プロローグ2・伊知恵[1]
灰色の空は、そこら中のビルの色の延長のようだ。こんなに寒々しい風景を見たのは初めてだ。雪をかぶった冬の山々は、曇りの日でもうっすら光をまとってかがやくものだが、ここには鮮やかな色の看板はあちこちにあるのに、全然かがやいて見えない。それに、空がなんて不自然に狭苦しく切り取られているんだろう。
真新しい特大のスーツケースを手にした伊知恵を後に、夜行バスはさっさと走り去って行った。数少ない同乗者も気が付くとみなそれぞれの目的地に向かって行き、一人取り残された伊知恵は、初めての大都会を三百六十度ぐるっと見回し、目が回って気持ちが悪くなった。
バスターミナルにしては広すぎる新宿駅西口の地上広場は、早朝でも足早に歩く人の姿が絶えないが、朝なのに誰もが無表情で言葉を交わし合う姿もない。
(こんなところでこれから暮らすの?)
自分で決めたことなのに、ひどく後悔し始めていた。
地元の国立大学に落ちて、国立の発表後に二次募集のある良心的な私立大学をわらにもすがる思いで受験して、何とか合格できた。
受験の時は小田原に住む親戚の叔父に、新幹線の駅から車で大学まで送ってもらった。大学のそばのファミレスで叔父の仕事が終わるのを待って、その日は叔父の家に泊まり、翌朝和歌山の実家に着いたのは夕方だったっけ。
伊知恵の住む山奥の村では、子供や十代の若者が極端に少ない。だからというわけでもないが、女の子が浪人して大学に行くという選択肢は存在しなかった。諦めて親戚の伝手で就職するか、専門学校で手に職をつけるか、さすがに高校を卒業してすぐに見合い結婚という無謀なことは勧められなかったけれど、もし本人が望めばいくらでも嫁の口はあっただろう。
伊知恵が大学に進学して民俗学を勉強したい、という希望を強く後押ししてくれたのは、母方の祖母だった。
紀伊山地の麓に点在する集落がそれぞれに持つ小さな社を統括する由緒ある神社の、祖母はいわゆる巫女だった。神主の下で庶務を執り行う巫女ではない。神主と同等の、否、地元ではそれ以上の力を持つ存在だった。その年の天候や作物の出来不出来など、人々の生活に直接関わる事を占ったり、神事で舞いを舞い祝詞を唱えるのが代々の巫女の仕事だったが、それとは別に、もし乞われて祖母自身がそうすべきだと思えば、たとえば行方不明者の安否などを占い、正確に当てる力を祖母は持っていた。その霊力を人づてに聞いて、遠方からも相談に来る客がいるほどだった。
知る人ぞ知る著名人でありながら、祖母は生まれてこのかた一度もこの山深い里から出たことはなかった。
一人娘の大学進学にはそれほど積極的でない両親には放って置かれ、進学重点校でもない地元の高校で大した受験指導も受けられず、進学塾にも行かず、自分で問題集や参考書を手に勉強するだけで無謀にも国立一本で受験に挑もうとする伊知恵に、その祖母がどこで知ったのか、東京に民俗学を勉強できる大学があるから、と助け船を出してくれた。
私立で学費もかかる上に、生活費の仕送りも必要だった。その具体的な金額を知り、合格はしたものの進学を諦めようと覚悟を決めた伊知恵に、さらに祖母は大学四年間の費用を半分出す、と、数多い孫達の中でも破格の援助を申し出たのだ。
おばあは伊知恵には昔から甘かったもんね、と両親をはじめ周囲の親類縁者達はあきれて噂した。
確かに、伊知恵は小さい頃から祖母に誰よりも近かった。両親が共働きで遠くの町まで通勤していたので、一人っ子の伊知恵は幼い日々のほとんどを祖母の家ですごしていた。
そのせいかはわからないが、伊知恵は物心つく前からやたらと感じやすい子供だったらしい。伊知恵自身に記憶はないが、風に木の葉が一枚揺れても、突然火がついたように泣き出したり、空を流れる雲に手を振ったり、地面に映った自分の影を突然怒ったように踏みならしたりして、両親を戸惑わせたり笑わせたことが何度もあったという。
だが、そんな伊知恵を祖母は静かに眺めて、伊知恵は力がある、と言っていた。
そんな祖母と伊知恵の関係を周囲はよくわかっていたから、祖母の提案を知ってもやっかんだりはしなかった。
そして、祖母の伊知恵への援助には一つだけ条件があった。
祖母の出した条件は、祖母の跡を伊知恵が継ぐ、ということだったのである。それに関しても周囲はさもありなん、と納得顔でうなづいた。なるほど伊知恵にはぴったりの将来ではないか。