第17話
あれほど騒がしかった侯爵邸は、いまや耳を塞いだかのような静寂に包まれていた。
8日前の貴族派閥の決起するための夜会は急遽中止となり、翌日には貴族派閥は全て即時王都を出た。それを確認し終えた父プレイドたちは6日前に領地へと発ち、使用人たちも各地へ分散し避難させた。
そして、広大な屋敷に残っているのは、白銀の髪をなびかせる少女エリスと、その魂に寄り添うアスレンだけだった。
沈みゆく夕日が、誰もいない廊下に長い影を落とす。
エリスは一人、慣れた手つきで調理場に立っていた。
「……ふふ、お母様たちにも見せてあげたいわ、私の包丁捌きを。でも、前世の記憶が戻ってから久方ぶりに包丁を握っても身体が…いいえ、魂が覚えているものね」
エリスは鼻歌を歌いながら、野菜を刻んでいく。トントン、という規則正しい音が静かな屋敷に響く。
前世――早くに家族を失い、当たり前のように料理を作っていた記憶。その孤独だった日常の欠片が、今の彼女にとっては懐かしい思い出だった。
あの孤独があったからこそ、アスレンとも出会えた。そうして、二人の生活が始まった。語り尽くせぬ、幸せだった日々。彼が美味しいと、言って微笑んでくれた。あの時の喜びを思い出すと、胸が熱くなる。
(エリシーラ、あまり無理をするな)
脳裏に響くアスレンの声に、エリスはクスクスと笑った。いつもあなたは、こうして、私を心配してくれる。
「大丈夫よ、アスレン。いつかあなたにも、あの時のように、この『味』を伝えてあげたいから」
エリスが作っていたのは、前世でよく作った具だくさんのポトフと、黄金色に輝くオムレツだった。
完成した料理を無人の食堂へ運び、椅子に座る。
そうして、手を組み神に祈りを捧げた。
一口運ぶ。温かなスープが、憎悪に震えていた胃を優しく温める。この屋敷で過ごした二人だけの時間は、前世の幸せだった束の間のひと時を、思い出させてくれる。
アスレンに…実体があったらなぁと…想像するだけで胸がドキドキと高鳴った。オムレツを『あーん』とかできたらと…想像するだけで、幸せが胸を満たした。
しかし、エリスが幸せに胸を満たしていた、心穏やかな時間は、唐突に「異物」の侵入によって引き裂かれた。
――ピチャリ。
天井から、一滴の黒い液体が床に点々と落ちた。
(エリシーラ、敵だ)
(ええ、そのようね。本当に無粋な方達ね)
それは水ではない。どろりとした、悪意の凝縮体のような「影」だった。
「……あら。お客様にしては、少々行儀がよろしくありませんわね」と、静かに顔を上げた。
食堂の隅、影の中から、音もなく数人の男たちが這い出してきた。彼らは重厚な鎧を着た騎士ではない。全身を漆黒の布で覆い、気配を完全に遮断した、軍務局の「暗部部隊」の精鋭たちだった。
「エルヴァン侯爵令嬢エリス。……いや、白銀の化け物と言うべきか」
暗部の一人が、擦り切れたような声で嘲笑った。
「貴族派の奴らが全員王都から雲隠れしたせいで、随分予定が変わったが、白銀の化け物ただ一人だとはな。クックク…、貴族派に見限られて、生贄にでもされたのか」
彼らは嘲笑いながら、武器を構える代わりに、奇妙な呪符を取り出した。
「貴様の性格と力は調査済みだ。騎士団を滅ぼした圧倒的な力……だが、お前がいくら化け物じみた力を持とうとも、人の心を持つ限り、それがお前の弱点だ」
男が呪符を床に叩きつけると、屋敷の空間がぐにゃりと歪んだ。
「貴様の家族を人質に取れと言われたが、その必要すらないだろう。クックク…、お前を捕らえさせてもらうぞ!」
食堂の壁が消え、エリスの視界に「地獄」が広がる。そこには、彼女が少し前に、消した騎士たちの無惨な姿と同じ状態の父や母、キルム、シャーリー、使用人達、そこには愛する家族達の姿があった。
──痛い…苦しい…助けて…エリス…
──なぜ……助けなかった…エリス…
──お、お嬢…様…た、たす、け…て
焼かれ、四肢を欠損した家族たちが、エリスの足を掴もうと地面から這い寄ってくる。これは幻覚術だ。だが、対象の良心に直接訴えかけ、精神を崩壊させる最悪の禁術でもあった……。
「……これが、貴方たちのやり方なのですか……」
こめかみの血管が微かに脈打ち、手にしていたスプーンが指の力だけでひしゃげ、エリスの瞳から、光が消える。
彼女の傍らに寄り添うアスレンが、深淵の底で冷たく笑った。
(エリシーラ。偽物の亡霊ごときに、お前の食卓を汚させない。行くぞ同調)
「ええ、そうね。アスレン――彼らに教えてあげましょうか。本物の『地獄』が、どんなものかを」
エリスがゆっくりと目を閉じた。
次の瞬間、屋敷全体の気温が氷点下まで急降下した。暗部たちが放っていた幻覚の家族の亡霊たちが霧散していく。
「な、なんだ……!? 術が……術が食い破られていく……!」
エリスが開いた瞳は、もはや少女のものではなかった。冷徹な白銀の輝き。それは、あらゆる生命を等しく「死」へと導く死神の眼差し。
「……人の心を利用する策、既に想定済みよ。でも、私の家族の幻影を見せたのは、失敗だったわね……。一人も逃さない、苦しみながらこの世から消してあげる…」
漆黒のオーラが禍々しい冷気を伴って立ち昇り、邸宅の敷地全体を一瞬の内に呑み込み、半球状の異界を創り出した。そして、エリスが右手を軽く振り上げた。
その動作一つで、食堂の床が「影」へと変貌し、冥府の蓋が静かに開かれたのだ。
──グゥクルシイ呪ゥァウラメシイゥ怨ゥァッ──
暗闇の底から、無数の青白い手が伸びる。それは、暗部たちが今まで手に掛けてきた犠牲者たちの怨念であり、冥府に住まう本物のレイスたちだった。
「ひ、ひっ……離せ! なんだこれは、か、影が離さない!や、やめろぉ!は、離れろ!」
暗部の精鋭たちが、パニックに陥り影を斬りつける。だが、影に刃は通らない。冷たいレイスの手が、彼らの足首、腰、そして首筋に絡みつく。
「ぁ──、グチャッ グチュッ……」
「貴方たちが操ろうとした亡霊は偽物です。 ……この子達は冥府から呼び出した本物よ、貴方たちの醜い魂の味を知りたがっているようね。さあ、存分に味わいなさい」
「ひっ、ひぎゃぁぁあ!!痛っ!くっ喰うなぁ!?ギィャヤァァァアアア!!!」
レイスたちが、暗部の男たちの耳元で囁く。その絶叫に近い「囁き」を聞いた瞬間、男たちの一人の目が白濁し、口から泡を吹いて崩れ落ちた。精神が、冥府の波動に耐えられず崩壊したのだ。
「ま、待ってく、れ…た、 頼む!? 嫌だ!嫌だ!こんな死に方は嫌だ!助け――」
一人の男が扉へ向かって這いずろうとしたが、背後から現れた巨大な怨霊が、その体を軽々と持ち上げた。
「た、頼む!?や、止めてくれ!!行きたくない!ひッ!グッワァァアア──」
男の体は、生身のまま影の中へと引きずり込まれていく。
──ピシッ、パキィィッ……! 鎧ごと凍りついた肉体が、影の底で無残に砕け散る音が響いた。
「あとの掃除は、冥府の住人に任せますわ」
暗部達の絶叫と雄叫びが鳴り響く邸宅…
エリスは興味を失ったように、手を下ろした。
わずか数分───。
邸宅に忍び込んだ暗部の精鋭たちは、死体一つ残さず、影の底へと消えていった。
屋敷に再び静寂が戻る。
エリスは深呼吸をし、椅子から立ち上がり、乱れたドレスの裾を整えると、代わりのスプーンを取りに調理場へ向かい、再び席についた。
目の前には、まだ湯気を上げているポトフがある。
「……少し、冷めてしまいましたわね」
彼女は小さな火の魔法でスープを温め直すと、最後の一口までゆっくりと味わった。
「ごちそうさまでした。……さて、アスレン。明日の朝ですが、私の我儘を聞いて下さいますか?」
(ああ、お前の我儘は可愛いものだ)
「本当に、嬉しいわ!お願い事ですが、髪を梳いて欲しいの…」
(……………あぁ……努力してみる)
窓から見える王城を、エリスは静かに見据えた。
彼女の白銀の瞳には、もはや迷いはない。
彼女を化け物と呼び、抹殺しようとする世界。
ならば、その世界ごと、徹底的に復讐してしまえばいいと…暗い澱んだ想いが心を満たす。
侯爵邸に灯る唯一の明かりは、闇夜の中で、まるで新たな世界の終わりを告げる焔のように、静かに、そして力強く揺らめいていた。
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