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 それが僕が望月健に思い出せる全てだった。その後、望月に会った事は一度もない。

 

 僕の大学生活はその後、望月の言うような青臭い路線を辿っていった…。だがそんな平凡な話はどうだっていいだろう。思い出す…僕はあの後、望月がレイプした事件が表に出ないか、ネットニュースや新聞に出ないか気をつけて見ていた。だがそんなニュースは一つもなかった。かえって後から望月の良い噂を聞かされた。

 

 「望月君、自分の会社起こしたみたいだよ。結構儲けてるみたい。御曹司って凄いね」

 

 望月と話してから一ヶ月後くらい経った頃、サークルの子からそう言われた。僕は曖昧に微笑しただけだった。僕は、望月健という人間の言った事が本当か嘘か自分でもよくわからなくなっていた。やがて、学校に来ない望月の話はあまりされなくなり、また僕の記憶からも一時的に彼は消えてしまった。

 

 経営者兼タレントとしての姿を見たのは一年ほど前だった。彼の姿をテレビで始めて見た時、あの冷笑と僕への軽蔑、それから吐いた汚泥のような言葉が蘇ったが、画面の中の彼はに終始こやかな微笑を顔に貼り付けていた。それは彼の世界に対する分厚い装甲だったのかもしれない。僕はただ眉をしかめた。

 

 妻は、望月健というタレントに好感を持っていた。僕は妻に同じ大学だったとは言ったが、望月が語った内容は話さなかった。話せる内容でもなかったし…。妻は望月に対して良いイメージを抱いていて、それを汚すに忍びないと感じていた。いや、それはただの逃げだったかもしれないが。

 

 …とにかく、僕は望月健という人間が嫌いだった。いや、嫌いというだけではない。もし彼が言っていた事を全部実際にしていたとしたら?…僕はそういう、都市の裏側で公然と暴力が行われており、それに対して無力であり、何もできない自分を受け入れたくなかった。…いや、僕だってあの話を聞いて何も行動を起こさなかった、という事は、僕もその加担者だという事ではないのか? …僕はそんな自問自答から逃れたいが為に、ただ彼の事を自分の嫌悪感の中に押し込めていたのだった…。

 

 そんな事をつらつらとソファの上で考えていた。頭の中では、画面の中で笑っている望月と、灰皿にタバコを押し付ける虚無の表情の望月が交差していた。どっちが本当の「彼」なのか…。それともどっちも本当の「彼」なのか…。その時、ドアが開いて、妻が顔を出した。

 

 「あら、まだそこにいたの」

 

 妻は僕を見て言った。僕は顔を上げた。妻の表情はごく普通の、あどけないものだった。

 

 「どうしたの? 何か考え事?」

 

 妻は普通の調子で言った。僕は、望月が僕に語った事を話そうか、一瞬迷ったが、首を横に振った。やめておこう。

 

 「いや、なんでもない。なんでもないよ」

 

 「そう。…もうお風呂行ったら。明日も早いんじゃない?」

 

 「…そうしよう」

 

 僕は着替えを取り出し、風呂場に向かった。心の中にもやもやが残っていた。

 

 風呂に入り、湯に浸かり、ほっとため息をつく。これから先も望月健は人気者であり続けるだろうか? どうだろうか? その内に、彼の暗部が明るみに出るだろうか? 僕は妻にどうして話さなかったのだろうか? 言い訳はいくらでもできるだろう。彼女の心を汚したくなかった、とか。夢? 夢を汚すのは良くない? …だが、あれは現実だったのだろうか。あの、部室で彼が語った時の能面のような表情。本当に、実際に彼はそういう事をやったのだろうし、やると決めたらやると感じさせたあの目…。

 

 僕は何もかもを忘れたくて、湯の中に頭まで潜り込んだ。そうやって僕はあらゆる事から逃げてきたのだ。これから先も逃げ続けるだろう。だが僕もいつか、歴史が忘れてきた暗部に襲われ、自分自身も喰われてしまうに違いない。そんな気がした。僕もいつかは殺す側か殺される側にまわるだろう。そうなったら、こんな日常生活はもう営めないのだ…。ギュッと目を閉じたその先、暗闇の中ではまだ大学生の望月がカラカラと笑っていて、彼の目は窪んで骸骨のようだった。だが僕はそれが幻なのか現実なのか、判断できる自信がなかった。

 

 僕は水中でパッと目を開けた。するとお湯で濁った空間が目の前に開け、こんな風に、曇天のような、うすぼんやり淀んだものがこの世界そのものなのだ、という気がした。やがて、目が痛くなってきて、息も苦しくなってきたので水中から出た。水中から出ても、湯気でぼんやりした光に包まれていた。僕はそこが一瞬、どこかわからなくなった。もしかしたら、風呂桶の底はあの大学の部室に通じているのではないだろうか。健全な日常が、血と暴力の世界と滑らかに繋がっているように。その時、僕はそんな気がした。…なんだかそんな気がした。


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