第13話 ありのままの姿、見えちゃってますけど
その日も、会社は平常運転だった。
つまり、地獄である。
残業続きで目がしょぼしょぼする。画面の文字は踊り、エクセルの罫線は蜃気楼、メールの「至急」は呪いの札。肩は石、首は鉄、俺は社畜のフルアーマー。
「相川。これ、今日中」
課長が置いていった資料の束が、俺のデスクに雪崩れ込む。
(今日中って何。今日、何時まで? 地球が自転をやめるまで?)
目の奥がずきん、と痛む。
最近、夕方になると視界がぼやける。文字が滲んで、目薬をさしても回復しない。むしろ「しみる」だけで心が折れる。
帰宅してもスマホが眩しい。コンビニの値札が読めない。風呂場のシャンプーとコンディショナーを間違える頻度が上がった。
(これ、老眼じゃなくて…過労だよな? うん、過労。老眼じゃない。まだ)
俺は現実から目を逸らしながら、休日に眼科へ行った。
眼科は白い。眩しい。白が暴力。
視力検査の「これ、見えますか?」に対して俺は心の中で叫んだ。
(見えたら来てない)
検査を終えた医師が淡々と言う。
「視力、落ちてますね。眼精疲労も強い。仕事、ずっと画面ですか?」
「はい。画面と課長の顔を交互に見てます」
「……課長は関係ないですね。眼鏡作りましょう。コンタクトは?」
「外さないまま寝そうで怖いので、眼鏡にします」
俺は処方箋をもらい、帰宅した。
今度の休みに眼鏡を作る。仕事用の、ちゃんとしたやつ。ちょっと知的に見えるかもしれない。疲れてるけど、そういう小さな希望は持っていいはずだ。
家に着いて、玄関で靴を脱いだ瞬間、全身の力が抜けた。
ネクタイを緩める。
冷蔵庫を開けて閉めて、ため息をついて、テレビの電源を入れる。
……静かな部屋だと、課長の声が脳内で再生されるから。
異世界通販の方がまだマシ。
♪ テレレレッ♪
「はいはい。安定ですね」
派手なテロップと、やたら元気なBGM。
画面の中央には、ピンクのふわふわした髪の猫耳娘──ミルフィが立っていた。
『さあさあ始まりました〜!
今宵もあなたと!深夜の異世界通販のお時間ですにゃん!』
「テンションの落差すごいわ」
だが、今日に限って様子がおかしかった。
ミルフィも、横に立つラビも、眼鏡をかけている。
「……なんで二人とも眼鏡?」
ラビがぎこちなくフレームをクイッと上げた。
『かっこいいのです。できるアシスタントなのです』
ミルフィが頷く。
『本日の商品はこちら! ありのままの世界を、クリアに見る眼鏡ですにゃ!』
「いや、普通の眼鏡でいいんだけど」
『人族さんの眼鏡は、度数を合わせるのが大変ですにゃ』
『これは使用者に合わせて自動調整されるのです』
『そうなのです』眼鏡クイ。
『さらにフレームも自由にカスタマイズ可能!』
画面の中で、眼鏡の形がころころ変わる。
『そしてこちら、どんなに激しく動いてもずり落ちませんにゃ!
丈夫で、ハンマーで殴っても壊れにゃい!』
隣でラビがスクワットを始めた。
耳が上下に跳ねる。眼鏡は確かに落ちない。
『ふんっ……ふんっ……ずれないのです……!』
「ラビ……やめなさい……」
だが俺の心は、すでに半分持っていかれていた。
(視力調整いらない、デザイン変え放題……普通に欲しい)
「……買います」
『まいどありですにゃん!』
数分後。部屋の中央が淡く光り、小包がぽとりと落ちた。
箱を開けると、特徴のない眼鏡が入っていた。
俺は学習していた。説明書に目を通す。
【※一度装着すると、十二時間外せません】
【※物理攻撃無効(神の加護)】
「今回は、そんな物騒な感じはしないな。仕事の時しか使わないし」
俺はサイドのボタンを押してみる。
しごでき感のあるメタルフレームへと形を変えた。
装着してみた。
「……うわ」
――クリア。
世界が輪郭を取り戻した。
今まで見えてた世界は何だったんだ。ぼやけた人生だったのか。
「早く作ればよかった……」
俺は感動しながら出勤した。
職場の蛍光灯がいつもより白い。資料の文字が読みやすい。課長の顔の毛穴まで――
「いや、それは見たくない」
朝、職場で。
ふと並んだ同僚の靴が目に入った。
てか、中が見えてしまった。
(シークレットォ……)
俺は見てはいけないものを見た気がして、そっと目を逸らした。
次に、巨乳自慢の同僚が通った。いつも「Fなんだよね〜」と言う人。
目が勝手に吸い寄せられる。
(……あ)
胸元が、物理的に「盛られて」いた。
見える。段差。構造。工学。
(パット、文明の力……)
自分の脳内で「見ちゃだめだ、見ちゃいけないやつ」と言葉がリフレインする。
さらに、社内一美人と噂の秘書課トップが現れた。
髪つやつや、肌つるつる、完璧な女王。
――なのに。
そこには、たぬきが居た。
俺は口元を押さえた。
笑ってはいけない。笑ったら死ぬ。社会的に。
(この眼鏡、クリアに見えるっていうか……“ありのまま”が見えすぎる!!)
嫌な汗が背中を伝う。
俺は眼鏡を外そうとした。
……外れない。
(そうだった!十二時間!)
その瞬間、客先から戻った課長が現れた。
課長はいつも偉そうだ。今日も偉そうだ。今日も俺に嫌味を言う準備が整っている顔。
……そして。
(頭に……ヅラ……!?)
俺は絶句した。
ヅラが悪いわけじゃない。人の自由だ。
だが、課長はいつも「美容院は月イチで。身だしなみの基本」とか言ってくる。
お前は何を切りに行っているんだ。
「相川ァ、朝からぼーっとしてんじゃないよ」
課長の声が聞こえる。
俺はヅラを見てしまっている。
笑いが腹の底から突き上げてくる。
「……ぐっ……」
口元が震える。呼吸が変になる。
「何だその顔。何がおかしい?」
(おかしいのはあなたの頭です)
俺は必死に奥歯を噛みしめた。
でも限界だった。
「ぷっ……」
漏れた。最悪だ。
課長は即時、噴火した。
「相川ァ!! 何笑ってんだ!!」
「す、すみません、ちょっと……目が……」
「目がじゃない! 謝れ! 社会人の基本だろ!」
俺は荒ぶる腹筋を押さえながら、仕事に戻った。
そして夕方。
残業でフロアが静まり返った頃、俺は気づいた。
この眼鏡――“外見”だけじゃない。
デスク越しに課長を見ると、視界の端に……映像が重なる。
課長のデスクの上。
課長のパソコン画面が、俺の眼鏡越しに透けて見える。
(……え)
そこには、見覚えのある資料。
俺が作った資料。
でも、名前の部分だけが――課長の名前に書き替えられていた。
さらに見ると、同僚が取ってきた契約も、いつの間にか課長の成果に寄せられている。
露骨じゃない。ほんの少し。
「間違えた」と言えば逃げられる程度の、卑怯な量。
俺は、ぎゅっと拳を握った。
怒りより先に、妙な冷静さが来た。
「……これは、許せない」
終電間際、一人になった俺は、課長のデスクに座る。
「さて、真実が見えてしまった以上、正さなくては」
資料の名前、営業成績、修正していく。
ちょっと手が滑って、人事評価の順番が入れ替わったかもしれないが、残業で疲れていたのだから仕方ない。
俺は帰宅中もヅラが脳内で揺れていた。
笑いと怒りが混ざって最悪のカクテルになっている。
「まだ釈然としない、あのヅラ」
そう呟いた、その時――
目の前で猫が道路に飛び出した。
迫るヘッドライト。
(間に合う)
そう思った俺の足は駆け出していた。
小さな命を抱えて、視線を上げると光はすぐそこだった。
ありのままを見せる眼鏡は、迫りくる車のヘッドライトをもクリアに見せた。
響く急ブレーキの音。
猫を抱えた俺は、その場で蹲る。
衝撃に備えた。
カキーン……
バッティングセンターのような妙な音が聞こえた。
衝撃はない。
恐る恐る目を開けると、俺の鼻先数センチのところで、時速六十キロの鉄塊が不自然な形で静止していた。
そして、そのバンパーには“眼鏡の跡”が深く刻まれていた。
【※物理攻撃無効(神の加護)】
説明書の文字が頭の中に浮かぶ。
神の加護は、眼鏡を守るためなら、持ち主の命すら副産物として守るらしい。
手も足も震えている。
なんだったら、ちょっとちびっているかもしれない。
ハンドルを握る運転手と目が合う。
「俺はッ……死にましぇえん!」
次に抱えた猫と目が合った。
「猫が……好きだから」
「ニャン」
運転手は、もはや警察を呼ぶべきか、精神科を呼ぶべきか、あるいは除霊師を呼ぶべきか迷っているような顔で俺を見ている。
警察の現場検証を終えた俺は、猫を抱えて自宅に戻った。
「ニャー」
ハチワレが俺を見上げる。
「……成り行きで連れてきたけど……一緒に住むか?」
段ボールとタオルで簡易ベッドを作ってやる。
だがハチワレは俺の布団に潜り込むと、スヤスヤと寝始めた。
「俺の苦労は報われない……。猫用品、買ってこないとなぁ」
♪テレレレッ♪
『今回はお役に立ちましたにゃ?』
「どうしてだ……助かったけど、釈然としない」
『また異世界通販をご利用くださいませにゃ!』
笑顔で手を振り、ミルフィは消えた。
結局、処方箋で眼鏡は作り直した。
最初からこうするべきだったのだ。
俺はパソコンを開き、画面の文字をクリアに読む。
そして、知ってしまった上司の“ありのまま”も、同僚たちの“ありのまま”も、受け止める。
俺はため息を吐いて、でも少しだけ口角を上げた。
(この異世界通販、やっぱり人間向けじゃない)
(でも――たまに、使える)
世界はちゃんと見えた方がいい。
でも、真実はそんなに見えない方が生きやすいのかもしれない。




