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プロローグ「願事ノ巻」

 少女は花を見ていた。

 それは小さな花で、特に何の変哲も無く、ただ控え目にそこに咲いているに過ぎなかった。にも関わらず、その子はそれをじっくりと観察していた。時々、くんくんと匂いを嗅いだりもしている。

 そうする事に何の意義があるのかは分からない。ただ、その子の表情はとても嬉々としていた。誰もが顔を緩めてしまう光景。

 けれど、そんな密やかな平和は長く続かない。

「……あ!」

 花が、誰かの足に踏みにじられた。

 彼女は真ん丸な目を見開いたまま、その足を目で辿る。

「さやかちゃん……」

 視界に映ったのは、同じお花組のさやかちゃんだった。

「あら、ごめんなさい。この花を見ていましたの?」

 さやかちゃんに話し掛けられるのは久々だから、彼女は慌てている。

「あ、でも、だいじょ――」

「百合ちゃんってお昼休みも独りで過ごす、お寂しい方でしたものね」

 “百合ちゃん”は眉を寄せて黙り込んだ。

「ではさようなら。わたしは皆様と遊びに行きますの」

 さやかちゃんはフフッと笑って、友達の方へ手を振りながら走っていった。

「…………」

 百合は下唇を噛み、地面に横たわった花を元に戻そうとした。

 けれどもその花は、もう自分の足では立てなくなった。

 百合は、花に向かって手を合わせた。目をぎゅっとつむって、ごめんなさいをする様に。

 そんな健気な彼女を見る度、僕の心も傷付いた。






 花床百合 (はなどこゆり)、幼稚園の年中さん。彼女は、いじめられていた。






 元々百合は、さやかちゃん達と友達だった。

 僕が百合を最初に見た時、彼女はさやかちゃん達と鬼ごっこをして遊んでいた。

 さやかちゃんは鬼になると、いつも百合を狙っていた。だけど、百合はすばしっこいから、数十秒したらさやかちゃんがゼエゼエ言って倒れてしまうのだった。

 でも、さやかちゃんはそんな事で人を恨む子じゃない。さやかちゃんは百合を気に入っていたから鬼ごっこで百合を狙うのだった。

 二人は友達グループの中でも一番の仲良しの筈だった。それが変わってしまったのは、ある男の子の一言が原因なのだ。

 さやかちゃんには好きな男子がいた。背がスラリと高く、髪の毛を丸刈りにしていて、野球が大好きなかっこいい男の子。

 さやかちゃんは思い切って、お花組の子全員の前でその男の子に告白した。

『わたくしと付き合って下さる?』

 園児達は耐え切れず、キャーと黄色い歓声を上げた。男の子は困った様にしばらく黙り込み、静かにこういった。

『俺、お前とは付き合えない』

 その場が凍りついた。

『俺には、他に好きな子がいる』

『誰なんですの?』

 方々から飛んでくる冷たい目線に怯えながらも、男の子はきっぱりと言った。

『百合だ』




 百合がいじめられた理由は、こんなにもくだらなかった。

 だけどさやかちゃんは本気だった。彼女はプライドが高かったから、公衆の面前できっぱり振られたのがよっぽど恥ずかしかったのだろう。

『お、おはよう』

 その翌日の朝、百合は気まずそうにさやかちゃんに挨拶をした。

『…………』

 彼女は百合の事なんか見えていないという風にさらりと無視した。

 百合は悲しくなったが、時間が経ったら忘れてくれるだろうと思い、気を取り直した。

 そして、友達グループの他の子にも挨拶した。

『おはよっ』

『……!』

 その子は百合を見ると、顔を引き攣らせた。

 そして、慌てて遠くへ走り去った。

『……え?』

 百合は友達皆に挨拶をした。

 皆に無視された。

『……どうして?』

 さやかちゃんはずる賢い女の子だったのだ。あの男の子に振られた後、百合以外の友達を集めてさやかちゃんが言い放った一言。

『百合をシカトする』

 年齢不相応な言葉が飛び出したあの瞬間を境に、

『…………』

 百合は、ひとりぼっちになった。




 正確に言うと、百合は独りではない。

 いままでさして仲良くも無かった他の子達があれから優しくなった。さやかちゃん達が百合を無視するのを見ると『おい、止めろよ!』ときつく叱った。

 それに、さやかちゃんを振ったあの男の子とは恋人になれた。『ごめん、俺あんな事喋んなきゃ良かった』と彼は心から謝罪していた。

 でも、百合は全然そんな事構わなかったのだ。だって、男の子があの理由でさやかちゃんを振っても、今まで通りさやかちゃんと自分は仲良しだと信じていたからだ。

『どうしてだろ? ……私達、親友じゃ、なかったのかな』

 百合は毎晩毎晩、そう言って泣いた。

 そうして泣き腫らした目で幼稚園に行って、めげずにさやかちゃん達に『おはよ!』とニコニコして言った。人前では、怒ったり嘆いたりしなかった。

 気丈に振る舞えば振る舞う程、彼女の心は傷付くばかりなのに。

 僕は彼女から、人間の強さを学んだ。そして何も手出しをしないまま、今日に至る、という訳だ。






 百合にとって苦痛な幼稚園での生活が終わると、僕は花床家に先回りして、その庭から見える風景をぼーっと眺めていた。

 街がだんだん暗くなってくる頃、二階にある百合の部屋に明かりが灯った。

 僕は、ふっと数メートル、宙に浮いた(・・・・・)。周りの人間に僕が見えたら、きっと死ぬ程驚かれる事だろう。人間は自分単体で空を飛ぶ事すら出来ない。僕達“神”にとっては、それは赤子の手を捻るより簡単な事なのに。


 そう、僕は神だ。天界からこの低俗な人間界に落とされた劣等生。

 僕に使命は無い。夢も無い。僕は廃神も同然なのだ。

 ただ、神は人間には見えないので、僕はこうして暇潰しの為に社長や乞食やホストや幼稚園児なんかを観察して毎日を過ごしている。そんな生活も早一か月だ。


 そして僕は百合の部屋に繋がっているバルコニーに降り立って、カーテンの隙間から中を覗いた。

 百合は白いワンピースを着て、ベッドに横たわっていた。死んだ様に動かない。いつもなら、この後幼稚園での悲しい出来事を思い出して、声を押し殺して泣くところだ。

 だが、今日はその気配が無い。仰向けになって、神妙な面持ちで天井を眺めている。

 何を考えているのだろう。もう死んでしまおうとか? 人間は自分で自分を殺したりする軟な生き物だからそれもありうる。馬鹿なのに変に知識を付けるから、殺し方は沢山知っているのだ。百合は馬鹿では無いだろうが。

 彼女はベッドから起き上がると、バルコニーの方へ向かった。

 僕は柵に腰掛けた。百合がさっとカーテンを開く。

「あれ、来てる」

 百合は僕の方を見つめて言った。何を見ているのだろう。後ろを振り返る。

「どこ見てんの、君の事だよ。柵に座ってる君」

 ……え? 

「ぼ、僕?」

「そう」

 百合はにこりと微笑んだ。くらくらしそうな程可愛い。じゃなくて。

「君はどうして……僕が見えるんだろう?」

「あのね、どうしてとか、なんでとか、そういう質問はあんまりしないで、自分で考えてほしいな」

「ああ、ご、ごめん」

 いやいや、でも見えてたらまずいじゃないか。

「でも、こないだまで見えなかっただろ、僕の事」

「見えてたよ。お話するのは初めてだっけ」

「ええ、そ、そんな事って」

 だって見えてたんなら普通反応位するだろう。僕は大概宙に浮いているのに。

「夜の風って気持ち良いよね。君もあたりに来たんでしょ?」

「ああ、まあ、そんなところかな」

 全然違うんだよ!

「ねえねえ、君ってさ、何か今からしたい事、ありそうだよね」

「したい事?」

「あるでしょう、言ってよ」

「えっと……」

 全く、唐突なんだから。何だろう、僕のしたい事。一番は追放されてしまった天界に戻りたいって事だけれど、そんな事をこの人間の少女に言っても混乱するだけだ。夜風になびく彼女のワンピースの裾を眺め、必死になって考えた。

「百合の願いを叶えたい」

 パニックに陥った末に口にしたのが、これだった。このままではこの百合という女の子が可哀想でならなかったからだ。

「百合? 百合って、ここにいる、この、百合の事?」

 百合は自分を指さして言った。

「そうだよ。何か、願いがあれば、叶えてあげたい」

「面白い事言うねえ。うーん、じゃあ」

 百合は髪の毛を指先で弄りながら、難しい顔をしてしばらく考え込んだ。そして、突然ぱっと顔を輝かせた。

「ひらめいた!」

「言ってごらんよ」

「あんね、えっとね」

 すると百合はいたずらっぽく笑った。

「それを内緒にしたまま、お願い事叶えられる?」

 内緒にしたまま。どんな願いか分からないまま、それを叶えるという訳か。随分無茶だが、なんせ僕は神だ。

「出来るよ」

「ほんと!?」

 百合は目をきらきらさせ、飛び跳ねながらバンザイを何回もした。

「やった、やったー!」

「はいはい、今から早速叶えてあげるから、そこで気をつけ」

「はいっ!」

「願い事を心の中に思い浮かべて」

「はあいっ」

 百合は目を閉じた。僕は彼女を真っすぐに見つめた。そうしないと、彼女の願い事を受けとめる事が出来ない。

 すると百合のワンピースが歪んで、広がって、やがて百合はぼんやりした白い光になった。

 頭に細い糸の様なものが入ってくる。それは脳を直接ぎゅっと縛り、僕の思考を遮ろうとする。僕は必死にそれを解こうとした。これが彼女の願い事だからだ。

 すると何故か、体に汗が滲んだ。胸が苦しい。目の前に闇が広がる。何だ。いつもと違う。

 嫌だ。逃げたい。嫌だ、嫌だ、嫌だ――!

 糸は、プチリと切れた。


『イヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』


 脳内で叫び声がこだました。

 そしてその数秒後、僕の緊張はようやく解けた。視界がだんだんはっきりして、僕の目を覗き込む百合が目の前に現れた。僕は全身汗びっしょりだった。

「大丈夫? これでお願い事、叶った?」

「うん、まあ、多分。それより、どこかから叫び声がしなかった?」

「え? してたかな? ひょっとして……」

「ひょっとして?」

「……やっぱりなんでもない! お願い事は多分叶ったんでしょ? じゃあもうおやすみしようよ!」

「ああ、もう人間でいうところの就寝時刻になったのか」

「え?」

「……やっぱりなんでもない! おやすみ」

「うん、おやすみ!」

 こうして僕はしたり顔でいつも野宿している公園へ帰った。百合の願い事を叶えた時の違和感も、滑り台の下に潜り込んだ時位からもう忘れていた。神にだって忘却というシステムは備わっているし、ましてや僕はまだ未熟なのだからそれは致し方ない事だった。




 でも、今でもたまに、僕はあの時の事を思い出す。そして先の神々に深い懺悔をする。

 つい別の選択肢を選んでいた未来を思い浮かべてしまう。あの時、百合の願いを叶えなかったら。

 そしたら、僕と百合は友達になる事も無くて、それ以降何の関わり合いも無くそれぞれの道を歩んでいけた筈だった。

 それで良かったのだ。なのに――




 翌日、さやかちゃんが死んだ事を知った。

 担任の先生は、さやかちゃんは急に用事が出来て別の幼稚園に行ってしまいました、とバレバレの嘘を吐いた。実際、察しの良い数名の園児達は胡乱気な目をしていた。

 百合がその一人だった。

「さやかちゃん、死んだよ。おかしいなーと思って、職員会議を盗み聞きしちゃったんだ。包丁でグサッ、グサッて誰かに刺されちゃったみたい。可哀想なさやかちゃん!」

「……僕だってこんな事は聞きたくないけど」

「なあに?」

 百合は、昨日と同じ笑顔を見せた。心が痛む。

「君の願い事は」

小夜香さやかを殺して」

 急速に彼女の声の温度が下がった。

「……って事」

「……そう。そんな願い事を」

「うん。七夕でも書かなかったお願い事なんだよ」

 僕はうんざりした気分になった。

「百合、君は最低だ」

「そうかしら」

「君みたいな子に加勢したのは僕の恥だ」

「加勢した? なぁに言ってるの、君が小夜香を殺したんでしょ? 百合はそれを願っただけ」

「五月蝿いな。僕は神だぞ、黙れ、この馬ー鹿」

 僕はもうやけくそになった。

「嫌。百合、静かなのって大嫌い。常にうるさい音で埋めていたいの。でもね、今百合の周りには沈黙ばかりふわふわしてる。だから君が、埋めてくれない?」

「それはつまり、僕にどういう事を要求しているんだ」

「はっきり言わないと分かんない? 神なのに?」

「君の乏しい表現力で抽象的に言われて分かると思うかい」

「百合と友達になって」

 彼女の目から、水滴が零れた。あまりにもいきなりだったので、それが人間の流す涙というものだと認識するのに、少し時間が掛かった。

「百合と一緒にいて。ずっと。お願い。本当に、本当の、お願い……」

 僕にはそれが安っぽい演技としての涙で無い事位、分かる。

「なんで僕なのか、理由を聞いてもいいかい?」

「小夜香達は本当の友達じゃないの。皆のまとめ役だった小夜香がいなくなった今なら、友達だった彼女らとよりを戻す事だって出来るわ。でもね、百合はあの子達が大っ嫌いよ。私は独りで生きていかなきゃいけないの。貴方だって独りなんでしょ? 私と同じ匂いがするもの。だったら、友達でいいでしょ?」

 躍起になってせがむ百合を見て、僕は疑問を抱いた。

 僕は確かに独りだ。でも、百合はまだ沢山の人と楽しく暮らしていける可能性がある。何よりも、百合はあの子達とあんなに仲良しだったじゃないか……何で変わってしまうんだ、そんな些細な事で。本当に殺したい位憎かったのか? 何がこの子達をそうさせてしまったんだ、人間ってのは、どうして――

「……分かった。君と僕は、今日から友達だ。君の心に発生した闇を埋め立ててしまうまで、ずっと」

「ありがとう。大好き」

「僕は君が大っ嫌いだよ」

 昼の日が差すバルコニーで、僕らは後に友達契約と呼ばれる契りを交わした。世界で一番最悪な、友達でいる理由の元に。





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