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風鈴の音は聞こえない  作者: あおい・ろく
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ようやくイサオと連絡が取れたのは初夏を迎えた風薫る五月のことだった。鷹ヶ峰を望む大徳寺の北にあるしょうざんのホテルだった。

日焼けしたイサオは髭を長く伸ばし荒くれたスポーツシャツを無雑作に着こなして広いロビーのラウンジのソファにふんぞり返っていた。

「一週間前に帰ってきた」

「長かったな」

「灼熱と密教蜜曼荼羅の洗脳にとっぷり漬かってきた感じや」

「収穫はあったの?」

「まあそのうち出てくるやろ」

 深くゆったりと全身に漂うその満足げな表情がイサオの眼のなかに生きていた。昼下がりの静閑な空気がロビーを覆っていた。頭上の吹き抜けの天窓から淡い初夏の陽射しが降り注ぎイサオの放浪し終えた髭面を陰陽に照らしつづけた。

「何やその密教蜜曼荼羅っていうのは」

「密教や。チベット仏教の一派や」

「修行でもしてきたのか?」

「あほいえ、絵画や」

「やっばし現地へ行って実際にその空気に触れなあかんなあ」

 ふたりは久しぶりに乾杯した。

広いロビーから丹精に刈り込められた庭園が覗いていた。一部はまるで落ち着き払った枯山水の形状を僅かにとどめるかのようないかにもうわべだけの細工に見えた。それが心憎い演出としてミエミエの感じがした。

「また次に何かやるのか?」

「煮詰まったらな」

 蜜曼荼羅の世界が今度はイサオを捉えていた。眼を見ると分かる。彼はまたしばらくその原石を静かに眠らせるつもりでいるのであろう。前衛感覚が再び芽吹くまではいつもの彼のやり方なのだ。

 ロビーのラウンジに心なしかお香の流れる気配が漂っていた。まるで人気のない幽寂な空間に忍び寄るように浮遊してきた。

「すぐそこで展示場が隣接されているんや。ええ香りがしてくるなあ」

 イサオはラウンジの入り口近くにあった展示場を指した。

 耳を凝らすと上品ぶった喚声とも溜息とも似つかない派手さだけを売り物にするかのような人の声が洩れていた。それにはただ甲高く響く虚飾だけで豊かさがなかった。「春駒」の珠が何十人もいてそこでしゃべっているのかとさえ連想できるくらいである。

 このけだるいロビーのラウンジを包む正体がイサオに告げたいとする花街のすべてを凝縮していた。外の庭園にも企画されているその香道の展示にしてもどこかに格式を単に繋ぎ合わせただけの(にわか)仕立ての小細工が尻尾を見せていた。わざとらしい貧弱な演出が拓馬の根幹を揺るがすのである。

「ところでどないや窮屈そうな世界は」

「実はもうそろそろ潮時かなと思てんねん」

「やっぱりなあ」

 イサオは苦みばしった口元を締めながら天井を仰いだ。

「お前の言っていた岩本商会の社長が現われよった」

「そやろ。あいつは金をなんぼでも持っているよってな」

 とそのとき、背後に騒々しい人影が入ってくるのが見えた。本題に入る直前になっていきなり着物姿の一団がラウンジに潜入してきたのである。

貴婦人らしき団体は賑やかに囃し立てながらある一角の席を陣取ると忽ち飲み物を注文しそれから凄まじい勢いで喋り始めた。

「まあ聞いておくれやす。その庵とかで出す料理が何とゆで卵ひとつ出てきただけで一万円でっせえ」

「それが京懐石の伝統あるお店ちゅうことですがな」

「そんなもんでっしゃろか。店も天井は低うて暗うて何か汚らしいとこでしたえ」

「何にも知らはらへんのどすなあ。それが三百年の歴史あるお茶室で召し上がる料理というもんどすがな」

 容赦なく彼女らの虚栄に満ちた会話が耳をつく。イサオは眉ひとつ動かさず言葉をつないでいた。

「彼は何でも結局金で動く世界を崇拝している男や」

「なるほどな」

「豪勢なもんや。彼には老舗という格式の床几があるからな。その上に腰をおろしておればええんや」

「格式の床几…か」

 拓馬は重い不動の床几を想像した。三百年の歴史に嬌声を上げる貴婦人たちの上っ面がそれに重なった。更に彼女たちの会話はほざきつづけた。

「高価な着物着てごっついダイヤモンドの指輪したはるねん」

「うわあ、もの知らはらへんお人やなあ。普通はきものを着たときは指輪も時計も全部外さはるわねえ」

「それとなんとかさんの嫁さん、何十万もする西陣の帯締めて。家の格からいうてこれくらいの帯絞めてもらわないかんゆうて」

「そやけどなんぼお金があるいうてもなあ、身の丈の合わないことすると不細工やわ。まだ二十代だっしゃろ」

無気力に沈むより立ち向かう怒りが胸のうちで固まりつつあった。自分の魂は組織や古いしがらみの世界に身をおくことではなく常にそこから飛び出していく習性が再びもたげてくるのを感じた。自分が掴み取ったと思われた男衆の道は皮相の概念であったかのようにその彼女たちの声高な哄笑は乾いた天窓のガラスを響かせていた。

 イサオはいっさいの喧騒を無視して黙ってビールを飲んだ。拓馬はただ繰返される習性を今度こそ新たな活路として掴みたかった。天窓の彼方にハーレーのエンジンの響きが目覚めてくるような景色が広がっていた。

「曼荼羅の絵図には人間の本質の奥深い謎が隠されている。人間の心の奥に存在している得体の知れないものや」

 イサオのつぶやきがぼそっと漏れた。案の定彼の眼に次回に賭ける企画の構想の芽が吹きかけていた。

「今度は曼荼羅の個展や。どや?手伝えへんか?」

 顔を上げてイサオは拓馬に呼びかけた。

「いや。やめておく」

「なんでや」

「気晴らしに旅に出る」

拓馬は自分の心に新鮮な空気を入れ替えたいと思った。


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