第54話 帰ってきた角兎
獣道は。
道と呼ぶには。
狭すぎた。
低い枝。
絡まる蔓。
濡れた落ち葉。
人間が歩くための場所ではない。
「少し揺れます」
ミミルが。
携帯ゆりかごを片手で支えた。
俺は。
一度震える。
ぶる。
はい。
角のある兎は。
少し先を走っていた。
速い。
けれど。
俺たちを置いてはいかない。
曲がり角ごとに止まり。
こちらを見る。
来ていることを確かめてから。
また走る。
どう考えても。
俺たちを案内している。
問題は。
どこへ。
何のために。
だ。
道の両側には。
小さな足跡が続いていた。
三本指。
丸い肉球。
何かを引きずった跡。
どれも。
俺よりは生き物らしい。
少なくとも。
足がある。
羨ましい。
いや。
今はそれどころではない。
俺の中の魔力が。
また揺れた。
角のある兎が。
耳を立てる。
こちらを。
振り返る。
やっぱりだ。
こいつは。
俺の魔力に反応している。
だが。
それが何なのか。
俺には分からない。
敵意か。
食欲か。
もっと別の何かか。
兎は草を食う。
たぶん。
角のある兎も。
草を食うはずだ。
でも。
魔物だ。
ひび割れ卵が。
普通の卵と同じ扱いを受けないように。
角のある兎が。
普通の兎と同じとは限らない。
卵を食う兎。
いないとは。
言い切れない。
角で殻を割り。
中身を。
やめよう。
想像すると。
怖くなる。
俺は。
ゆりかごの底へ沈むように。
動きを止めた。
角のある兎が。
戻ってきた。
近い。
鼻が。
ひくひく動いている。
俺の殻を嗅ぐ。
やはり。
食う気か。
俺は。
殻の内側へ魔力を集めた。
まだ少ない。
以前の俺が。
どれだけのことをできたのかは知らない。
今の俺にできるのは。
少し漏らすことと。
少し揺らすことくらいだ。
それでも。
突かれたら抵抗する。
角が近づく。
俺は。
魔力を尖らせた。
兎の耳が。
ぴたりと止まった。
次の瞬間。
そいつは。
ころんと横へ倒れた。
腹を見せた。
…………。
何をしている。
俺は。
攻撃するつもりだった。
こいつは。
寝転がった。
意味が分からない。
「怖がらせたくない、のでしょうか」
ミミルが。
しゃがみ込んだ。
「敵ではないと、伝えているように見えます」
そうなのか。
兎の礼儀は。
難しい。
俺が魔力を緩めると。
角のある兎は起き上がった。
そのまま。
鼻先をゆりかごの縁へ乗せる。
近い。
ものすごく近い。
だが。
角は俺から外されていた。
俺の中で。
魔力が一度。
小さく波打った。
兎の前足が。
土を一度叩いた。
とん。
俺は。
もう一度。
魔力を揺らした。
とん。
兎の足が動く。
偶然か。
もう一度。
とん。
返ってきた。
何だ。
こいつ。
俺を。
知っているのか。
胸の奥に。
何かが引っかかった。
白い毛。
小さな角。
草の匂い。
そこまでだった。
その先には。
何もない。
思い出そうとすると。
殻の内側に。
空洞だけが広がる。
知らない。
俺は。
こいつを知らない。
なのに。
こいつは。
ずっと前から俺を知っているような顔で。
俺の隣にいた。
「以前、会っていたのでしょうか」
ミミルの声が。
慎重に落ちてくる。
俺は。
震えなかった。
はいでも。
いいえでもない。
分からない。
今の合図には。
分からないがない。
ミミルは。
俺を急かさなかった。
「では、今から知りましょう」
角のある兎を見る。
「私たちは、追われています。あなたがどこへ連れていくのかも、まだ分かりません」
兎の耳が。
片方だけ傾いた。
「それでも、一緒に来てくれるのですか」
兎は。
俺の横から離れなかった。
答えにしては。
十分だった。
今から。
知る。
ミミルと。
そうしたように。
なくしたものを。
なくしたまま。
もう一度。
俺は。
小さく魔力を揺らした。
とん。
兎が。
前足を鳴らした。
これが。
新しい合図なのかもしれない。
そのとき。
森の音が。
消えた。
虫の声が止まる。
葉擦れが止まる。
角のある兎の耳が。
後ろへ倒れた。
低い唸り声が。
茂みの奥から響く。
「エッグ」
ミミルの手が。
ゆりかごを抱え込んだ。
茂みが割れた。
黒い獣が出てくる。
狼に似ていた。
だが。
前脚が長い。
口が。
大きすぎる。
垂れた唾液が。
草を黒く焦がした。
一頭。
その後ろに。
もう一頭。
こいつらの道だったのか。
違う。
足跡は。
もっと小さかった。
弱い魔物たちが通った跡を。
こいつらが。
追ってきた。
「下がって」
ミミルが。
薬瓶へ手を伸ばす。
角のある兎は。
逃げなかった。
俺たちの前へ出る。
無理だ。
大きさが違う。
角があっても。
あの牙には勝てない。
黒い獣が。
身を低くした。
飛びかかる。
俺は。
声を出せない。
兎を呼べない。
逃げろと。
言えない。
足を鳴らす余裕もない。
だから。
魔力を揺らした。
ほんの少し。
兎に向けて。
横へ。
逃げろ。
そう思った。
それだけだった。
角のある兎が。
跳んだ。
俺が考えたのと。
同じ方向へ。
黒い牙が。
空を噛む。
兎は倒木を蹴り。
さらに横へ跳んだ。
追った獣の身体が。
大きく向きを変える。
その脇腹へ。
ミミルが瓶を投げた。
割れる。
白い煙が噴き出した。
獣が。
悲鳴を上げる。
もう一頭が飛び出す。
近い。
ミミルは。
次の瓶を取れない。
俺は。
魔力を。
今度は奥へ揺らした。
離れろ。
森の奥へ。
角のある兎は。
俺を見ていなかった。
それでも。
すぐに走った。
獣の前を横切り。
奥へ。
二頭目の視線が。
兎を追う。
俺たちから。
外れる。
「今です」
ミミルが走った。
枝が殻の上を流れる。
ゆりかごが揺れる。
背後で。
獣の唸り声が遠ざかる。
兎が。
別の茂みから飛び出した。
追いついてくる。
無事だ。
角も。
耳も。
四本の脚もある。
よかった。
俺の魔力が。
勝手にほどけた。
角のある兎が。
足を速める。
俺の隣へ並ぶ。
とん。
走りながら。
前足が地面を叩いた。
俺も。
魔力を一度揺らした。
分かってくれた。
言葉も。
決めた合図も。
なかったのに。
俺が逃げろと思った方向へ。
こいつは逃げた。
ミミルは。
しばらく走り続けた。
獣の声が聞こえなくなってから。
大きな木の根元で止まる。
息を切らしながら。
俺を確かめる。
次に。
角のある兎を見る。
「どうして……」
兎は。
平然と草を噛んでいた。
緊張感がない。
俺は。
ゆりかごの中から。
そいつへ魔力を伸ばす。
ほんの少し。
兎の耳が。
すぐにこちらへ向いた。
ミミルの目が。
細くなる。
「合図ではありませんでした」
呟く。
「振動も、音もなかった」
俺を見る。
「魔力そのものを、感じている?」
俺には。
分からない。
けれど。
あの瞬間。
兎は迷わなかった。
俺の魔力が。
兎の鼓動へ触れ。
兎の魔力が。
俺のひびへ返ってきた。
同じ水面に。
二つの波紋が重なったように。
「共鳴……」
ミミルが。
紙束を取り出しかける。
そして。
やめた。
先に。
俺たちの前へしゃがむ。
「記録する前に、確認します」
俺と。
角のある兎を。
交互に見た。
「あなたたちは、言葉より先に、分かるのですね」
言葉より先に。
俺は。
角のある兎を見る。
知らない相手だった。
俺にとっては。
今朝。
初めて会った相手だ。
それでも。
今は。
逃げてほしいと思った。
無事でいてほしいと思った。
そして。
伝わった。
昔がなくても。
同じには戻れなくても。
新しく作ることはできる。
俺は。
魔力を一度揺らした。
兎が。
前足を鳴らす。
とん。
はい。
たぶん。
これは。
俺たちだけの。
はい、だった。
角のある兎が。
再び獣道へ向かった。
少し先で止まり。
振り返る。
その向こう。
木々の隙間に。
小さな影があった。
一つ。
二つ。
いくつも。
俺たちを警戒しながら。
それでも。
角のある兎が連れてきた俺たちを。
じっと。
待っていた。
失った記憶は戻らなくても、同じ相手と新しい関係を結ぶことはできます。
エッグと角兎に、二人だけの「はい」が生まれました。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




