プロローグ1・恭一[2]
沙織は一時間ほどかけて都内の女子大に通っていたが、たいがい家で恭一たちと夜の食卓を囲んだ。母とはもちろん仲が良かったが、父ともよくうち解けていた。沙織が来て半年も経たない内に、恭一の家は沙織がいるのが当たり前になっていた。
恭一は時々、日曜日に沙織に連れられて遊園地に行った。父が車で送り迎えをしてくれた。一人ではまだ乗ることができない乗り物に、沙織は何度でも飽きずにつき合って一緒に乗ってくれた。時々通りすがりの人が母親にしては少し若すぎる沙織を見とがめて「息子さんですか?」と聞いてくると、沙織は笑って「いいえ、甥っ子です」と答えた。そして恭一は、甥っ子、という言葉を覚え、その言葉が大好きになった。だが、恭一が沙織を呼ぶときはいつでも「さあちゃん」だった。
ある日、ふだんは帰りが遅い父がいたからたぶん日曜日だっただろう。晩ご飯の時恭一がぐずぐず食べながら端っこに嫌いなピーマンともやしの炒め物を寄せていると、隣に座っている沙織が黙って自分の皿をぴったりくっつけて、さっとそれを自分の方へ箸でさらってくれた。恭一が上目遣いで沙織を見ると、沙織は自分のハンバーグの切れ端を代わりに恭一の皿に乗せてこっそり笑った。
「恭一、こんな優しいお嫁さんがいたらどんなに幸せだろうね」
目ざとく見つけた父が笑って冷やかした。
「うん。さあちゃんは、ぼくのおよめさんにするの」
恭一が大まじめで答えると、大人達は一斉に笑った。恭一は隣で沙織まで笑っているのを見て、少し哀しくなった。
「恭ちゃんが大人になる頃は、さあちゃんはとっくに誰かのお嫁さんになってるわよ」
母がそう言うと、恭一はますます情けなくなって、何故か涙までこみ上げてきた。
「そんなの、やだ!」
幼い恭一にも、沙織がもし誰かのお嫁さんになってしまったら今のこの生活はおしまいになってしまうのだということは何となくわかった。沙織がいない生活なんて、恭一には耐えられそうになかった。
その時、沙織が真面目な顔で恭一を見つめて言った。
「わかった。恭ちゃんがハタチになるまで、私もハタチのままで待ってるわ」
「ハタチ、って?」
「二十歳。恭ちゃんはもうすぐ六歳でしょう、だからあと十四年。十四年なんて、すぐよ」
恭一はびっくりして沙織を見上げた。そんなこと、出来るんだろうか。それはすごい!
「ほんと?ほんとに待っててくれるの?ぼくがハタチになったら、およめさんになってくれるの?」
くすくす笑う両親を前に、沙織は少しも笑わなかった。とてもきれいな瞳で、じっと恭一を見つめて、うん、約束する、と言った。
それからどのくらい過ぎただろう。
キンモクセイが路地で香り、遊歩道にいきなりにょきにょきと彼岸花の茎が伸びたかと思うと真っ赤な冠のような花を次々と咲かせた。あちこちで運動会のパンパンと景気のいい空砲が聞こえ、恭一の幼稚園の運動会も明日に迫った夜のことだった。
その日は父も沙織も帰りが遅く、恭一と母は二人で夕食を取った。九時過ぎには母に追い立てられて恭一は一人で布団に入ったが、明日の運動会のことなど考えながらいつまでも寝付けずにいた。どのくらい時間が過ぎたのか、階下で突然電話が鳴った。その音でますます目が冴えきってしまった恭一は、母に気づかれないようにそっと階段を途中まで下りて、電話機のある玄関の靴箱の方をのぞき見た。
「はい。えっ・・・」
電話に出た母がいきなり体を固くしたのが解った。それから何度もはい、はい、とうなづきながら、母の体が左右に揺れ、声が張りつめ、しまいに嗚咽のようにひきつってくるのを、恭一はただじっと見て、聞いていた。
「あなた、ちょっと来て!」
ちょうど会社から帰ってきた父が玄関で靴を脱ぐ間をも惜しむように、母は父の手を無理矢理引っ張ってキッチンへ連れて行くと、ダイニングルームの扉がぴしゃりと閉められた。
くぐもった早口の会話がしばらく交わされた後、父と母は恭一を残して家を出ていってしまった。もう夜の十一時をとうに回っていたというのに。
それから後のことを、恭一はあまりよく覚えていない。記憶の大部分が何故かすっぽり抜け落ちていた。
翌日の運動会に参加したか、休んだか、それも覚えていなかった。そんなことはどうでもいいほどの出来事が恭一に起こっていた。
沙織が、死んだ。
交通事故だった。
夜の国道で、トラックに轢かれ、即死だった。
田舎のおばあちゃんもやってきて、みんなでお葬式をした。恭一は母と一緒に他の人たちと一緒に見よう見まねで焼香をした。真新しい白木の棺の先に、小さな扉があった。扉を開くと、頭にぐるぐる白い包帯を巻いた沙織の寝顔が見えた。
包帯がとても痛そうだったけれど、恭一には沙織がぐっすり眠っているようにしか見えなかった。
(さあちゃん、どうしたんだよう)
恭一は声をかけたかったが、何だか回りがしんとしているのでやめた。
(運動会、見に来てくれるって言ってたのに。誕生日のプレゼントも、約束してたのに・・・)
それ以来、恭一は沙織の顔を見ていない。