7.光る流れ[3]
香苗の中に潜むその女は、一瞬ひるんだ。
消し去ったはずの自分の過去が目の前にありありとよみがえる。
いつも、一人だった。友達なんて一人も出来なかった。
中学に行ったら、高校に入ったら、大学生になったら。
そのたびに心の中に浮かんだ密かな期待は裏切られ続けた。
やっと声をかけてくれた人がいた、とわらにもすがる思いで精一杯の勇気を出して近づいたら、彼女がいた。
全然知らない女だった。
気がつけば、周り中知らない人だらけだ。
自分に声をかけてくれたあの人だって、名前も知らない。
私が誰の名前も知らないように、誰も私の名前を知らない。存在さえも。
「今さら言っても無駄かも知れないけど、本当はそんなことなかったんだよ」
伊知恵の声が女の魂に直接響く。
「貴女が自分で気がつかなかっただけ。貴女の場所はちゃんとあったの。それを貴女が気に入らなかっただけ」
女の意識が怒りで膨れあがるのが解った。
凍てつく双眸が伊知恵を渾身の悪意をこめてにらみつける。
だが伊知恵は目を逸らさずに深くうなづいた。
「私も、そうだったもの。だからわかる。きっと、他にもたくさんいたんだよ、貴女みたいな人が。今もたくさん、いる」
知った風なことを言うな。おまえなんかに、私の孤独がわかってたまるもんか。
「貴女も一緒においでよ」
香苗と香苗の中の女の手を引いて、伊知恵は素早くカーテンを開いて窓を開け放った。
ぱあっと明るい光と共に、冷たい風が部屋の中に流れ込んでくる。
行くもんか。行かせるもんか。
香苗の手が、無理矢理伊知恵から引き離された。
香苗はかすかに頭をもたげ、伊知恵を見つめた。
「おいでよ!かなちゃん」
光の方に向かって宙に浮かんだ伊知恵が香苗を呼ぶ。
(だまされるんじゃない。あっちへ行ったら、死ぬよ。消えてなくなるよ)
香苗は伊知恵とその向こうをじっと見つめる。
どちらを選べばいいか、香苗にはちゃんとわかっていた。
だけど、闇が香苗の足をつかんで放さない。身体が重い。動かない。
「助けて!いっちゃん!」
香苗はのどの奥から声を振り絞って叫んだ。
さらさらさら。
こぽこぽ。
部屋一杯に水が湧きだした。
冷たい流れが香苗の足を掬い、押し流す。
水は低い方へ流れるはずなのに、どういうわけだか光る方へ、高い方へ向かって、水かさをどんどん増して渦巻きながら香苗を飲み込んで運んでいく。
(おまはんも、おいでよし)
香苗を取り戻そうと懸命に腕を伸ばす女に、年老いた女の穏やかだが力のある低い声が語りかけた。
次の瞬間、きらめく流れは濁流になり、そこにある全てを飲み込んだ。
「おばあ!しっかりしてよ、おばあ!」
凍てつくような真冬の河原で、ぐったり横たわるヨシノのずぶぬれの上半身を抱きかかえる伊知恵は、自分もびしょぬれで泣き叫んでいた。
「おばあ!ああ、誰か、誰かいませんかぁ!」
声を限りに叫ぶ伊知恵の目に、橋の上を走ってくる一台のバイクが映った。
ヨシノがぱっちりと目を開けると、見慣れた身内の顔が判で押したように心配そうな表情でずらりと自分を取り囲んでいた。
「・・・あああ、えがったああ!」
派手なグリーンのセーターの、小山のようにふくよかな伊知恵の叔母が真っ先に叫んでどっかりと椅子に腰を下ろした。
「もう、あんまり無理しちゃダメですよ。この真冬に川に浸かるなんて、いくらお仕事だからって・・・」
看護師をしている伊知恵の父方の従姉が胸をなで下ろすのが見えた。
近場からかけつけていた親類縁者達が代わる代わるヨシノに見舞いの言葉を述べ、三々五々立ち去ると、最後に伊知恵がぽつんと残っていた。
「伊知恵?」
ヨシノが声をかけると、伊知恵は泣きはらした目でヨシノを見つめた。
「ごめん、おばあ。私が無理言うたから・・・」
まさか、ヨシノまで川に身を浸すとは思っていなかった。
自分一人で、ヨシノにはただ見守って、見届けてもらうつもりだったのに。
「・・・あの女がかわいそうになってのう。つい、何とかしてやりたなって。老婆心っていうんかのう」
ヨシノは自分の胸元に突っ伏してしくしく泣き続ける伊知恵の震える頭をそっと撫でた。
「まあ、心得とくで。私ももう、そんなに若くはない。これからは川に浸かるのは夏だけにしよう」
「おばあ、私がちゃんと一人前になるまで、絶対に元気でいてよ」
伊知恵は祈るようにヨシノを見上げて、念を押した。
ヨシノは笑いながらちょっと視線を宙に漂わせた。
「そやな。・・・うん、大丈夫やっしょ、おまんが大学を卒業して、まだしばらくは」
それがヨシノの確かな予言なのか、あてずっぽうの気休めなのか、確かめる術はなかったが、とりあえずほっとして、ようやく伊知恵は泣き笑いになった。




