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プロローグ2・伊知恵[2]

入学時には、夜行バスで一人で東京に向かった。朝七時前に到着したのは新宿駅西口。地元の高校にさえも片道1時間半かけて自宅から通い続けた伊知恵は、周囲に山と点在する狭い田圃や畑、その向こうを流れる川、ぽつりぽつりと散らばる家々の他は、目にするものと言ったら見上げる空ぐらいしかないまま十八年を過ごしてきた。テレビや映画でなら何度か超高層ビルや大都会を見たことがあった。だが、実際にその場所に立つと、そんなものはまるで箱庭だったと思い知らされた。

 伊知恵を包むビル群は、威圧的なだけでなく、無数の「人」の気配を確かに含んでいて、それが見えないだけになおさら伊知恵を萎縮させた。

 自分の知らない人間が、いったいどれだけここにいるのだろう。無数の、というのはきっとこういうことを言うんだろうなと伊知恵は身震いした。

(ダメだ。呑まれちゃったら、動けなくなる)

 伊知恵は目をつぶって深呼吸すると、無意識に左手首に触れた。

 左手首には、祖母のくれたお守りのブレスレットがある。地元の河原に転がっている様々な色の石を麻紐でつなぎ合わせたものだ。そっと右手の指先でなぞってみる。ひんやりした感触が、かすかに見えないエネルギーを伊知恵の指先から血管を通って送り込んでくるような気がした。これを見たり触れたりすると、いつも不思議と心が安まった。きっと、山河や草木の霊力を祖母が込めてくれたのだろう。

 バスを降りてから絶えずわらわらと耳の奥で聞こえていたざわめきが、ふっと消えた。伊知恵はほっとしてもう一度大きく深呼吸をすると、肩を軽く回した。夜行バスで揺られた身体のこわばりが少しほぐれ、ようやく歩き出すことが出来た。

伊知恵がたどり着いたのは、新宿から伸びる私鉄を郊外へ少し下ったところにある都内でも有数の高級住宅街だった。伊知恵の新しい住まいはこの街にある、自宅の一部を間貸ししている一般家庭だった。

地図を頼りにスーツケースをがらがらと引っ張りながら歩く伊知恵はかなり目立つようで、何度も通りがかった人々に振り返られた。だが、伊知恵はすっかり心がこわばってしまい、誰かに道を聞くことすら出来なくなっていた。

(おばあは、私を買いかぶってる)

 伊知恵は心細さからつい恨みがましい想いが浮かんだ。

 これから行く下宿先だって、何十年か前に祖母の力を頼りにしてきた人の家らしい。美沼さんのお孫さんなら、と二つ返事で引き受けてくれたという。それは伊知恵にとってありがたくもあり、プレッシャーでもあった。

 伊知恵は中学校にほとんど行っていなかった。今となっては薄ぼんやりした思い出の一つだが、山を挟んでいくつかの小学校から上がってきた生徒達が集まる中学校のやんちゃなタイプの子達と、内気ではっきりしない伊知恵はうまくつきあえなかった。物足りなさが高じたのか、単に単調な学校生活のうっぷん晴らしか、いつのまにか伊知恵は彼女たちのからかいの標的になっていた。一人っ子でおっとりしている伊知恵についたあだ名はノロ。そしてそれには二重の意味があった。

「あんたのおばあちゃん、占い師なんでしょ?どっかの島で、そういうのノロって言うんだよ」

 伊知恵の住む村では尊敬され大切にされている祖母も、山向こうの比較的開けた新しい街の人たちにとってはうさんくさい、嘲笑の対象のようだった。

 大好きな祖母をバカにされても言い返すことすら出来ず、はっきりしない伊知恵への嫌がらせは日増しにエスカレートしていった。上履きや体操着はしょっちゅうなくなったし、制服のリボンも何度もなくなった。教科書やノートが1ページおきに破り取られていたこともあった。

 同じ村の幼なじみの子たちは出来る限りかばってくれたが、表立って彼女たちと渡り合ってくれることはなかった。皆それぞれ、自分の立場を守るのに精一杯だったのだ。

 一年生の夏休みが終わったら、伊知恵は学校に行けなくなっていた。両親に聞かれても、具合が悪いと言うばかりで口をつぐむ伊知恵に、人づてに事情を知った祖母がしばらくうちにいなさい、と言ってくれた。

「おまんは内気やけど、弱気な子やあらへん。ようケンカできへんのやったら、人と何とか折り合いつけていく方法を見つけんとなあ」

 そう言いながら祖母は無理に学校へ行けとは言わなかった。その代わり勉強はしっかりさせられた。勉強は嫌いではなかったから、伊知恵も素直にやった。余計なことにエネルギーを使わない分、教科書の内容はすんなり頭に入ってきた。さらに祖母は暇を見て日本を始め世界各国の様々な神話や昔話や伝説を聞かせてくれ、伊知恵はそれを聞くのが大好きだった。大学へ行って民俗学を勉強したいと思ったのは、この頃の影響だと思う。

そのままずるずると卒業まで、伊知恵は祖母の家で歪みも荒れもせず過ごした。そして高校は地元の中堅校にすんなり合格することが出来た。高校へ行ったら、それほど友達は多くなかったが、とりあえずはずされたりターゲットになることはなくなり、実り多いとは言えないまでも何とか無事に三年間を過ごすことが出来た。

伊知恵は、いわゆる「見える」能力は持ち合わせていない。UFOだって見たことがないし、もちろん霊の類もだ。そんなことは祖母もじゅうぶん承知しているはずなのに、伊知恵を跡継ぎに、などと言い出したのは、おそらく他にもう人材がいないからだろう。

 祖母の家は数百年来、代々巫女の家系である。順当に行けば、母かもう一人の叔母がなるところだが、残念ながらどちらも祖母のような能力に欠けていた。だから、祖母は跡継ぎを一代飛ばしてがんばり続けなければならなかった。それでもさすがに伊知恵たちの代には跡継ぎが必要だった。母方には六人のいとこがいたが、跡継ぎは女と決まっていたから、孫達のうち候補になるのは伊知恵ともう一人、今年中学校に入った従妹で、それはすなわち受験の時お世話になった母の弟である叔父の娘であった。

 だが一晩叔父の家で過ごし従妹を観察して、伊知恵はこの子には無理だ、と確信していた。

 下に小学校四年生の弟のいる従妹の真由は、いわゆる「今時の子」だった。六畳の洋間を自分用に一部屋もらいながら、まるで片づけるということをしない。彼女の部屋では、ゴミと宝物の区別はなかった。きっと、彼女の中ではゴミも宝物も同じぐらいの価値なのだろう。なくなれば買ってもらえる。そもそも、なくなって困るというほどのものは何もない。学校からのプリントやテスト用紙は、街のいろいろな店で配られたチラシと一緒になって部屋の隅っこにぐちゃぐちゃになっていたから、どちらも親には見せていないようだ。制服も私服も体操服もパジャマも一緒くたで、部屋の中央に丸まった山になっていた。ベッドの布団の上に菓子の包み紙や飲みかけのペットボトルが散乱し、好きなアイドルが表紙の雑誌は見開きページがぺろっとはみ出したまま床に放置してあった。

 たくさんの色とりどりのぬいぐるみがレースのカーテンに縁取られたしゃれた出窓にずらっと並んでいたが、どれもうっすらと埃をかぶり、西日を受けて背中が色あせていた。もう何年も抱き上げられもせず、ずっとその場所に置かれているのは一目瞭然だった。

 それでいて真由は、性格が悪いとか、すさんでいるわけではなかった。悪気も全くなく、素直で伊知恵にもよく懐いた。けらけら笑う笑顔の愛らしい、憎めない子だ。単に無頓着で何も気にしない、いわば無邪気な無神経というところだ。

 こんな真由が、将来あの山奥の村に引っ込んで日々社や祠を守り刺激の少ない地味な生活を送るとは、伊知恵にはとても想像できなかった。

 内気で人付き合いがあまり得意でない、山奥での暮らしが少しも苦にならない伊知恵が祖母の跡を継ぐのは、真っ当な成り行きと言えるだろう。伊知恵がそれを躊躇するのは、ただ漠然と自信がなかったからにすぎない。


 ようやくたどり着いた下宿先は、閑静な住宅街の中にあって、落ち着いたたたずまいの一戸建てだった。敷地は周囲の家よりいくぶん広く、庭には豊かに枝を茂らせた木が何本も見えた。表札に「佐山」とあるので、ここで間違いない。伊知恵は再び大きく呼吸をしてから、少し震える指先でインターホンを押した。



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