第41話 勝負というのは、恐怖の中でするものです
朝がきた。
気持ちが、まだ興奮の余韻に浸っている。
寝ているときも、頭の中では、ドル円のボードが上下に動いていた。
そのせいで、ほとんど寝れなかった。
だが、体の芯は熱いままだ。
(昨日は本当に——人生初の大勝負だった)
これで終わりにしたいが——終わりにできない。
1億800万——。
数字としては大きいが、税金でどれほど持っていかれるかわからない。
企業調査の仕事だって軌道に乗る保証はない。
(今ここで、もっと積み上げておくべきだ)
そんな焦りと興奮が入り混じったままリビングへ向かうと、
古谷さんはすでにテーブルの椅子に座り、まるで競馬の騎手のようにスタンバイしていた。
「田中さん。税金も引かれますから、1億くらいでは足らないのはわかっていますね。今日、やるのは先物の全力勝負です。一気に走り抜いて、勝ちを掴みましょう」
「……はい」
寝不足とアドレナリンで胃の奥がキリキリする。
昨日の勝負で慣れたつもりだったが、また違う恐怖がせり上がる。
古谷さんは、いつもの整ったスーツ姿で、妙に理屈っぽい口調に切り替えた。
「昨日の為替勝負は前座です。本番は今日——日経平均先物の戻りを取ります」
「戻りを——取る?」
「はい。地政学ショックの初動で日本株は暴落します。しかしその後、下げ過ぎの訂正と政府筋の介入示唆が入り、ストンと反発する。その反発を——ほぼ丸ごと取りに行くというわけです」
(ほ、ほぼ丸ごと——!)
古谷さんの言葉に、背中がゾワっとした。
真面目な公務員の幽霊だったはずなのに——今は完全に相場師になってる。
***
負ければ終わりの全力勝負。
(こんな熱い勝負——専業のプロトレーダーしかやらないだろ……)
(古谷さんがいなければ、俺ひとりじゃ怖くて絶対ムリだ)
コーヒーカップを持つ手が、かすかに震えている。
止めようとすると、余計に大きく震えた。
勝負前から胃がきゅっと縮んでいた。
(これが日常になったら——胃に穴が開く)
(でも、今日だけは。今日だけは、耐えてみせる)
***
「寄り付きまで、まだ少し時間があります。田中さんの会社の話をしましょう」
唐突に、古谷さんが経営者モードに切り替わった。
「あ、はい」
古谷さんは背筋を伸ばし、いつもの真面目な口調で続ける。
「登記は既に終わっていますね。『合同会社ライトインサイト』という社名、非常に良いと思います」
「そ、そんな褒められるほどでは……」
「いえ。『光を当てる(Light)』『洞察する(Insight)』というのは、企業調査に必要な二つを兼ね備えた名前です。素晴らしいですよ」
「……深く考えずにつけたんですけどね」
「直観は、ときに真理を射ますから」
そう言って古谷さんは微笑んだ。
古谷さんは人差し指を立てた。
「現在の業務内容は、投資と資産運用。これは今の段階では正しい選択です。企業調査と同時に動くと、どうしてもインサイダーの疑いを受けますから」
「じゃあ、今は、投資していても問題ないですね」
「投資業務に全力でいきましょう。ですが、今日の先物勝負が、あなたの投資業務の最後になります」
静かな声だったのに、その一言で胸がドクンと跳ねた。
(今日で——投資納め。想像以上に、区切りが早いな)
全身が、じわりと熱くなる。
(ここを乗り越えれば——本当に企業調査の道に踏み出せる)
深呼吸をひとつして、俺はコーヒーを強く握りしめた。
***
午前8時45分。
東京市場の寄り付きを前に、部屋の空気がみるみる緊張していく。
パソコン画面いっぱいに広がる先物の板——真っ赤な数字が縦に並び、まるで警報灯のように点滅していた。
「田中さん。昨日の軍事行動で、世界のファンドがリスクオフに急転換しました。
寄り付きは——派手に下に飛びますよ」
そう言われても、恐怖は消えない。
気配値は、底の抜けた崖のように赤く沈んでいた。
(うわ——こんな市場に飛び込むのか……)
喉の奥がきゅっと縮んだ。
胃の奥に温度差のある塊が落ちていくような感覚だ。
「これ、本当に反発するんですか——!」
声が、自分でも驚くほど弱かった。
古谷さんは、スーツの襟を直しながら淡々と言う。
「落ちたら上がる。上がり続けるものは落ちる。これは相場の基本原則です。どんな国際情勢でもです」
「でも——」
「私の読みに——ミスはありません」
昨日も言われたセリフなのに、今日は背筋にじわりと響く。
(前に進むしかない)
「あなたの資金は、FXの利益も合わせて約1億800万円。——これを元手に」
そこで声をひとつ落とし、淡々と告げた。
「日経225先物ラージを100枚買います」
「は、100枚も——!?」
その数字を聞いた瞬間、鼓動がひとつ跳ねた。
100枚と口では言えても、意味は途方もなく重い。
100円動いただけで、1,000万円。
1,000円動けば、1億円。
(いやいや、計算するだけで手汗と震えが……)
古谷さんが、わざとらしく首を傾げる。
「怖いですか?」
「こ、怖いに決まってますよ——」
「怖いから儲かるんです」
ゆっくり、当たり前のように言う。
「勝負というのは、恐怖の中でするものです。楽観の中での勝負は——たいてい負けます」
一瞬、意味が掴めなかった。
(勝負って、怖いから正しいって? いや、その理屈——合ってるの……)
でも、古谷さんの表情は本気だった。
まるで自然法則を語る科学者のように。
恐怖を抱えた胸の奥で、なぜか少しだけ火が灯った。
(怖いのは俺だけじゃない——多分、みんな怖いんだ。それでも、踏み込むヤツだけが勝てるのかもしれない)
コーヒーカップを握る手が、まだ震えていた。




