表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風鈴の音は聞こえない  作者: あおい・ろく
18/23

(18)

(18)


千秋は祗園甲部で「駒千代」と名乗り界隈屈指の舞妓に成長していた。女将の珠もそのことを誇りにし尚更最低でも年季の切れるまでは手元において置きたかったし大事に育てる覚悟もしていた。そのため界隈のお茶屋や贔屓筋の旦那衆に対する気遣いも当然並大抵ではなくその培われた饒舌は時折着付師拓馬の耳を凝縮させることもあった。

 八坂の杜の青葉が過ぎるとはや梅雨の時期を迎え再び祗園囃子の準備の季節がやって来ていた。拓馬はいつものように「春駒」の数人の芸妓の着付けを仕上げ薄曇りの夕刻の路地を今夜は西洞院の仏具屋へ女将から預かった用事を伝えるため玄関を出るつもりでいた。

「群青はんちょっと時間おすか?」

 帰り際になって女将の珠から突然声をかけられた。

「いや別に。これから光臨さんへ行こうと思っていたところですが」

「ああ、光臨さんはいつでもええわ」

「はあ」

「ちょっと相談に乗って欲しんやけど」

 女将は神妙な眼つきをしていた。

 直感で売れっ子の駒千代の話だと思った。千秋は最近ある旦那にすごく気に入られて毎晩のように同じ人物と思われるお座敷に呼ばれているらしかった。そのお茶屋の女将から珠に何か情報が入ったに違いない。果たして読んだとおり珠の口からは次のようにその情報のことが語られたのである。

「駒千代のことなんやけど、あのコにえらい気イ入れてはるお(ひと)がいるらしくちょっと厄介なことになりそうな話でおしてな、それが昔じゃあるまいしそのお人が言いはるには駒千代を水揚げしたいとまで相談を持ちかけられているとかで武蔵の姐さんもほとゝ困っておいやしてなあ」

拓馬はまるで「春駒」の番頭としてその相談を受けている感じがした。珠としては拓馬を「春駒」の舞妓や芸妓の男親として見立てているようだ。

「群青さんやったらこの話どう思いはります?」

「駒千代さん次第やないですか」

「まあ、あんはんえらいことお言いやすなあ」

「だってそういうことは本人の意志を聞かなくてはならないでしょう」

「それは表向きの考えです。界隈のこともよお考えておくれやっしゃあ」

 明らかに珠の眼つきが穏やかではなかった。

「この世界ではコたちの親は私どす。周囲のお方はんはみんなどんなしつけをしているかを見てはります」

女将の言いたいことはとっくに読めていた。置屋としての「春駒」が何よりも優先しておりこの場合駒千代自身の選択は許されないというのだろう。固くて古い世間体がのしかかっていた。

「コの評判は親の評判どす。親の評判はこの春駒のなりを世間さまに表すことになるのどすえ」

珠の言葉には不文律ような確信で覆われていた。周囲の眼があるのは当然であった。しかし拓馬にとってみれば個人の意志が歴史に従うことに大いなる反発を感じざるを得なかった。強い閉鎖的な社会を思うと同時に珠の「春駒」の伝統を守ろうとする強い自我が拓馬の心に突き刺さった。それは反発することすら容易にできない大きな壁のように思えた。

「こんなことあんたに言うてもしょうおまへんのどすけど」

珠はそれっきり黙ってしまった。

西洞院の仏具屋「光臨」に着いたとき夕闇の空から雨が落ち始めた。珠はいつでもいいと言っていたが拓馬は「春駒」を出てから帰路の途中その「光臨」へ寄った。珠は先祖から飾ってある奥の間の「春駒」の仏壇の金箔の部分が一部剥げたのを前々から気にしていたのである。  

「それでしたら確かに百年ほど前にうちが納めさせてもうた仏壇に間違いありません。百年くらいでそんなことになるわけおまへんのやけど。分かりました一度見せてもらいに伺います」

 店の主人は内容を告げるとすぐに丁重に返答した。

 仏具店を出て雨に濡れながら拓馬は京全体に繋がっている長い信頼の糸のようなものを強烈に思わされた。それは今回の仏壇の件以外でも同じような話を聞いたことがあった。それは拓馬が「春駒」で修業をし始めていたころ珠は自分の持っていた亡き祖母の舞扇が破れたことがあった。そこで珠は祖母が生前付き合いのあったある老舗の扇屋さんにその舞扇を持っていった。そのとき扇屋の主人は、

「もう百年以上も経っとりますが確かにうちのもんですわ。大事に使うてもうてありがとうございます。破れたところは綺麗に直させてもらいます。お代は結構です。こんだけ大事に使うてもうてありがとうございます」

 と答えたという。

守りつづけているものが濡れる拓馬の足元で光っていた。それは強固に結ばれている一本の糸のように見えた。それが伝統といえた。驚くべき信頼が通っているように思えた。しかし拓馬にはどうしても納得のできない裏側があるような気がしてならない。果たしてそれは本当に虚飾のない繋がりなのか。一方で伝統という無形の盾が驕りの幅を利かせているのではないだろうか。

小雨に煙った西洞院通りの彼方が不気味に見えた。今日知らされた出来事がしきりに拓馬の心を揺らしつづけた。困惑した舞妓姿の千秋の表情が何度も浮かんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ