第16話 感情を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり
昼の12時半。
相場が再開されると、A社のチャートが、ピョコーンと跳ね上がった。
(きた——!)
出来高も急増。
+3%、+5%……。
画面が鮮やかな緑に染まっていく。
「順調です。ファンドの買い上がりが本格化しましたね。記事と値動きに釣られて個人も買い始めます。イナゴが、ドーンと群がってきそうです。板の厚みも増えていますね。ファンドが枚数を入れ始めると、こういう動きになるんです」
「え、まだ上がるんですか——! 正直、もう5%で十分なんですけど。これ以上は、怖くて見てられません」
「ファンドの買いは強力なんです。個人とは資金量が違いますから。真面目に見ていれば、彼らの動きは読めます」
「真面目に見続けたら、胃に穴が空きそうですけど」
「株というのは、自分の心との戦いです。耐えた先に、明るい未来が開けるのです」
(そ、そうかもしれないけど——)
***
午後。
課長がまた近寄ってくる。
「田中くん、午後の資料、急ぎでまとめといてくれ。上に出すから」
「え、これ全部ですか?」
「全部って言葉は嫌いだな。気持ち良く仕事しようじゃないか。私は、君に早く仕事を覚えてもらいたくてね。わざと、仕事を振ってあげているんだよ」
(『この、大嘘つき——』って叫びたい。でも、言えない。情けない)
「ところで、田中さん、私と感覚をリンクしてみませんか? 課長がなにやってるか——見たくないですか」
俺は、周りに聞こえないように呟いた。
「すごく気になります。ぜひお願いします」
「今から窓際の課長の後ろに回り込みますね」
(なんですかこれ! Yahooニュースの芸能欄! 女性タレントの水着写真を上げたり下げたり。俺に仕事振っといて、なに見てんだよ——)
「よくも、こんなひとが——課長に」
大声にならないよう気をつけたものの、握りしめた拳だけが、怒りを訴えていた。
「次は、あなたに、しょっちゅう仕事を持ってくるお局さんです」
「お願いします」
「こっちは、韓国ドラマの俳優記事! それが終わったら化粧品の通販サイトですね」
「古谷さん、もういいです。帰りたくなりますから」
視界がデスクのパソコンに戻る。
嫌なもの見てしまった。
カチャ、カチャとキーボードを押しながら、溜息が出る。
現実逃避したくなる。
スマホで株アプリを開いて、幸せ感を味わいたい。
もう——その衝動が止まらない。
頭の中では株価の数字がチカチカ点滅中。
(見たい——。株が上がってたら、その瞬間は幸せな気持ちになれるから)
気づけば、書類と格闘し過ぎで、視界がぼやけてきた。
心拍が早い。冷や汗も出る。
(俺、大丈夫か! このまま幽霊にならないだろうな)
「お、おい、田中くん……大丈夫か?」
(さすがの課長も……眼の前で、俺に死なれたら自分の責任になると思ったか)
「す、すみません、ちょっとトイレ行ってきます……」
トイレの個室で息を整え、スマホを開いた。
A社、+10%。
マイナス20万円だったところからの逆転劇。
プラス20万円。
胸の中が熱くなる。
ドーパミンが、多量に放出されているようだ。
幸福感、満タン!
喉が乾き、手が震える。
心臓はバクバク。
でもうれしいバクバクだ
トイレから出たところで、小早川さんから声をかけられる。
「田中さん、大丈夫ですか? さっき、トイレに行く前、顔、真っ青でしたよ」
「だ、大丈夫です! ちょっと——体調が……」
(小早川さん、心配してくれていたんだ。ありがとう)
「……無理しないでくださいね」
足音が遠ざかっていく。
株価上昇に加えて、心配してもらっていたことで、ますます幸福感が上昇中。
(荒木なんて、もう、どうでもいい)
それにしても、株が上がっていたからいいけど、急落でもしてたら——トイレで倒れていたかも。
仕事の疲れに加えて、株価の上下で心が揺さぶられるのは、かなりきつい。
このストレスの対価が株式投資の儲けなのかもな。
(株式投資——楽じゃないな)
***
帰宅途中でも、スマホの株アプリを何度も確認した。
取引時間は終わっているから、株価が変わるはずはなかった。
それでも開く。
(なんだろ。これ)
株価上昇を確認することで、脳内にドーパミンが放出される——それがほしくて何度も開く、こりゃ中毒だ。
(それほど、今のブラック職場から逃避したい願望が強いということか)
部屋に戻ると、古谷さんが待っていてくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
(幽霊のお帰りなさい——なかなか体験できないな)
株価に一喜一憂。
完全に株価中毒になっていることを古谷さんに打ち明けた。
「田中さん、株の世界では、『初心者あるある』です。特に気にする必要なしです。株は心理戦。自らの心に勝つものだけが生き残れる世界。急に上がった株は、急に下がります。その逆もあります。株とはそういうものです」
「えぇ——そんな不安になること言わないでくださいよ」
「『感情を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり』が株投資の真髄です」
「古谷さん、株に詳しすぎです。趣味でやっていたレベルではないですよね?」
「私もそうかもしれませんね」
古谷さんの顔が少し重い感じになっている。
(古谷さん、これまで、どういう人生を歩んできたんだろう)
***
ベッドに入っても、今夜も頭の中では株価ボードが表示される。
「急に上がった株は、急に下がります」なんて聞かされたから尚更だ。
無意識の独り言が続く。
「A社……明日、急落しないだろうな」
「極楽から、急落で地獄なんて耐えられるかな」
「『感情を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり』なんて、難しすぎるぞ」
黙って聞いていた古谷さんが、静かに口を開いた。
「難しいからこそ、一握りの勝者と、大勢の敗者が生まれるのです」
「なんですか、それ。余計に怖くなりましたからね——」
(幽霊と投資談義して笑う俺、ほんとに大丈夫か)




