5.復讐[5]
ああ。伊知恵は目を閉じた。気づくべきだった。あのキャンプの夜、これに憑かれたのは、私だけじゃなかった。
一人の男を廻る二人の女の無意識の争いに呼ばれて、これはやってきた。何故ならその争いが、これの生の最後の記憶だったから。自分が最後に感じた記憶を辿って、これは同じ波長のものを見つけるためにさまよっていた。
(どうか、このひとが、あるべきところへ帰れますように)
伊知恵は記憶に残るあちら側の流れを思い浮かべた。初矢川の水の冷たさ、流れのリズム、鼓動、そしてぼんやりと緑の映るあの清流の中州・・・。
「おまえなんかが偉そうにいくらまねごとをしたって、私を退かすことなんて出来るものか」
香苗の身体を借りたそれが愉快そうに毒づくと、伊知恵の脳裏に鮮やかに学祭の日の光景が浮かんだ。腕を組んで仲良く歩く、恭一と香苗の姿。
もう、執着はなくなったと思っていたのに。自分の愚かな弱さが頭をもたげて、伊知恵の集中力が崩れ落ちた。
その機を逃さず、勝ち誇ったように骨張った女の冷たい両腕が伊知恵の肩にかかった。その両腕の凍てつく感触はじわりじわりと、次第に伊知恵の背骨に溶け込んでいく。
その時、伊知恵の正面から突然新たな何かが覆い被さってきた。
伊知恵の身体は前後に大きく揺さぶられた。首が激しくがくがくするのがわかる。
二つの魂が、伊知恵の身体を奪い合っていた。
沙織の強い念と、香苗を虜にし、さらに伊知恵まで取り込もうとしている女の念が代わる代わる伊知恵の魂を引き裂き、たぐり寄せる。
(あの男がさらってきた子供がいるのよ!恭ちゃんは、気づいていない)
沙織の叫びに、伊知恵ははっとしてそちらへ意識の腕を伸ばした。見えない手が伊知恵の手首をつかんで恐ろしい力で引き寄せる。伊知恵は沙織を信じて、その力に身を委ねた。
沙織は車を飛び降りて、走った。
あいつがいる。私にはわかる。今度こそ、許さない。
沙織はまっすぐ病院の廃墟の地下に続く階段を駆け下りた。
地下室のドアを開ける。中年の男が少女の身体を抱えて、台の上に載せるところだった。
「やめなさい!」
伊知恵の身体を借りた沙織は、男と少女の間に割って入った。
男の銀縁のメガネの奥の瞳が、信じられないものを映し出した。
少女をかばうように両腕を広げて男の前に立ちはだかったのは、若い女だった。だが、その姿は・・・。
頭がぱっくりと割れ、くずれた脳みそが滴っている。右腕がちぎれかけ、左手は手首から先がなかった。両足の肉は分断され、関節の白い骨が飛び出して腱がぴくぴくけいれんしていた。
あの時の女だ。男はまざまざと思い出した。国道に飛び散った、無惨な姿を。
「・・・もう、逃がさないからね」
女は血まみれの顔をまっすぐ男に向けた。
男は声にならない叫びを上げて、地下室を飛び出した。
階下で人の足音が聞こえ、恭一は振り返った。
「しまった。下だ!」
恭一が走り出すのを見て、慌てて他の三人は後を追った。
待合室からドアに向かって走る人影に恭一は夢中で飛びついた。しかしその直後、ものすごい力で突き飛ばされ、恭一は背中から廊下にたたきつけられた。人影はドアを抜け、外に走り去った。
「何だよ、あれ!」
あっけにとられて智志が大声を上げる。
「追いかけろ!逃がすな!」
恭一は起き上がりながら叫んだ。正樹と弘文が恭一の迫力に気圧されて、思わず後を追った。恭一も跳ね起きるとそのまま駆けだした。
訳が分からず右往左往する智志は、背後でか細い声が叫ぶのを聞いてぎょっとした。
「誰か、来て!助けて!」
智志はおそるおそる声のする地下へ向かった。そしてそこに顔面蒼白の伊知恵と彼女に抱きかかえられた小さな少女を見つけてぎょっとした。
「警察と、救急車を呼んで!」
伊知恵は智志を見るなり、震える声でそう叫んだ。




