探求心
水槽の水を飲む男
山田太郎の喉は、常に渇いていた。
ただの渇きではない。「究極の一杯」を求める、求道者としての渇きである。彼は自称・ハードコアウォーターソムリエ。水に対する執着は、もはや常軌を逸していた。
第一形態:ミネラルウォーター
「ふむ……。アルプス山脈の雪解け水……硬度300。悪くない。悪くないが……」
山田はワイングラスに入った高級ミネラルウォーターをくるくると回し、一気に飲み干した。そして、深いため息をついた。
「綺麗すぎる。無機質だ。岩石のフィルターを通っただけの水に、もはや私の魂は震えない!」
彼は空のペットボトルをゴミ箱に放り投げた。綺麗すぎる水は、彼の舌を退屈させるようになってしまったのだ。彼が求めているのは、もっとこう……ドラマである。
第二形態:水道水
深夜、山田は自宅のキッチンに立っていた。蛇口を捻ると、勢いよく水が飛び出す。彼はグラスを使わず、直接口をお迎えにいった。
「ゴクッ……ゴクッ……ぷはぁっ!」
山田の目がカッと見開かれた。
「これだ! この人工的なカルキ臭! 老朽化した水道管が織りなす、ほんのりとした鉄の風味! 大自然には決して生み出せない、都市のインフラという名の暴力的なテロワール!」
彼は水道水を「アーバン・ヴィンテージ」と名付け、がぶ飲みした。しかし、人間の欲望とは恐ろしいものだ。三日後、彼は水道水の「安定感」にすら飽きてしまった。
第三形態:2週間放置されたウォーターサーバー
山田が次に目をつけたのは、職場の給湯室の隅に追いやられたウォーターサーバーだった。誰かがボトルを交換するのをサボり続け、電源も抜かれたまま、直射日光の当たる窓際で2週間放置された魅惑のサーバーである。
山田は紙コップを置き、レバーを押した。
チョロ……チョロチョロ……。
水は、妙にトロみを持っていた。
「……いただきます」
口に含んだ瞬間、山田の脳内に走る電流。
「おお……おおおお! なんというまろやかさ! 常温を超えた『生温かさ』が、舌にねっとりと絡みつく! わずかに感じるプラスチックの劣化臭と、空気中のバクテリアが醸し出す発酵の予感……! これはもはや水ではない。時間の経過を味わう『液状の走馬灯』だ!」
山田は感動のあまり咽び泣いた。同僚たちは彼を遠巻きに見て、人事部にメールを打ち始めていたが、山田の渇きはついに「生命の神秘」へと向かおうとしていた。
最終形態:禁断の水槽
日曜日。山田は友人である佐藤の家に招かれていた。しかし、彼の視線は佐藤が淹れたコーヒーではなく、リビングの隅で緑色の蛍光灯に照らされている「60センチ熱帯魚水槽」に釘付けになっていた。
水草が繁茂し、ネオンテトラが優雅に泳ぎ、底の方ではヤマトヌマエビがツマツマと苔を食べている。
「……完璧な生態系だ」
山田は震える手で、マイ・ワイングラスをカバンから取り出した。
「おい山田、何してんだ?」
「佐藤。究極の水とは何か、考えたことはあるか?」
「は?」
山田は佐藤を無視し、水槽の上部フタを開けた。そして、ワイングラスをゆっくりと水槽内に沈める。ネオンテトラたちがパニックを起こして逃げ惑う。
「やめろバカ! それは水質調整剤と魚のフンが混ざった……!」
佐藤の制止も虚しく、山田はなみなみと注がれた薄緑色の水を高く掲げた。
「見よ、この生命のスープを! 水草の光合成が生み出した酸素、バクテリアによるアンモニア分解の奇跡、そしてフレーク状のエサが溶け出した芳醇なアロマ!」
「飲むな! お腹壊すぞ!」
「ルネッサァァァンス!!」
山田は一気にそれを呷った。
ゴクリ。
沈黙が走る。佐藤は絶望的な顔で救急車の番号を思い浮かべていた。
山田は目を閉じ、静かにテイスティングのコメントを紡ぎ出した。
「……トップノートは濃厚なアオミドロ。口に含むと、底砂のソイルが持つ力強い大地の香りが広がり……フィニッシュにプレコが舐め取ったガラス面の……生臭さ……」
ドサァッ。
山田は満足げな笑みを浮かべたまま、静かにリビングの床に崩れ落ちた。
「やまだぁぁぁぁぁぁっ!!」
翌日、山田は胃腸炎で病院のベッドにいた。
点滴の管を見つめながら、彼は静かに呟いた。
「……生理食塩水って、どんな味がするんだろう」
男の渇きが癒える日は、まだ来ない。




