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プロローグ

 夜明け前の海は、まだ眠っているみたいに静かだった。

 私は坂道を下りながら、両手で軽くブレーキを握り、ハンドルを押さえる。海沿いの道路は、昔のサイクリングロードの名残らしい。路面には細かなひびが走り、割れ目から伸びた草が白い街灯の光に揺れている。タイヤが小石を踏むたび、じゃり、じゃり、と乾いた音が響いた。

 その暗がりの向こうから、波の音だけが聞こえる。 潮が満ちる音。遠くの護岸へぶつかる音。それから――低く唸るような、船のエンジン音。

 私は少しだけ顔を上げた。薄暗い海の上を小型の貨物フェリーが横切っていくのが見えた。甲板には人影がほとんどない。でも船体の側面には、青白い航路灯が静かに流れていた。

《 West-MaaS 海上物流ライン C-12 》

 網膜レンズの端に自動識別タグが浮かぶ。 私は即座に閉じるボタンを操作した。便利だけど、風景に文字が浮かぶのは好きじゃない。

 フェリーの後方では十数機の配送ドローンが編隊を組み、島から島へ荷物を運んでいた。もうひと昔みたいに島に人は多くはない。でも、島にはまだ人が住み続けている。

 島で育ち島で暮らし島のことしか知らない老人も。毎朝フェリーで本土の学校へ通う子供たちも。海苔を育てる人も魚を獲る人だっている。

 飛行船航路が通っていれば便利なのだろうけど、こんな田舎までインフラを維持するゆとりはないらしい。人口減少、地方消滅、国そのものの存続危機。目の前に広がる景色は、静かで、不便で、荒廃していた。

 カーブを抜けた瞬間、視界が一気に開けた。

「……あ」

 思わず、ブレーキを強く握った。目の前に巨大な橋脚が現れる。かつて本州と四国を結んでいた海上道路。今はもう、その役目を終えている。白い橋桁は途中でへの字に折れ曲がり、崩落した断面だけが海の上へ突き出していた。まるで、折れた巨大な骨みたいだった。

 私は自転車を降りる。潮風が強い。髪が頬へ張りつき、海の匂いの中に、錆びた鉄の匂いが混ざっていた。

 南海大震災からもう15年以上が経つ。橋は結局、修復されないままだった。国家の危機、人口減少、物流効率、維持コスト。理由はいくらでもあったし、そこには優先順位が付けられていた。実際、本州と四国を繋ぐ橋は今や一本で成り立っている。極めて合理的な判断でこの橋は切り捨てられた。人類は点在する安全な「生存圏ノード」に身を寄せ合って暮らす「明るい過疎」の時代を迎えている。

 でも、不謹慎にも私は崩壊寸前の巨大構造物になぜか惹かれてしまう。薄暗い海に黒々とそびえ立つ橋脚は、今にも動き出しそうな地獄から這い出てきた生き物にも見える。

 私はポケットから小型カメラを取り出す。 すると、背中のリュックサックの中から待機していた撮影ドローンが、自動的に小さな羽音を立てて起動した。

《AUTO SHOOT MODE 起動》

《おすすめ構図を表示します》

《トレンド予測:98,204 View》

 視界に、撮影ガイドラインが何本も浮かび上がる。

 いやいやいや……。

 私は顔をしかめた。AIの補正が入った映像は、ちゃんと“映える”ようになっている。でも、何かが違う。うまく言葉にできないけど、ここって、もっとこう、湿っぽくて、風が強くて、ちょっと危なっかしくて…。そういう感じなのに。

 私はちょっとでも良い画角を探してガードレール越しに身を乗り出す。その時だった。

 四国山地の稜線の向こうから、ゆっくりと朝日が昇り始めた。一瞬で海の色が変わる。

 黒に近かった水面が朝日に照らされ、一気に黄金色へ染まっていく。崩れた橋、錆びたワイヤー、波に削られたコンクリート。その全部が朝日に照らされて、海全体が巨大な宝石みたいに輝き始めた。

「……っ」

 思わず息を呑む。 こんなの反則だろ…。

 私は無意識に立入禁止フェンスの方へと走り出していた。ここはかつてのサービスエリアの跡地だろうか。ひと気はないが、廃墟と化した建物がまだ生々しく残っていた。

 刻一刻と景色が表情を変えていく。立入禁止フェンスは潮風で白く錆びていた。網膜レンズが再び反応し、黄色い警告ホログラムがちらちらと点滅する。

《危険区域》

《崩落可能性あり》

《無許可侵入を検知した場合、自治体管理ドローンが出動します》

 私は閉じるボタンを連打しながら、フェンスをまたいだ。 割れたアスファルト、浮いたマンホール、崩れたガードレール。靴底が古いコンクリートを踏む。ざり、と乾いた音がした。

 橋へ続いていたはずの道路は、途中から大きく崩れ海の中に沈んでいた。剥き出しになった鉄骨が朝日に赤く照らされている。

 その先には海。そしてさらに向こうには小さな島々が浮かんでいた。 島の斜面には、ぽつぽつと灯りが残っている。港には小型漁船、自動養殖ブイ、海上充電ステーション。静かな景色の中を無人フェリーが一定速度で滑っていく。

 私はガードレールの残骸へ腰を下ろした。 撮影ドローンが周囲を旋回する。ファインダー越しに見る崩落した橋は、空の青も、海の金色も、綺麗に整えられてしまっている。でも実際は違う。 実際の景色は綺麗とはかけ離れている。潮でベタつくし、風で髪は乱れるし、足は疲れるし、機械は錆びるし、古い橋は軋む。

 私はカメラの補正設定を手動で切った。途端に映像が荒くなる。その代わり、急に“匂い”まで映り込んだような気がした。

 海の向こうから低い振動音が響いてきた。

 ゴォォォォ……。

 一隻の大型フェリーが崩落した橋脚の下を通過していく。最新式の全自動輸送艦だ。波を切るというより海面を滑っているみたいな静かな動きだった。 白い船体には青色の企業ロゴ。

『East-MaaS Autonomous Marine Line』

 関西方面へ向かっていく。船体側面にはコンテナが並びその上を荷物運搬ドローンが離着艦している。昔なら何百人も必要だった航路を今はAIが数人分の監視だけで動かしている。

 船は静かに通り過ぎていく。けれど、その数秒後に遅れて計算外の巨大な引き波がやって来た。

 海面が大きくうねる。朝日を反射した波が何本もの金色の線になって広がっていく。その波が足元の土台に激突した。

 グラッと視界が揺れた。 崩落して脆くなっていた足元が波の衝撃であっけなく崩れた。

「あっ……」

 視界が反転する。朝日と海がぐるりと入れ替わる。そのまま私は数メートル下の海へ落ちた。

《危険》

《危険》

《危険》

 網膜レンズいっぱいに赤い文字が広がっていく。

 全身を叩きつけるような重い衝撃と共に私は十月の冷たい海中へと沈み込んだ。水中で泡が弾ける。一瞬、どっちが上か下かも分からなくなる。こういう時は慌てるな。私は息を止めたまま、ゆっくりと目を開ける。揺れる水の向こうに朝日が砕けている金色の光が見えた。

 その奥にぼんやりと巨大な影が見えた。

 潜水艦――?

 いや違う。もっと雑で、もっと荒々しい。揺れる海の底でその輪郭だけがゆっくりとうねる。まるで、冷たい水の中で確かに血を通わせた、生き物みたいに。

 龍……?

 私は息が続かなくなり、たまらず海面へ顔を出す。

 「ぷはっ! げほっ、ごほっ……!」軽く咳き込みながら必死に周囲を見回す。 輸送艦が遠ざかっていく。私の頭上を撮影ドローンが旋回していた。

 でも、波が寄せては返す海には先ほどの龍の姿はどこにも無かった。


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