切たじろがず、抵抗の姿勢を見せる正。
「……死んでも良いのですか」
絶句。
だが確かにそうだ。
検査の結果が正しければ、ボクたちはやがて、有害ガスに身体を蝕まれて死ぬことになる。
「しかも死んでしまうのはあなた方家族だけではない。娘さんの周囲にいる人間も然りです。今は部活だと仰いましたね。となると、部活のメンバーは勿論、その学校にいる人間や近隣住民の大半にも影響が及ぶでしょう。
そうなればあなた方は娘さんを殺人鬼に仕立てたまま、彼女を独りにして死んでいくことになる。それがあなた方の意思なのですか」
立て板に水の勢いで、全く淀みなく意見を述べる正。
「しかしながらそういうわけにもいかないあなた方は、恐らく娘さんを何らかの方法で隔離しようとするでしょう。
ですが考えてみてください。それでもあなたたちには死の危険が迫っている。それから逃れる為には、彼女のいる部屋に入らないことしかできない。
それでは彼女に会えないまま。本末転倒ではないですか。
それにいずれ、全“人造人間”が回収される日がやって来ます。その日が来れば、あなたたちは会えなくなる。
……娘さんが“製造不良”だったという事実は、誠に遺憾です。ですがこうなった以上、管理局の指示に従うことが、最善かと思われますが……いかがですか?」
「……また後で、返事させてもらいます」
正の論述に何も返すことが出来ず、父は俯いたままそう応えた──。
──美依莉の帰宅は、それから1時間と少し過ぎた後。
冷めてもなお美味しいあんチョコ饅頭をペロリと平らげ綻んだ美依莉の顔は、
例の出来事を告げられた途端、一気に引き締まり、そして沈んだ。
怒るわけでもなく、泣くわけでもなく、ただ首を下に向けたまま。
無意味な反論も、その事実を紛らわすような話も、一切しないまま、彼女は引っ張られるように、自分の部屋に入って行った。
それ以降、白鷺家に言葉は無かった。
一度だけ、部屋に篭ったきりの美依莉に、
「夕食はいらないのか」
と美依莉の部屋の前で父が訊いたが、反応は無かった。
いつもなら父が怒りそうだが、今日ばっかりは、怒る気にもなれなかったのだろう。
その夜は白鷺家史上、最も長い夜だった──。
──あれから1週間と1日が経った。
父も義母も、或いは回収されてしまう当の本人も、あの夜の後、その話をすることはなかった。よって、管理局への返答も未だなされていない。そろそろ催促されてもおかしくない頃だ。
そして、今日。
研究室篭りを1日で終われるなんて初めてな気がする。……いや、そんなことも無いか。
今日もあんチョコ饅頭を買って帰ろうかと考えたが、財布を開くとまあ寂しい。
今日は謝るしか無いな、と思いながら外に出ると、冷たい何かを感じた。
「……霧雨?」
ほぼミストに近い雨が、ボクの身体を包むように降っていた。
霧雨。この雨に妙な胸騒ぎがするなんて、生まれて初めてだ。あまり文学は読まないが、それでも霧雨が不吉なことの前兆を表していることくらいはさすがに知っている。けどそんなもの、体感したことなど一度としてなかった。
何か嫌な予感がしてならない。ボクは急いで、帰りの電車に飛び乗った──。
──こういう時に限ってアクシデントはあるもので、今日は電車の信号トラブルが起き、その遅延のせいで、家に着いたのは、日も沈んだ午後7時半。
門灯に照らされるクリーム色の壁を見た時、心臓の鼓動が、急激に速くなった。
やはり何かが起こる気がする。
否、
もう、起きている……?
ドアノブに手をかけることすら憚ってしまう。
やっとの思いでそれを握っても、それ以上力を入れることが不可能。
腕に力が入らない以上、これを開けることが出来ないと思ったボクは、身体全体で開けることを選んだ。
綱引きみたいに腰を低くしてドアを引く。
もちろん、ドアは簡単に開く。でなければただの重たいドアだ。
いつも以上に警戒して、家に入る。
「……っ!」
思わず息を呑んだ。
何だ、この禍々(まがまが)しい雰囲気は……?
部屋の電気は点いている。明るい。
テレビも点いている。バラエティ番組の賑やかな音がしている。
なのに、それらを全て打ち消す暗い空気感。
息もしたくなくなるくらい。
ボクはそのまま、3秒ほど硬直した。
その後、水中から出た時のように大きく息を吸ってから、その割に小さな声で、
「ただいま……」
と帰りの挨拶をした。
いつもなら、父か母の声が最初に聞こえる。
しかし今は、2人とも声がしない。
代わりに、数秒の間の後に聞こえて来たのは、
「……おかえり。兄さん」
という、落ち着きがある静かな、
美依莉の声だった。
聞いた直後は、何も変わらないように聞こえて、胸を撫で下ろしかけた。
けれども、それはやはり日常と違うことに気づき、再び緊張の糸がピンと張った。
部活で疲れた彼女の『おかえりー……』という声には、気怠さばかりが漂っていた。
だが今の彼女の声には、一切それが無い。
代わりにあったのは、狂気。
声だけで察することができるくらいの、鳥肌の立つような狂気だった。
「……何……してるんだ……?」
恐る恐る、ボクは美依莉の声に向かって尋ねた。
彼女からの返答はない。それがボクの恐怖を助長する。
靴を脱ぎ、声がしたと思われるダイニングに向かって歩き出す。
其処に向かう廊下の途中、新たな何かがボクを進ませようとしなかった。
鉄の、臭い……!?
あの特徴的な、鼻につく臭いが、ボクの嗅覚を支配した。
この臭いが、本当の鉄の臭いでないことくらいは、すぐにわかった。
これは間違いなく、
血の臭い。
だが何故血の臭い……!?そう考えると、あれだけ重くて力の入らなかった身体が、いとも簡単に動いた。
そして、ボクはダイニングを覗いた。
戦慄。ただそれのみだった。
その刹那にボクが感じたことは。
この臭いを発していた、血。
それは、父と、義母のものだった。
何故血を流しているのか、理由は簡単だ。
美依莉が、彼らを殺害したからである。
右手には包丁があった。ボクも握ったことのある、義母が愛用していた刃毀れしにくい特製包丁だ。
恐らく胸を一刺しで殺されたと思われる二人はうつ伏せで寝転がっており、その2人の死体をただ、美依莉は見つめていた。
殺してしまった、という後悔の念は、その瞳に宿っていない。
ただあるのは、虚無感。
顔に浴びた大量の返り血を全く気にすることなく、彼女は死体を、そして、虚空を見ていた。
「……どう……したんだ……!?」
ボクは怯えながら訊いた。
すると彼女は、ボクの方を見ることもないまま、話し始めた。
「……私がいたら、みんな死んでしまうんでしょう?しかも、私の中のガスがみんなの身体を蝕んで、苦しみながら死ぬんだって、兄さん言ってたよね……。
私、それ聞いて思ったんだ……。
どうせみんな死ぬんだったら、せめて苦しませたくないって。
あと2週間のあいだに私が立ち去れば、みんなは死なない、そうも言ってたよね。けどそれでも、きっとみんなは苦しむ。私がいないから。
きっと母さんは、生き地獄ってやつを味わっちゃうことになる……。そんなの、私想像しただけで吐き気がしてきたの。
……だから私、調べたんだ。
苦しまない死に方を。
そうしたら、これが出てきたの。
睡眠薬で寝かしつけた後に、ナイフで心臓を抉って、血管を断ち切るんだってさ……。聞いただけで痛いけど、これがベストなんだって。
だからそれで、義父さんと母さんを殺したの……。
何か……おかしい?」
おかしなことにすら気づかないほど、おかしい美依莉。
これはもう、歯止めが効かない。
ボクはそれを、本能的に感じ取った。
「……さあ、次は兄さんよ。大丈夫、この薬を飲めば、兄さんは……」
「待て!美依莉!少し落ち着くべきだ……!」
饅頭の入った手提げ袋を落とし、ゆっくり近づいてくる美依莉に、ボクは足を竦ませる。
「何言ってるの……?今やめちゃうと、兄さんは苦しむだけよ……?」
中学になってから突然定着したお淑やかな口調と、それまでやめられなかった幼い口調が混ざり合って、さらにそこにヒステリーが加わり、そこに居るのはもはや妹ではなく、鬼だった。
これを見て、ボクの恐怖はピークに達した。
しかし頂点に達したということは、言い換えれば、それより上は無いということ。
その際に、ボクの心には、何故だかスペースがあった。心全体を十割とするならば、恐怖が支配していたのは八割五分ほど。
その残り、一割五分程の中に、何からともなく生まれたのは、
憤り、だった。
妹をこんな風にしてしまった原因となったモノ、全てに対する憤りだ。
「やめろ!!美依莉!!!」
声を荒らげて、ボクは叫んだ。
こんなことをするのは珍しい。
まして美依莉に対しては、生まれてこの方したことがない。
だからかどうかは知らないが、
狂乱状態だった美依莉の進撃がピタリと止み、
その足ばかり見ていたボクが、彼女の顔を見上げると、
血の通っていなかったような顔が、
自分が犯した過ちへの困惑の表情へと変わっていた。
「あっ……!ああ……!私……何を……!?」
この反応……間違いない。
以前、研究対象にしたことがある、とある現象。
“人造人間”の電脳が、目標の過多設定を行うことにより生じる、思考錯綜状態現象。
通称、“混乱惑問”。
それに陥った“人造人間”は電脳の制御が不能になり、そうなった場合、彼らは“戦闘式”同様の戦闘力と残酷さを発揮する。
なお、理性は欠片も存在しない。
そして、それが解消された時、停止していた電脳は活動を再開。
再起動した記憶システムは状況理解に全エネルギーを消費し、そのせいで──
「義父さん……!母さん……!!?」
──この様な反応になる。
「……ねぇ……兄さん……。これ………、部、私が……?」
大粒の涙を目に溜めながら、ボクに質問をする美依莉。
正直に、ボクは頷いた。
彼女は息を呑み、自分が殺した両親の身体を見つめたかと思うと、喉をヒクヒクと鳴らし、泣き始めた。
「……何で……!何で私……こんな……!?こんなの……あんまりよ……!!」
まるで別の誰かが殺ったような言い方だ。だが無理もない。
彼女にとっては、その時間だけごそっと抜けたような感覚だろうから。
彼女が最後に見たのは、新聞でも読んでいただろう父と、台所に散らばる割れた皿の破片からして、食器を洗っていた母。
そして目が醒めた時に視界に広がっていたのは、その父と母が、胸から血を流して倒れているという惨状。
乱心した瞬間も、包丁を握った瞬間も、その包丁で人間の胸を刺した瞬間も、感触も、血が流れ出た瞬間も──。
彼女の中には、存在しない。
「………………死に……たい……」
「……え?」
今、聞くも恐ろしい言葉が、聞こえたような……。
「兄さん……!…………私……死にたいよ……!!」
心の底からの訴え。涙の、訴え。
こっちまで涙が出そうだ。
しかもそのまま彼女は、その手に握る包丁を、左胸の前に持って行く。
「なのに……勇気が……出ないよ……!……自分を殺すだけなのに………………こんなに、難しいなんて……!!」
その涙は、
両親殺害に対する後悔──?
死への恐怖──?
それとも、自分すらも殺せないことの歯がゆさ──?
ボクはそんなことを考えながら、美依莉の顔を、呆けたように口を開けたまま見つめていた。
その包丁を払い除けることもせず、制止することもなく、ただ見るだけ。
震える左手に、美依莉の右手が添えられる。
だがすぐにその右手にも震動が伝わった。
止めようなど無い。いろんな感情が、ブレーキをかけさせようとしないから。
「ねぇ……兄さん、其処で見てないで……」
返り血で滲んだ赤い涙でグチャグチャの顔でボクに向かい放った美依莉の言葉は、
ボクに人生最大の困難を持ちかけるのだ。
「私を………………殺してよ…………!」
殺す。妹を、殺す。
そんなこと、出来るはずない……。
でも、これは彼女に対する救済措置だ。
彼女を、過ちの後悔とその苦痛から解放するための行為だ。
しかし、そもそも他人を殺すことがボクには出来ない。
他人が痛みにもがく姿など見ているだけで、気がおかしくなってしまいそうだ。
「兄さん……!お願い……!早く……早く殺して!」
彼女の言葉に、だんだん怒気が。
しかも、その手に握っていたはずのナイフを、知らぬ間に、ボクの手に渡していた。
「良いのよ!私が望んでいるのっ!何も気に病むことなんてないわっ、一思いに、私を殺して!!」
「だ、だが……!」
戸惑うボクの腕を、
彼女は握っていた──。
「…………っ!……兄さんは、最期まで……っ!!!」
そして──。
──その感触は、今でも手に残っている。
二度と体感したくない、不快な感覚が。
なのに、その時の記憶は、何一つ残っていないのだ。
まるで、ボクも“混乱惑問”に入っていたかのような。
手に血を浴びた刹那も、
美依莉の死の瞬間も、
その遺言も、
何も覚えていない──。
──この直後に警察が来た。
突入して来るなり、まずボクの安全を確認して来たので、恐らく美依莉の視界に映った光景を管理局が把握して、その異常事態に出動したのだろう。
しかし、唯一この家の中で立っていたボクの足下に転がっていた、血の付いた包丁を見て、警察官、そして刑事の殆どがボクに疑いの目を向けた。当然のことだ。
その中で唯一、ボクの無罪を信じてくれた人がいた──。
「ウチの後輩が、迷惑をかけたようだな」
その翌日の取調の始め、彼は取調室に入るなりそう言ったのだ。
「川上 頼斗だ。以後、君の担当刑事となる。よろしくな」
あんな事件の当事者を前によく笑えるな、と言うのがボクの初対面印象だ。
しかしそれとは裏腹に、彼はボクの言い分をとても親身に聞いてくれて、
誰もが犯人だと思っていたはずのボクを、全面的に支持してくれた。
その甲斐もあってか、あるいは不幸中の幸いというやつか、ボクに無罪の判決が下った。
美依莉の中に残っていた映像と音声データにより、白鷺 京助という男に殺意は無かった、という結論に至ったらしい。
何はともあれ良かった、と川上さんは泣きながらボクを抱きしめて泣いた。
けど、ボクの心はまだ、何かを欲していた。
──数日後、家族3人の葬儀が済んだボクの元に、遺骨の一部が返還された。
その中に、ある物があった。
「美依莉の…………チップ……?」
火葬の際に除いてあった、彼女の電脳内の超微細チップ。血も付いていないと言うことは、洗浄されたということだろう。
家族を3人も失い、もぬけの殻だったボクの思考には、この数日間ほとんど活動していなかったこともあり、
恐ろしく、けれども嬉しい、あることを思いついたのだ。
──美依莉を、蘇らせる──。
研究室に籠り切って、半ば嫌々でしていた研究が、こんな場面で活きるなんて、夢にも見ていなかった。
大学院で得た知識を基に、チップに残っているデータを復元して、生きていた当時と同じ状態まで造り直していく。
そして大学の研究を放ったらかして、独りで黙々と復元作業を続けること1年半──。
〔…………?此処……って〕
しっちゃかめっちゃかな配線のつなぎ方のスピーカーから、聞き慣れた声が。
「……美依莉……?」
音声認識機能も搭載したそのスピーカーに、優しく声をかける。
〔……兄さん……!?兄さんよね……!?〕
喜びと驚きを帯びた声がスピーカーから流れる。
それにつられてボクも、
「そう……!そうさ……!」
と、嬉しさを堪えきれずに答える。
〔兄さん……!逢えた……!また逢えた!〕
「ああ……!ボクも幸せだ!美依莉!」
そんな、外国のコメディドラマのようなやりとりは、かれこれ一時間続いた。
──こうして、“エミリー”こと白鷺 美依莉は、
一度の死後、『身体の無い“人造人間』として、この世に再び生を得たのである──。




