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第27話 五号薬の再試験

翌朝。


 ミミルは、いつもより早く起きた。


 工房の床板はまだ冷えていて、窓の外も薄青い。


 俺はエッグ箱の中で、布越しにその気配を感じていた。


 ごそごそ。


 ぱたぱた。


 かりかり。


 薬草を並べる音。


 小瓶を洗う音。


 記録帳を開く音。


 そして、妙に静かな呼吸。


 これは、あれだ。


 焦っている時の静けさだ。


「……おはよう、エッグ」


 ミミルが俺の箱をのぞき込む。


 目の下に少し影があった。


 昨日、寝る前は落ち着いていたはずなのに。


 朝になったら、また考えてしまったのだろう。


 修理費。


 薬師ギルドからの問い合わせ。


 ギルドの期待。


 工房を続けるためのお金。


 それから、私もできると証明したい気持ち。


 わかる。


 わかるが、卵としては困る。


 焦った錬金術は、だいたい泡立つ。


 たぶん。


 俺は小さく震えた。


「大丈夫。今日は、五号の再試験だけです」


 ミミルはそう言ってから、少し間を置いた。


「外には出しません。薬師ギルドにも、完成とは言いません」


 右。


 それならいい。


 ミミルはほっとしたように笑う。


 でも、その手はもう小瓶を取っていた。


 動きが早い。


 俺はじっと見た。


 低級薬草の粉。


 湯通しした乾燥水苔。


 月露草の薄い抽出液。


 苦味を抑えるための甘根水。


 昨日の五号と同じ材料だ。


 殻片はない。


 俺の欠片も、削った粉も、何もない。


 それだけで少し安心する。


 ……いや、安心しきっていいのか?


 昨日の五号は、俺の近くで泡が落ち着いたように見えた。


 気のせいかもしれない。


 偶然かもしれない。


 でも、もし気のせいでないなら。


 殻片を入れなくても、俺の近くに置くだけで薬が変わる?


 それはそれで、かなり嫌な話では?


 俺は素材扱いから逃げたいのであって、置物型の素材になりたいわけではない。


 工房の隅に安置される謎の卵。


 近くで混ぜると薬が安定します。


 おい。


 それはもう、便利な壺みたいな扱いではないか。


 壺ならまだ割れないかもしれないが、俺は割れる。


「エッグ?」


 ミミルが気づいた。


「不安?」


 右。


 少し迷ってから、もう一度、右。


 不安だ。


 かなり不安だ。


 ミミルは小瓶を置いた。


 それだけで、少し空気が緩む。


「昨日のこと、ですよね。エッグの近くで五号の泡が落ち着いたかもしれないこと」


 右。


「私も気になっています」


 ですよね。


「でも、だからといって、エッグを薬の道具として使うつもりはありません」


 俺は震えを止めた。


 ミミルは記録帳をこちらに向ける。


 そこには、今日の試験条件が書かれていた。


『五号再試験』

『目的:外部提供ではなく、安全確認』

『殻片:使用しない』

『エッグ接触:なし』

『エッグ近接:距離を変えて観察のみ』

『効果確認:小動物・負傷者には使わない』

『確認対象:泡、濁り、匂い、保存変化、魔力反応』


 おお。


 ちゃんとしている。


 ちゃんとしすぎていて、少し錬金術師っぽい。


 いや、錬金術師だった。


「まず、エッグから離した状態で作ります。次に、同じ配合をエッグの近くに置くだけ。触れさせません。最後に、完成後の小瓶を距離別に並べて変化を見ます」


 右。


 いいと思う。


 比較は大事だ。


 俺の前世知識でも、なんか実験は比較が大事だった気がする。


 詳しいことは知らない。


 知っていたとしても、今の俺は卵だ。


 卵に高度な実験計画を求めないでほしい。


 ミミルはふっと笑った。


「左に揺れたら、そこで中止します」


 右。


 それが一番大事だ。


 試験が始まった。


 まず一つ目。


 エッグ箱から離れた机の端で、ミミルは五号を作る。


 低級薬草の粉を少量。


 湯通しした水苔を細かく潰したもの。


 月露草の薄い抽出液を三滴。


 甘根水を一滴。


 かき混ぜる。


 泡が立つ。


 昨日ほどではない。


 だが、少し白く濁った。


 匂いは軽い。


 薬草の青臭さと、湿った布みたいな匂いが混じっている。


 飲みたいかと言われると、卵なので飲めない。


 飲めたとしても、進んでは飲まない。


「泡立ち、中。濁り、中。匂い、昨日より軽い」


 ミミルが記録する。


 次に、同じ配合。


 今度は俺の箱から少し近い場所に置いた小皿で作る。


 距離は、机半分くらい。


 ミミルの手つきは慎重だった。


 材料の量も、滴の数も、混ぜる回数も同じにしている。


 かき混ぜる。


 泡が立つ。


 俺は見た。


 泡が立って、少し増えて、それから。


 すっと、細かくなった。


 大きな泡が割れて、表面がなめらかになる。


 濁りも、さっきより薄い。


 ……え?


 俺は思わず震えた。


 ミミルの手が止まる。


「今、見ました?」


 右。


 見た。


 見てしまった。


 すごく見てしまった。


 ミミルは息を呑んだまま、小皿をじっと見る。


「同じ配合です。混ぜ方も、同じにしたつもりです」


 右。


 だから怖い。


 俺が近いだけで変わったように見える。


 便利。


 ではなく、怖い。


「エッグ」


 ミミルが俺を見る。


「嫌なら、中止します」


 俺は迷った。


 嫌だ。


 もちろん嫌だ。


 でも、知らないままにするのも怖い。


 知らない力は、知らないまま利用される。


 ロイムみたいなやつは、勝手に意味をつける。


 だったら、俺たちだけで確かめた方がいい。


 外に出さない。


 削らない。


 触れさせない。


 その線を守るなら。


 俺は、ゆっくり右へ揺れた。


 続ける。


 ただし、慎重に。


 ミミルはすぐにうなずいた。


「はい。記録だけです。効能確認はしません」


 それから三つ目。


 今度はさらに俺に近い。


 箱のすぐ横ではない。


 でも、俺のひびが、薬の匂いを感じる距離だ。


 ミミルは小皿を置く前に、俺へ確認した。


「この距離で大丈夫?」


 右。


 大丈夫。


 たぶん。


 材料が入る。


 混ぜる。


 泡が立つ。


 今度は、泡がほとんど暴れなかった。


 細かな泡が一度だけ表面に広がり、すぐに静かになる。


 濁りはある。


 けれど沈殿が早い。


 底に淡い緑の粉が沈み、上澄みは薄く澄んでいく。


 薬として強そうではない。


 むしろ、弱い。


 でも、荒れていない。


 俺の近くにあると、薬が頑張りすぎない感じがする。


 薬が頑張るって何だ。


 でも、そう見えた。


「……沈静方向」


 ミミルが小さく言った。


 その声には、喜びと怖さが混じっていた。


「回復を強めるというより、反応を落ち着かせているのかもしれません」


 落ち着かせる。


 俺のひびから漏れる何かが?


 それとも、竜血卵の魔力が?


 いや、待て。


 俺は基本的にひび割れ卵だ。


 ひび割れ卵がそばにいると、薬が落ち着く。


 字面だけ見ると意味不明だ。


 俺の人生、いや卵生はずっと意味不明だが。


 ミミルは三つの小皿を並べた。


 遠い皿。


 中くらいの皿。


 近い皿。


 泡と濁りが、距離ごとに違っている。


 偶然と言うには、少しきれいすぎた。


「エッグ、これを発表したら、たぶん危ないです」


 左。


 即答だった。


 危ない。


 ものすごく危ない。


 俺の近くで作ると薬が安定するかもしれません。


 そんな情報が外に出たら、ロイムが笑顔で箱を持ってくる。


 薬師ギルドも悪い人ばかりではないだろうが、知りたい人間は増える。


 立ち会いたい。


 確認したい。


 少しだけ貸してほしい。


 近くに置くだけだから安全です。


 そういう言葉は、殻を削るより柔らかく聞こえる。


 でも、俺を俺のまま見ていないなら、同じだ。


 ミミルは記録帳の余白に線を引いた。


『外部報告:不可』

『薬師ギルド立ち会い:現時点で断る』

『エッグ近接効果:未確認扱い』

『工房内観察に限定』


 右。


 かなりいい。


「ただ、完全に隠すと、あとで困るかもしれません」


 ミミルは眉を寄せた。


「ギルドには、安全管理のために、言葉を選んで相談します。五号は反応が不安定なので外部提供しない、と。薬師ギルドの立ち会い希望も、まだ受けません」


 右。


 それならいい。


 エッグ効果、みたいな雑な名前で広めるのは絶対に駄目だ。


 そんな名前をつけられたら、俺は泣く。


 卵なので涙は出ないが、心で泣く。


 昼前、受付嬢からの伝言が届いた。


 工房の修理を手伝っている職人が、ギルド経由の封筒を持ってきたのだ。


 ミミルは封を開け、俺にも見えるように広げた。


『薬師ギルドより、低刺激薬の再試験に立ち会い希望あり』

『製法開示は求めないとのこと』

『効果確認用の軽傷者を手配可能とのこと』

『回答は急がない』


 俺は読み終える前に左へ揺れていた。


 軽傷者。


 手配可能。


 言い方は丁寧だ。


 だが、今の五号に人間を使う段階ではない。


 弱くても、安定して見えても、まだ小皿の中の話だ。


「はい。断ります」


 ミミルは迷わなかった。


 その即答に、俺は少し驚いた。


 昨日のミミルなら、迷ったかもしれない。


 前のミミルなら、きっと喜んでいた。


 役に立てる。


 認められる。


 お金になる。


 そう思って、危ない橋を渡りかけたかもしれない。


 でも今のミミルは、封筒を閉じた。


「今は、人に使う薬ではありません。外部の前で作る薬でもありません」


 右。


 その通り。


 ミミルは返事の下書きを始めた。


『代替低刺激薬五号は、現時点では工房内の観察段階です』

『効果は弱く、保存性と反応安定性に未確認部分があります』

『軽傷者への使用、外部提供、立ち会い試験は見送ります』

『安全確認が進み次第、ギルド同席のもと改めて相談します』


 いい。


 ものすごくいい。


 できないことを、できないと書いている。


 完成していないものを、完成していないと書いている。


 地味だ。


 でも、こういう地味さが命を守る。


 俺の殻も守る。


 午後。


 ミミルは五号を小瓶に分けた。


 遠い場所で作ったもの。


 中距離で作ったもの。


 近距離で作ったもの。


 それぞれに札をつける。


 効能試験はしない。


 代わりに、保存の変化を見る。


 瓶の底の沈殿。


 匂い。


 泡の戻り。


 魔力灯にかざした時の濁り。


 地味な確認が続いた。


 地味すぎて、途中で俺は少し眠くなった。


 卵にも退屈はある。


 だが、ミミルは真剣だった。


 何度も記録し、何度も見比べる。


 そして、夕方になってから、ようやく結論を書いた。


『五号薬』

『効果推定:弱い』

『刺激性:低い可能性』

『泡立ち:エッグ近接時に低下傾向』

『濁り:エッグ近接時に整いやすい』

『沈静効果:弱いが安定傾向』

『外部提供:不可』

『人体使用:不可』

『工房内再観察:継続』


 ミミルは筆を置いた。


 長い息を吐く。


「弱いですね」


 右。


 弱い。


「でも、昨日より安定しています」


 右。


 安定している。


「完成では、ありません」


 右。


 完成ではない。


「でも、失敗だけでもありません」


 右。


 それは、そう。


 五号は強い薬ではない。


 劇的に傷を治すわけでもない。


 売れば大金になるような派手さもない。


 でも、弱くて、低刺激で、反応が落ち着く。


 そういう薬が必要な人も、きっといる。


 いつか。


 安全が確認できたら。


 ミミルは俺の箱の横に座った。


「エッグの近くで整いやすいことは、怖いです」


 右。


 俺も怖い。


「でも、殻片を使わなくても反応が変わるなら、それはエッグを削らなくていい可能性でもあります」


 俺は黙った。


 その見方は、考えていなかった。


 俺のそばにいるだけで薬が整う。


 それは危険な情報だ。


 でも同時に、削らなくてもいい理由になるかもしれない。


 もちろん、そばに置かれるだけでも嫌な使われ方はある。


 だから線引きはいる。


 でも、殻片が必要ないという事実は、俺を守る盾にもなる。


 ミミルは静かに続ける。


「私は、この力が何なのか、まだわかりません。薬性変質と呼ぶのも早いです。エッグ自身の力なのか、竜血卵の影響なのか、ひびから漏れる魔力なのかもわかりません」


 うん。


 わからないことだらけだ。


「だから、名前をつけて売りません。成果にしません。エッグを置けば安定します、なんて絶対に言いません」


 右。


 絶対に言わないでほしい。


「でも、記録はします。エッグを守るために」


 俺は、ゆっくり右へ揺れた。


 記録は必要だ。


 ロイムみたいな相手がまた来た時、知らなかったでは守れない。


 知っていて、隠して、線を引く。


 それが必要なのだと思う。


 夜。


 ミミルは今日の記録をまとめた。


『五号:弱いが安定した沈静傾向』

『エッグ近接時、泡と濁りが整いやすい可能性』

『接触なし。殻片なし。削りなし』

『薬師ギルド立ち会いは断る』

『外部提供しない』

『反応の意味は未確認。名称をつけない』


 その下に、少し迷ってから、こう書いた。


『エッグを材料にしない』

『エッグを器具にしない』

『エッグの近くで起きることも、エッグ本人のものとして扱う』


 俺は、その一文をしばらく見ていた。


 本人。


 卵なのに。


 ひび割れていて。


 廃棄推奨で。


 素材価値があって。


 近くにいるだけで薬が整うかもしれない、変な卵なのに。


 それでもミミルは、俺を本人として扱う。


 俺は右へ揺れた。


 強く。


 ミミルが笑う。


「よかった」


 よかったのは、こっちだ。


 俺は少しだけ震えた。


 五号は完成しなかった。


 外にも出なかった。


 でも、弱い沈静効果は見えた。


 俺の近くで反応が整いやすいことも、たぶん見えた。


 怖い。


 かなり怖い。


 だが、知らないままよりはいい。


 ミミルは焦っていた。


 でも、止まれた。


 断れた。


 線を引けた。


 なら、今日も割れなかった。


 削られなかった。


 使い潰されなかった。


 俺はエッグ箱の中で、静かにひびの奥を意識する。


 このひびは、ただの傷なのか。


 それとも、何かを受け取り、何かを整える入り口なのか。


 まだわからない。


 わからないから、明日も記録する。


 割れないように。


 奪われないように。


 俺のままでいるために。

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