第一話「刺客ノ巻」
「神貴、百合の身だしなみ、おかしくない?」
「その質問は今日だけで十一回目だ」
二千十六年四月六日水曜日、赤口の今日。
花床家の一人娘である花床百合は、さっきからどたばたと忙しそうに家中を東奔西走している。洗面所で髪型を整えてきたかと思えば、自分の部屋に戻ってきて無意味にぐるぐる歩き回る。さっきからそれの繰り返しで、見ているだけで目が回りそうだ。
「もう、そんなツッコミいらないからちゃんとチェックしてよ」
「百合がボケるから悪いんだ」
「ボケてなんかないよ! 今日は年長さんになる日なんだから、ちゃんとしたいの!」
そう、今日は彼女が通う幼稚園の今年度初の始業式、彼女が年長に進級する日だ。
彼女はこういう式の日だけは細々とした物への配慮が異常だ。髪がちゃんと三つ編みになっているか、服の襟、シワ、埃、汚れ、スカートのひだ、リボンの結び目、靴の磨き具合に至るまで、全てを確かめておかなくては気が済まない。かといって彼女にとって式が重要なのかといえばそうでもない。彼女の行動はいつも理解不能なのである。
「百合、服装はもう大丈夫だよ。後はナカミだね」
「ナカミ?」
「そう。百合は頭が足りてないだろう? 幼稚園では二学年分の後輩がいるんだし、もうそろそろちゃんとした方が良い」
「むっ。百合は元からちゃんとしてるもん。あーあ、早く小学校行きたいなー」
「小学校は君が思うより大変な所だよ。本格的に教育が施され、勉学に励まなければならない」
この子が勉強をするなんて、容易に想像出来るものではない。何度教えても、未だに一ケタの足し引き算が出来ない彼女だ。
「百合だってお勉強出来るもん。やれば出来る子だもんね」
「やれば出来るねぇ。いつになったらやるんだか……。あ! そうだ百合、大事な話が」
『百合ー! 準備出来たのー!? 早くしてよ、もう遅刻よ、遅刻!』
下の階から、百合の母親の声がする。百合は準備には気を使うが、時間にはルーズだ。
「はーい! うるさいな、もう」
百合は毒を吐きつつ、帽子を被り、通園リュックを肩に下げた。
「行くよ、神貴」
「了解」
話は後回しでも大丈夫だろうか。僕は百合の部屋から出た。
僕らは遅刻なんてせず、停留所に幼稚園バスが来る十分前にはそこに到着していた。母親のおかげだろう。
母親達は井戸端会議をして、百合は他の園児達とがやがや遊んで、僕は暇を持て余して十分間を過ごした。僕は体が小さいしまだ幼いから、こうして誰とも喋らずに突っ立っていると、百合達と同じ幼稚園児なのに除け者にされているという気がしてならない。
辺りに目新しい子や母親はいなかったので、どうやらこの集合場所に新しく入ってきた年少さんはいないらしい。
やがてバスが目の前に停まった。
「さあさあ、行ってらっしゃい」
お母さん方の温かい声に送られて、子供達はバスに乗り込んだ。無論、僕もだ。
僕はこの世界に降りてからというもの、四六時中百合に付き纏っている。そうでないと話し相手もいないこの世界で、退屈をしないというのは難しいだろう。
「やあ、おはよう百合」
百合が席に座ると、隣の子が彼女に挨拶をした。
「おはよ、ジュン君」
百合はにっこりと笑った。原淳一。百合の恋人だ。
この歳にして恋愛関係を結ぶのはいかがなものだろうか。そう思わなくもないが、まあそれは子供の恋愛というもので、大人になってから経験するトリッキーなものとは種類が違うのだろう。僕は彼女らの恋愛には口を出さない事に決めている。
「今日から年長なんだね、僕ら」
「いよいよって感じだよね! クラス一緒だといいな」
百合は原君と会うとニコニコしっぱなしだ。それだけ原君の事が好きで好きで堪らないのだろう。僕と喋っている時とは大違いだ。
「お熱い事で」
僕はボソッと嫌味を言った。百合は無視した。目の前でいちゃいちゃされると、どうもうっとおしい。
僕は後ろの席に座る百合から離れて、いつも空いている一番前の席に座ろうとした。そこは僕の特等席だった。
「……あれ?」
特等席には誰かが座っていた。後ろ姿では分かりにくいが、髪型からすると女の子だろうか。
年少の子かと思ったが、背の高さからするとそうでもなさそうだ。転園生だろうか。もしかして――
いや、そんな訳ないか。
その子の隣の席は空いていたが、隣に人がいると居心地が悪い。他に空席は無かったので、僕は仕方なく、後ろの方で地べたに座った。虐められている気分だ。
「百合、出かける前言いかけていた事だけど――」
「ジュン君、ちょっと髪型変えたよね? かっこいいー!」
こっちの方が居心地悪いかも知れない。
『坂城幼稚園』。それが百合の通う幼稚園の名前だ。
幼稚園バスを降り門をくぐる際、いつもすぐ横の銘盤に視線が吸い寄せられる。そして思う。幼稚園にしてはごつい名前だ、と。
地名の坂城区から名前をとったのは分かるが、もうちょっと可愛らしい名前でも良かっただろうと思う。漢字で書かれると戦いの場の様だ。
戦いの場……
「百合、それでだね、話というのは――」
「あっ、ターちゃん!」
聞いちゃいねぇ。
仕方なく僕は園庭に目をやった。
そこに『ターちゃん』はいた。大きめのブルーシートを広げ、様々な種類のゲームフォルダーを積み重ねてそこに鎮座している、胡散臭い男。
「よお」
五反田蒼。通称ターちゃん。この幼稚園に頻繁に出入りする、謎多きニートである。
「今日は新作あるの!?」
「あったりめーよ。全部で十八つ、仕入れてきたってもんさ!」
彼を囲む様にして、園児達がわらわらと集まる。
彼の素性は誰も知らない。一昨年頃からひょっこりと幼稚園に顔を出し始めたらしい。園庭の隅でブルーシートの上にどっかりと座り、ただ黙々とゲームをしていたという。
最初は当然の様に、園児達から薄気味悪がられていたらしい。が、やがて面白いゲームを貸してくれて、やり方を教えてくれたり、一緒に遊んでくれたりする優しいお兄ちゃんである事が発覚。園児達との絆を深めた彼に、教員一同も口が出せない始末になったらしい。
園児からは一人漏れなく好かれている彼だが、教員や保護者からは絶対的不人気だ。当たり前だろう。どこの馬の骨とも分からない、自称ニートの男だ。保護者の中にモンスターペアレントらしき人がいない事が、不幸中の幸いであろう。
「こらっ、皆戻りなさい! 体育館に移動するわよ!」
バス担当の教諭が厳しい声で園児を叱り付けた。
「はぁーい……」
しょんぼりとした顔で先生の元へ帰っていく子供達。先生は困った様な顔をした。
「五反田さん、朝のこの時間は忙しいってご説明したじゃありませんか? 何でこの子達を遊ばせるんですか?」
「ああ、そうだっけか? すまねーすまねー」
「ちゃんとしていただかないと困ります。お願いしますよ」
「へーい」
ついでに五反田さんも叱ったその先生は、子供達を引き連れて校舎の方へと去った。
さて、僕も着いていくか……あれ?
「ねぇターちゃん、ガーデニングゲームの新作は?」
「おお、あれどこやったっけ」
「百合ッ!」
驚いた事に百合は、ひょろりとした五反田さんの陰に隠れていた。何てこった。
「皆もう行ったよ、君も早く行けよ」
「えーめんどくさーい」
「なっ!」
こんな悪い子だったか、この子!? 残虐性を除いては普通だった筈なのに、グレてしまったのか?
「どうしたどうした、百合ちゃんのカミサマ、怒ってるのか?」
五反田さんは百合から僕の話を聞いている。見えない僕の存在を面白がって、頻繁に話題に出してくるのだ。
「怒ってる怒ってる、もうカンカンだよ」
「気の毒だねぇ、そりゃ。なぁカミサマよ、そんなに焦るこたねえだろ? 始業式は毎回準備に時間が掛かるんだから」
彼の言う事も一理ある。僕は少し唇を尖らせた。
「百合。彼に、僕は怒っていないと伝えてくれ」
「神貴がキレてないですよって」
「ふうむ、百合ちゃんチのカミサマって意外にチャラそうな言葉遣いだよなぁ」
誤解だ。僕は頭を抱えた。人間から姿が見えないおかげで、百合は時折、僕に関して間違った情報を垂れ流す。
「ま、カミサマのお許しを得たならいいよな。ほい百合ちゃん、例の第三弾だ」
「おおー! 今回も期待できそう!」
百合は早速小型のゲーム機に新しいソフトを差し込み、電源を入れた。もう待ち切れないといった動作だ。
「熱心になるのはいいけどよ、その歳でゲーオタとか止めてくれよぉ?」
「ターちゃん程ハマってないから大丈夫だよん」
「人間ハマる時はハマるもんだぞ? ちゃんと社会性が身に着けられる様に、今からでも友達は大切にしとけよ」
百合の返事が無い。百合は活発で社交的な要素の塊だが、いじめ事件以降、クラスメイトとは深い交流を持たなかった。
「百合ちゃんも色々あると思うけどよ……。年長さんも転園生が一人やってきたんだし、新しい友達つくってもいいんじゃねぇかな」
江戸訛りの優しい口調に、不意に百合が振り返った。
「転園生?」
「知らねぇのか? すっげーかわいこちゃんらしいぞ」
「なんでターちゃんが知ってるのよ」
「え、いや、そりゃあ先生の話を小耳に挟んだだけだよ」
「本当? 何か嘘くさいなー」
茶を濁す五反田さんを、訝し気な目で見る百合。この男の言う事はいつだって嘘くさい。
「何で嘘つくんだよ、本当だよ」
「ターちゃんは転園生の子が好き、いいえ、恋人なのよ!」
「はぁ!?」
五反田さんはゲームをバンと地面に叩きつけ、驚いた表情で百合を凝視した。
「だから彼女の事は誰よりも良く知ってるの。けどそれがバレてしまえば二人は別れなければならない。だから二人は公の場で会っても、赤の他人を装うの。でも、心の内では――」
「はいはい、すげぇ想像力だな、羨ましいよ。そろそろゲームに戻らせてもらうぜ」
「ぶぅー」
全く。百合は同年代の友達は出来ないのに、何故大人相手なら仲良くなれるのだろう。五反田さんは見た目二十歳前後だ。どう見ても同年代よりは取っつき難いだろうと思うのだが。
「花床さん」
透き通った声が、後ろから掛けられた。
「あ、先生」
百合は凍りついた笑顔で返事をした。今にも『ヤバッ!』とか言って逃げ出しそうだ。
振り返ると、エプロン姿のスラリとした女性がいた。眼鏡を掛けて髪をスタンダードに結い上げている、少し地味な女の人だ。
彼女は百合が年中の時の担任、雨森先生だ。園内一叱るのが静かな先生として、最近では少し園児からナメられている。
「始業式、もう始まってしまいました」
「えっ、えー! ねーしずくちゃん、サボるつもり無かったんだって、許してよぉ!」
「私が許してもどうにもなりません」
雨森さんは諭す様な口調でそう言い、「行きますよ」と百合の手を引いた。
「あと、私の事をしずくちゃんと呼ぶのは止めてくれますか」
「いいじゃん本名なんだからー。雨森雫、良い名前じゃん!」
「そうそう! 良い名前だよしずくちゃん!」
五反田さんも何故か加勢する。
「おだてれば良いというものではありません。五反田さんも謹んで下さい」
『しずくちゃん』は足早に体育館へと移動した。僕も付いていく。
「じゃあねーターちゃん」
「おう、しずくちゃんも頑張れよー」
「…………」
雨森さん、無視。このクールっぷりは正直かっこいいね。
「花床さん、起きて下さい」
「んぅ……何よぉ……」
「始業式は終わりました」
百合は驚くべき睡眠力で、園長先生のお話、先生方の着任式という限られた時間に見事な眠りを我々に見せつけたのだった。
「あぁ、今始業式だったのかぁ……意外と早かったね、それじゃあまたおやすみ……」
「寝ないで下さい」
短く鋭い指摘を百合に浴びせると、雨森さんは園児の仕分け作業に移った。
始業式では前のクラスで並んでいたので、クラス発表と並び替えを同時に行う。先生方が熟練の技で園児達をパッパと仕分けていく。
「はい、花床さんはうさぎ組ね」
「うさぎかぁ」
うさぎ組のグループに仕分けられると、百合は周囲をキョロキョロと見回した。
このクラスには幸いにも、百合をいじめたグループの子はいない。百合はほっとした様な表情を浮かべた。
今百合をいじめようなんて企む者は皆無だろう。彼女をいじめた天罰が下り、小夜香ちゃんが亡くなったという噂は有名だ。
でも、百合からすれば、例えいじめられなくても気まずさは残る。彼女らは百合にとってのトラウマだ。
「それでは教室に移動します」
うさぎ組にそう告げたのは、雨森さんだった。
「げっ、またしずくちゃんのクラスじゃん、気ぃ抜けないなぁ……」
『うさぎ組』と書かれた、ウサギの絵付きのネームプレート。それが付いている教室に、うさぎ組はぞろぞろと入っていった。
「皆さん、男子はこっち、女子はこっちの端から縦に背の順で座って下さい」
雨森さんが指示する。彼女の隣には、雨森さんより更に背の高い、見知らぬ女性がいた。体格も女性にしてはがっしりした方だ。きっと教諭だろう。
「それでは、ホームルームを始めます。このクラスはうさぎ組、担任は私、雨森雫です」
雨森さんは黒板に丁寧な字で『雨森雫』と書き、上にふりがなを振った。
「このクラスには副担任の先生もいらっしゃいます。こちらの上岡先生です。先生、自己紹介をどうぞ」
話の主導権が上岡というその先生に移る。上岡さんはニンマリと笑った。
「はぁい、こぉんにちは、上岡菊ですぅ」
やけに間延びした、大きな声だった。声を張っているのではなく、素でこんな声、という感じだ。
彼女もまた、黒板に『上岡菊』と名前を書く。丸みを帯びた、雑で、でかい字だった。
「私はぁ、副担任って事でぇ、皆と一緒に遊んだりとかしてぇ、皆の仲間になれたらいいなぁっ、って思いまぁす! 宜しくねぇ!」
長い間その声を聞いていると頭がおかしくなりそうだった。
「上岡先生は大学をご卒業されたばかりでこの幼稚園にいらっしゃいました。皆さん、先生を困らせる事の無い様、お願いしますよ」
「はーい」という声があちこちからした。上岡先生は何やら満足そうにまたニマニマ笑った。
「続いて転園生の紹介です。落合さん、前へどうぞ」
さっき五反田さんが言っていた転園生だろうか。このクラスだったのか。
カタッと小さな音がして、誰かが席を立った。皆の視線がそちらへ向く。
「あれ、あの子、バスにいた……」
今朝、バスの一番前の席に座っていた子と、髪型が似ている。
その子はクラスメイトの目を気にする事無く、ゆっくりと前に出てきた。
先生が黒板の『雨森雫』と『上岡菊』を消して、新たに『落合みぞれ』と書いた。
「落合さん、自己紹介、出来ますか?」
「はい」
可愛らしく落ち着いた声で、その女の子は答えた。
「ではお願いします」
「落合みぞれ、聖愛幼稚園出身」
「……終わりですか?」
「はい」
少女が頷くと、彼女の艶やかな髪も揺れた。さらさらのショートヘアだ。
背は幼稚園児にしては少し高く、顔は整っていて、潤みがちの目は少し青みがかかっている。ハーフかクォーターみたいだ。
彼女は上品なオーラを身に纏っていて、安っぽいこの幼稚園の制服は彼女には不似合いだった。スモッグはもっと似合わないだろう。
「自己紹介にしてはぁ、ちょっとぉ、短すぎるんじゃなぁい?」
上岡さんが口を挟んだ。
「そうですね、では質問タイムにしましょう。皆さんから落合さんに質問して下さい。落合さん、それでいいですか?」
「え、ああ、はい、まあ」
みぞれちゃんというその女の子は、曖昧に頷いた。「いえーい!」という叫び声が響く。
子供は質問が好きだ。『何これ、何で、ねえ、どうして?』。気の済むまで問い続けてくる。百合がその最たる例だ。
「上岡先生への質問でもいいですよ。何か、質問ある人」
「はいはーい! 両方に質問! 彼氏いる!?」
威勢の良い坊主頭が訊いた。
「えっ」
みぞれちゃんは戸惑いを顔に出した。クールそうな子だが、感情がすぐ表に出るタイプの様だ。
「上岡先生からどうぞ」
「えぇ~と、います、いや、どうしようかなぁ~」
「どっちだよオバハン!」
何やら貶める様な発言も聞こえてくる。
「まぁ、なぁいしょ、って事でぇ」
不満の声が上がる。
「はい、落合さんは?」
「ああ、えっと、いないです、多分」
「多分!?」
みぞれちゃんの顔にほんの少し赤みが差す。恐らく、彼氏なぞ出来た事も無いのだろう。
……可愛い。
「多分って何だよー」
「いるけどここじゃ言えないんじゃないのー?」
「このクラスにいんじゃねぇの? ヒューヒュー」
この園児達の食いつきっぷり。上岡さんの時とは明らかに勢いが違う。
うさぎ組はどうやら、野次馬の多いクラスらしい。あまり好ましくないな。
「はいはーい、新しい質問!」
計十四つの質問と答弁が繰り広げられ、うさぎ組は大分盛り上がった。
「では、時間ですので、ホームルームを終わります。配布物は体育館の方で配られたので、今日はこれでおしまいです。それでは、帰りの挨拶をしましょう」
ガタガタと園児達が席を立つ。
「まだ日直が決まっていないので、今日は落合さんに号令を掛けてもらいます。お願いします」
「あ、はい。気を付け。礼、さようなら」
「さようならー!」
教室の中はたちまち騒音で埋め尽くされた。園児達がそれぞれ、一緒のクラスになれた友達とぺちゃくちゃ喋っている。
「お喋りはほどほどにして、早く帰って下さい。帰りのバスに置いていかれても知りませんよ」
雨森さんに戒められ、わらわらと外へ出ていく園児達。
「僕らも早く帰ろう」
百合を見る。百合はどこか別の方向を向いている。
「百合? 何見てるの?」
彼女の視線の先を見やると、そこには先程のみぞれちゃんがいた。
二人は睨み合っている様だった。漫画だったら火花でも散りそうな位、二人とも険悪な目つきだ。
「……彼女、君の知り合い?」
「ううん」
「じゃあ何でじっと見てるの?」
「なんか、向こうが睨んできたから、睨み返してる」
「え、いやいや、逸らそうよ」
「こういう時は逸らしちゃいけないんだよ」
「それは熊の話だろ」
百合はこういう馬鹿なところがあるから困る。
しかし、みぞれちゃんの表情はまさに迫真である。眉を寄せ、唇を一文字にきゅっと結び、おもいっきりこちらを睨みつけてくる。子供ながら恐ろしい。
「……ふんっ」
しかし、先に目線を逸らしたのはみぞれちゃんだった。そしてその後は素早く通園リュックを引っ掴むと、そのまま速足で教室を出ていった。
「なんだあいつ」
「それは君に言いたいよ。何だって睨まれたら睨み返すんだよ」
「だって理由も無く睨まれたら腹立つじゃん」
「相手は何かあるのかも知れないだろ」
「百合は知らないもん」
「なんだよそれ」
僕は溜め息を吐いた。年長になっても、この子はやっぱり子供だ。
「あー頭きた! 上岡先生でも尾行するか!」
「は!?」
何という爆弾発言だろう。幼稚園児の考える事とは思えない。
「あの先生、ちょっと気にならない? 喋り方とかなーんか怪しいんだよね。というわけで、だよ」
百合は教壇に近づき、先生二人の会話に耳を傾けた。
「今日は初めて園児と顔を合わせるので、疲れが溜まるだろうと教頭先生も仰っていました。遠慮無く休んでいいですよ」
「ありがとうございますぅ」
「大丈夫です。今から三十分後に職員室へ来て下さい。職員会議ではありませんが、打ち合わせがありますので」
「はいぃ、承知しましたぁ」
雨森さんと上岡さんは会話しながら廊下に出た。
「では」
雨森さんはすたすたと職員室の方へ歩き出した。上岡さんは笑顔で手を振り、暫くするとやつれたポーズをとった。
「はぁ」
「めっちゃやつれてるなー先生。まだ若いのに、シワもタルミも目立つね」
百合が僕だけに聞こえる声で囁く。
「余計な陰口を叩くんじゃない」
「本当の事だよ、あっ、どっか行こうとしてるっ」
百合は上岡さんを追いかけた。慌てて僕は百合の腕を掴む。
「おいおい、本気で尾行するつもりなのか?」
「もっちろん」
「変態か君は」
「何の事だかさっぱりですわ~」
普段ならこの位の奔放な行動は許しているところだが、今は駄目だ。百合にはずっと言いそびれていたが、彼女が重大事件に巻き込まれているからである。
「百合、止めておいた方がいいよ」
「何で? 別に悪い事してる訳じゃないよ?」
「危険なんだよ、よく知りもしない人間を追いかけるのは」
「よく知りもしないって、相手は先生じゃん」
この時点では先生ですら危険人物である可能性が高い。特にあの人は、百合が言う様に怪しいのだ。
「いいか百合、今からゆっくり説明するから」
「あ、先生行っちゃう。早く追いかけないと」
「こら、待て!」
百合は廊下の角を曲がった先生の後を追うべく、走り出した。僕もダッシュした。
だが、神というのは人間と比較すると、圧倒的にスピードが遅いのだ。僕と百合はどんどん距離を離されていく。
待て。待つんだ百合。君、死ぬかもしれないんだぞ。
声を出せない程、息が上がる。
百合は廊下の右側、ある部屋の前で急にストップした。どうやら先生がその部屋に入っていったらしい。
百合は扉を少し開け、隙間から片目で中を覗いている。
「おい、百合!」
「うあっ!?」
僕が百合に掴みかかろうとしたその時。
百合が驚いて勢い余り、扉を全開にしてしまった。
窓から零れ出た日差しで、部屋は暖かい陽だまりとなっていた。眩しくて、思わず目を細める。
その中央で、椅子に腰掛けている人物。先程までのにこやかな表情が消えた、上岡菊だ。
「あちゃあ、見られたかぁ」
上岡さんの手に握られている物が、僕には信じられなかった。
拳銃。人を素早く、確実に殺す為の武器。
爆音が響く。僕らの横を、何かが掠める。そのすぐ後、百合の悲鳴も聞こえた。
「せ……先生……?」
百合の肩が小刻みに震えている。恐怖で声も上擦っていた。
「……見ちゃったらぁ、仕方ないんだよぉ」
上岡さんのゆったりした口調が恐怖を煽る。
「悪いけどぉ、殺しちゃうしかぁ、ないのぉ」
上岡さんはニタリと笑った。やはり彼女は、そうだったのだ。
「嫌ぁぁぁ!!」
百合は悲鳴を上げ、一目散に逃げだした。僕も後を追う。
「逃がさないよぉ!」
上岡さんが追ってくる。近付く足音。何故か鳴り響く爆音。もう僕は無我夢中で走った。
目の前の百合が階段を駆け上がる。僕は階段を上がって、ようやく百合に追いついた。
「百合、こっちだ」
追っ手に聞こえない様、小声で指示を出す。
「ええ、ここ男子ト……」
「こっちの方が安全だろ、いいから」
百合を引っ張って個室に入れる。僕も入って、すかさず鍵を閉めた。
「ねえ、先生は何者なの?」
「しっ」
僕は右手で人差し指を口に当て、左手で百合の手を握った。
「…………」
百合の不安に満ちた顔が、電気もつけていないトイレの闇に浮かび上がる。
足音が近づいてくる。静けさの中に、声が放たれた。
「あれぇ、どこいったんだろぉなぁ、トイレぇ?」
背筋が凍った。もう駄目かもしれない。百合が僕の手を、ぎゅっと握りしめた。
「入ってますかぁー?」
キイ、と扉の開く音がした。どうやら、上岡さんが男子トイレの中に入ってきたらしい。声がどんどん近づいてくる。
「あれ、一つだけ閉まってるぅ。ここかぁ」
ああ、もうおしまいだ。上岡さんの身長なら、上の隙間から個室へ入ってこれるだろう。鍵なんて閉めるんじゃなかった。ごめんよ、百合――
「男子トイレに抵抗無く入っちゃうなんてぇ、凄いよねぇ。私の手から逃れて隠れるだけでもぉ、凄いのにぃ」
フフ、と笑い声が木霊する。
「貴女ってぇ、『刺客』なんでしょお? 意識が違いすぎるよぉ。じゃあねぇ、また明日にでも、バトっちゃおー」
今度は足音が遠ざかっていった。
「良かった、助かったみたいだ……」
「神貴!」
突然、百合が僕を抱き締めた。僕はよろけて、壁に背中を打ちつける。
「怖かった。滅茶苦茶怖かった。小夜香みたいに殺されるって、百合、終わりだって思ったら、怖くて、怖くて、もう……」
僕の肩に温かい液体が零れ落ちる。涙だった。
僕は何も言えなくて、ただ、男子トイレの中で百合を抱き続けた。
「ほんっとーに、ふざけないでよ!」
百合の口から怒号が飛んだ。
昼の内は幼稚園での恐怖が尾を引いていたのか、しおらしかった百合だが、日もとっぷりと暮れた今さっきから急に怒りが激しくなり、僕を怒鳴りつけてくる様になった。
何故身の危険が迫っている事を知っていたにも関わらず、早く詳しい事を教えてくれなかったのか、という主張だった。ごもっともだ。
「悪かった、ごめん」
「ごめんで済んだら警察いらないわよ!!」
なんか古臭いな。いや、そんな事を考えている場合ではない、今は反省しなければ。
「本当に、済まなかった。それで、今後こういう事が無い様に、上岡さん達の事を説明したいんだけど」
「早く言って! イライラするっ!」
「じゃあ話すね」
こほん、と僕は軽い咳をした。
「結論から言うと、君は上岡さんの様な人達と戦わねばならない」
「はぁ!?」
百合は目と口を大きく開いて、間抜け面をした。そして僕の胸ぐらを掴んだ。
「冗談じゃないわよ!!!」
「わ、悪い、本当なんだ」
「何で百合が戦わなきゃいけないの!? 神貴でいいじゃない!」
「僕は戦闘が苦手だし、上からの命令で花床百合を刺客に使えと……」
「上って誰よ!? 何! 何なの! もう訳が分からない!」
百合は本当に混乱している様だった。風呂上りで濡れた髪の毛を振り乱して、暴れる。
「落ち着いてくれ。頼むから。全て説明するから」
「……分かった」
百合が十分に落ち着きを取り戻したところで、僕は話し始めた。
「まず。事の発端、『ワールドヒールストーン』について話しておこうか」
「わーるどひーるすとーん?」
「世界を浄化する力を持つ、この世で一番聖なる石だよ。この石はお伽噺として世界に語り継がれているんだ」
「百合は聞いた事無いよ?」
「人間界ではどうか知らない。兎も角、この石は強い力を持っているんだ。この石――略称はwhsというんだが、これに願い事を吹き込めば、世界を救う事も出来、世界を潰す事も出来るとされているんだ」
「なあんだ。そんなの、神貴でも出来るんじゃないの?」
僕はプッと吹き出した。
「まさか。いくら何でも、それはないよ。僕ら神は、人間の操作なら容易いけどね。それはそうと、そのwhsの大体のありかが、最近分かったんだ」
「えっ、本当? どこどこ、探しに行こうよ」
全くこの子は天真爛漫である。
「勿論、そのwhsは皆喉から手が出る程欲しいだろ? だから、whsが実在したという噂を聞きつけた人々で、それを信じ、なおかつそれを奪えるという自信のあるものが、そのありかへ集結したんだ。大概の人はそんな子供騙しみたいな噂、信じなかったけどね。けど、この世界を創っていく様な強大な勢力は、勢力ごとにその秘宝を探し出す者を指名したんだよ。他の者を殺してでも宝を死守せよと言いつけてね。それが今回のwhs争いで『刺客』と呼ばれる人々だ」
「何ていうか、スケールでかいね……」
ごくり、と百合が唾を飲んだ。
「その強大な勢力の中には、天界の者共も含まれている。彼らは刺客を誰にするか相談した。最終的にそれは、宝が眠っているとされる場所によって決定された」
「宝のありかはどこなの?」
「坂城区だよ」
「ええ!?」
百合は跳び上がりそうな程仰天した。というか、実際跳び上がった。
「よってその地区に住んでいる、『生神貴』――つまり僕に決まりかけた」
「そうか、じゃあやっぱ神貴じゃん」
「しかし。僕は天界を追い出された身だ。あっちでは『腐った林檎』扱いされてね、評判は散々だ。例えあるかどうかも分からない宝の事とはいえ、あんな奴には任せておけない。皆口々にそう言ったそうだ」
「ひっどい、神貴ってお役立ちキャラなのに」
「お役立ちキャラって……。で、天界の者は坂城区まで行くのも面倒だしと考えあぐねた結果、君に決めたんだ」
「いやいや! 訳分かんない! 何でそこで百合が出てくるの!?」
「一番僕に近しい人物だからだとさ。僕は君のサポートに当たれだと。あいつら、割と適当だからな」
「適当に決めちゃいけないところでしょ!? 命かかってんだから!」
「許してやってくれ。その言いつけを守らないと、僕はあいつらに何されるか分かんないんだ」
「いや、だって……誰と戦うの?」
「whsは坂城幼稚園に眠っている可能性が高いと言われているらしいから、坂城幼稚園に関係のある人だと思う。奴ら刺客は、こっそり関係者になりすましているんだ。それも何年も前からかも知れないね。その噂が流れたのは、少し前の事だから」
「えっと。じゃあ、百合と仲の良い人が戦いの相手かも知れないの? 例えば先生とか、友達とか」
「そうなるね」
「そんなの絶対に嫌」
百合はきっぱりと言い放った。……え?
「そんな事言わずにさ、覚悟を決めてくれよ」
「駄目。百合の友達は大切な人ばっかりなの。先生にだって恩があるし。そんな人との関係にヒビを入れるなんて出来ない」
ぐうの音も出ない正論だった。いや、でも。それじゃあ僕はどうなるんだ?
「百合の言う事は分かるんだ。間違っちゃいない。でも、百合に何とかしてもらわないと僕は酷い目に遭わされるかも知れないんだ」
「そんなの百合の知ったこっちゃないでしょ、勝手に野垂れ死になさいよ!」
嗚呼、なんという言い草だろう。結局僕は百合の友達でも何でも無かったのだろう。友達契約、糞喰らえだ。
兎に角、僕の未来は決定した。僕は懐かしの鬼上司から説教を受け、体罰を喰らい、地獄に放り込まれ、八つ裂きにされて宇宙の藻屑となるのだ。
「そんな、そんなのって、あんまりじゃないか……」
視界が真っ暗になる。僕は、もう……。
いや、諦めちゃ駄目だ。考えろ、知恵で乗り切るんだ。
何か百合を乗り気にさせるものは無いだろうか。whsを見つけてきたら、何か珍しい物を褒美としてやるとか。
「……そうだ! ねえ百合、君はガーデニングが好きだったよね?」
「それが何なの?」
百合はお母さんの影響で、ガーデニングが趣味となっていた。バルコニーや玄関先で、様々な植物を育てている。中でも百合は、小さくて可愛くて、珍しい花を好んでいた。
その条件にぴったり合う花の為なら、この子は恐らく何でもするだろう。
「君に花をプレゼントしようかと思うんだけど」
「え? 何の花を?」
「名前は知らないけどね、天界にしか咲いていない、希少価値の高い花だよ」
「えっ! そ、それってどんな花?」
明らかに食いつきが違う。この感触ならいけそうだ。
「どんなだったかな。多分、スズランみたいに小さな花がいくつも咲いているやつだったね。一つ一つの花は青くて、チューリップみたいな形をしているんだ。そして最大の特徴は、花の内側が光っている事」
「光ってる!? 凄い! ちょうだい、今すぐちょうだい!」
百合はかなり興奮した様子だった。もうどうやってでも手に入れたいという顔つきだ。
「けどね、ここにはその花が無いんだ。僕は天界から追い出された身だから、天界に行って花を摘むなんて出来ない。無論、君やその他の人間は天界に出入り出来ないしね」
百合はがっくりと肩を落とした。
「それならプレゼントしたいなんて言わないでよ……」
「でも賢いやり方が一つあるよ。whsを見つけ出すんだ。そうすれば天界は僕を認めてくれる。僕は天界に出入り可能になり、花を摘んで君に届けられる、って寸法だ」
「じゃ、じゃあつまり、百合がwhsを他の人と戦ったりして見つけてきたら、お花をくれる、って事ね!?」
「そういう事さ。どう、やってくれる?」
「やる!」
即答だった。これで決まりだ。僕は思わず笑みを零した。
「やったーッ!」
「新しいお花、新しいお花!」
僕らは互いに喜びすぎる位喜び、飛び跳ね、ゲラゲラ笑い、何故か踊り狂った。無茶苦茶なテンポで、くるくる回ったり、ステップを踏んだりする。
僕と百合は時々こんな風に気違いになる。特に夜は興奮して、騒ぎまくる。きっと二人とも馬鹿な所為だ。
「神貴ってやっぱり最高!」
「君も最高だよ、百合!」
「神貴!」
「百合っ!」
社交ダンスの如く手を取り合った瞬間、
「うるさいわね!」
僕らは一喝された。
踊りを止めて扉を振り返ると、百合のお母さんが鬼の形相でそこに仁王立ちしていた。
「一人で叫んで暴れて、あんた気違いよ!!」
「だから神貴と話してるだけっていつも言ってるじゃん!」
「だから! 神貴って誰なのよ一体!!」
娘さんは確かに気違いの様です。
こうして僕は百合という一人の幼女を、混沌としたややこしい争いに巻き込んだ。
辛くて苦くて無性に哀しかった、彼女と僕の壮絶な戦闘劇は、ここから始まったのだった。
……その夜。何故か落合みぞれちゃんが出てくるエッチな夢を見た。




