(12)
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その茶房は参道が東大路通りに突き当たる手前の路地を少し入ったところにあった。「音羽」という古風な建物の和風喫茶で天井を太い一本の梁が貫いていた。理香と昔ここでお茶を飲んだことがあった。まだ拓馬が学生の頃だったから既に五年は経っていた。
「懐かしいね」
「うむ」
この店の持つ独特の光量がまるでふたりを迎えているかに見えた。小窓から射す低調な陽とくすんだ中央の灯りと天井の空間を支配する梁の黒光りとが見事に調和して店全体を包んでいた。
「イサオさんはどうしているの?夏が終わったら新しい個展を始めるって言っていたけど」
「あのビル追い出されたんだよ」
拓馬も同時に追い出されたことになるのだが理香はまだイサオと一緒に行動していると思っている。
「でも違う場所でやるんでしょ?天童くんが言ってたわよ」
「俺は解雇だよ」
天童と聞いてあの異端児のことを思い出した。机上で計算された数値だけを頼りに構築する彼の理論にはとてもついていけない印象があった。
「天童広太郎とは会うの?」
「このあいだチラッと会っただけ」
「で、個展の進み具合は何て言っていた?」
「さあ、詳しくは聞かなかったけど」
しばらく沈黙がつづいたが理香は珈琲を一口飲んだあと降りしきる小窓に眼をやって話題を変えた。
「水って感情が伝わるの。知ってた?」
といきなり自分の研究していることを語り始めた。
「このあいだ研究の一部が完成して今度のスイスの学会で発表するのだけど、試験管に水を入れてね、一週間同じ言葉をその水に語りつづけるの。比較するために相反する言葉に分けて実験しそれをマイナス五度に凍らせた固体の結晶を顕微鏡で見るの」
拓馬は耳を傾けていた。彼女の白衣姿が眼に浮かぶようだ。
「ありがとうって感謝の言葉をかけた水の結晶は美しく輝いた形状になっているの。ところが馬鹿やろうって罵った言葉をかけられた水の結晶には輝きはなく形の整わない醜い形状となっているのよ」
彼女は熱っぽくその自然の驚異を説いた。
「不思議なことと思わない?」
「うむ。まあな」
「水に感情が伝わることが証明されたのよ」
「そうだね」
拓馬は連れない返事をした。
「素晴らしいわ。科学では解析できないことよ」
彼女は瞳を輝かせていた。
拓馬は小窓に降る雨を眺めながら自分自身の秘宝について語るべきかどうか迷っていた。置屋で聞いた男衆の操る帯締めの音のことだった。それは形象のない事象ではあったが感覚の伴う衝動を与えたのである。
雨の滴が窓に広がって幾筋にも垂れていきそのたびに静かに押し寄せてくる決断の影が見え隠れした。
「今は何しているの?」
「何もしてないさ」
「仕事を探していないの?」
「探してるさ」
水の研究の話はそれっきり途絶えたかにみえた。
「実は花街で仕事をしてみたいと思っているんだ」
「花街?」
拓馬の告白に理香は眼を丸くした。
「男衆の仕事さ」
「なに?、その男衆の仕事って」
「着付けさ、舞妓さんとか芸妓さんとかの」
「へえーそんなのがあるの」
彼女は半ば呆れ返って拓馬の話に耳を傾けた。
「でもそんな仕事ってすぐに出来るの?」
「着付師としての技さえ取得すれば出来ないことはない」
「またどうしてそんな仕事をやりたいの?」
「微妙に惹かれるものを持っているからさ」
「ふーん。そんなものなの」
理香は信じられないとでも言いたげな表情をした。
拓馬は言い終わってグラスに残っていた水を一気に飲み干した。爽やかに響く躍動が喉を伝わってきていた。
やがてホテル街の空き地に置いたままの雨に濡れたハーレーの姿が眼に浮かんだ。




