表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

轍の上の火花と、追われた者たちの銃声

# 空にクジラが泳ぐ世界で

### ――前書き・登場人物紹介――


---


## ◆ この物語について


魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。


蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。

そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。


名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。

正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。


魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。

ただ、死なないだけ。


腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。

それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。


なぜ旅をするのか。

それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。

「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。


これは、終わりの見えない旅の記録。

空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。


---


## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ


舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。


千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。

けれど人間はしぶとかった。


魔法が使えないなら、機械を作ればいい。


試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。


エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。


旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。

高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。

その狭間で、人々は今日も必死に生きている。


---


## ◆ 登場人物


### サイラス・ハリソン(サイ)

**「千年生きた、失敗作の旅人」**


> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。

> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋


千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。

製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。


ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。


好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。


彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。


感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。


---


### SiS-001「シス」

**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**


> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。

> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体


ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。

人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。


シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。

その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。


サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。

シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。


温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。


---


### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】

**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**


> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。

> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者


もうこの世界にいない。千年前に死んだ。


それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。

サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。


天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。


サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。


---


## ◆ 作品のキーワード


`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`


---


*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*

*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*

【日雇いと、掲示板と、鉄の匂いの駅】

 柵の杭を打ち込む仕事は、三日目になると手の皮が剥けなくなる。

 正確に言えば、サイラスの場合は剥けてもすぐに塞がるので、一日目から問題はなかった。ただ、隣で同じ作業をしている中年の人夫が「最初の三日で手のひらが固まるんだ、そこからが本番だぞ」と教えてくれたので、素直に三日間働いた。日当は一日あたり1.5GSN。朝から夕方まで杭を打ち、水を汲み、柵板を運ぶ。宿代と食費を引くと、手元に残るのは0.3ギルスがせいぜいで、ポケットの中の紙幣は一向に厚くならない。

 ドレン村を出てから六日が経っていた。

 ヴィルスからもらった革袋の中身は、出発時で5GSNほどだったろうか。街道沿いの中継集落を二つ渡り歩くうちに、宿代と食事で半分以上が消えている。残りは2GSNを切った。蒸気船にも蒸気馬車にも乗れない額で、次の都市までの距離を考えると、このまま徒歩で日雇いを繋いでいくのはさすがに現実的ではない。

 千年の旅で、金に困ったことは数え切れないほどある。通貨の形が変わり、国が滅び、経済の仕組みが根底から入れ替わるたびに、サイラスは無一文からやり直してきた。慣れている、と言えば慣れている。ただ、慣れと快適は別の話で、空腹も寒さも千年前と同じように体に響く。

 四日目の朝、サイラスは柵の現場の親方に日当を受け取り、東へ向かう街道に足を踏み入れた。バックパックの中には、印刷地図、ヴィルスの圧力計、ゴードンの形見のレンチ、替えの下着が一組、半分になった塩漬け干物の包み。左手のガントレットは旅の間も外さない。腰の後ろにはナイフの鞘が馴染んだ位置に収まっている。

 歩き始めて二時間ほどで、空気が変わった。

 最初に気づいたのは音だ。遠くから、金属を叩く高い連打音が風に乗って届いてくる。次に、地面を通じて伝わってくる重い振動。蒸気クレーンの駆動音だろう。丘を一つ越えたところで、視界が開けた。

 鉄道建設の拠点町が、眼下に広がっていた。

 ドレン村とは、何もかもが違う。

 まず、音の量が圧倒的だった。蒸気ハンマーがレールに杭を打つ轟音、クレーンの旋回軸が軋む金属音、人夫たちが荷を運びながら交わす怒号、鍛冶場から飛び散る火花が風に散る音——それらが渾然一体となって、町全体を振動させている。ドレン村で聞こえたのは風と鳥の声だけだった。ここでは風の音すら、機械の轟音にかき消されて聞こえない。

 蒸気の量も桁違いだ。町の中央に据えられた大型の大気圧縮エンジンが、太い排気管から白煙を絶え間なく吐き出している。そこから放射状に伸びるパイプが、クレーン、鍛冶場、仮設の宿舎、飯場へと蒸気を分配しており、町のあちこちで白い息が噴き上がっていた。ドレン村では三時間しか通らなかった蒸気が、ここでは二十四時間、途切れることなく流れ続けている。同じ連邦の中で、同じパイプを使って、同じエネルギーを分配しているはずなのに、届く先でこうも景色が変わる。

 サイラスは丘を下りながら、町の輪郭を観察した。

 仮設の建物が多い。板張りの宿舎、テント屋根の飯場、丸太を組んだ資材置き場。恒久的な町というよりは、建設現場がそのまま集落になったような構造で、人の密度が異様に高かった。街道から流れ込んでくる人夫、資材を運ぶスチームトラックの列、馬に荷を引かせる商人、天幕の下で工具を売る行商人。誰もが動き、誰もが汗をかいている。エーテルガルド連邦が掲げる「開拓福音」の教義——機械と蒸気で荒野を拓き、万人に豊かさをもたらせ——が、ここではまだ生きた言葉として機能しているのだろう。鉄を打つ腕の一振りが、明日の繁栄に繋がると信じている人間たちの熱が、空気ごと町を包んでいる。

 ドレン村の、あの消耗した目を思い出す。

 あの静けさと、この喧騒。どちらも同じ国の中にある。連邦の蒸気は、流れる先を選んでいるのだ。

 町の中心を貫くように、真新しいレールが二本、東の地平線に向かって延びていた。

 レールの表面は、まだ錆びていない。銀色の光沢が午後の陽光を弾き、その輝きが妙に眩しかった。枕木から立ち上るタールの匂いが鼻を突く。防腐処理されたばかりの木材の、焦げた甘さと化学薬品の刺激が入り混じった匂い。レールの脇に積まれた砂利は角が鋭く、まだ列車の重みで丸くなっていない。すべてが新しく、すべてがこれからのものだった。

 サイラスは線路の脇にしゃがみ込み、レールの表面に指を触れた。

 冷たい。鉄の冷たさだ。しかしその冷たさの奥に、微かな振動がある。遠くで作業しているハンマーの衝撃が、レールを伝って指先に届いてくる。金属が振動を運ぶ速度は、空気よりずっと速い。鉄は記憶する。打たれた衝撃を、走る車輪の重みを、その表面に刻み続ける。

 千年を生きて、鉄道に乗ったことがない。

 蒸気鉄道が実用化されたのは百五十年ほど前のことだ。大気圧縮エンジンの普及と同時に各国で路線が引かれ始め、今では大陸内の主要都市を結ぶ交通の要になっている。しかしサイラスの旅はいつも辺境から辺境へ渡り歩く種類のもので、鉄道が通っている場所に長く留まることが少なかった。蒸気馬車には何度も乗り、蒸気船には数え切れないほど揺られ、ゴードンの複葉機にさえ乗ったが、レールの上を走る乗り物だけはまだ経験していない。

(西の大陸の新しい蒸気鉄道も気になる、と言っていたのは、いつだったか)

 バレストルを出る前のことだ。シスの異空間で、旅の行き先を考えていた時に口にした言葉。形は違うが、鉄道に乗る機会が向こうから転がり込んできたらしい。千年の旅には、そういう巡り合わせが時々ある。探していたものが、探していなかった形で見つかる。

 レールから指を離し、立ち上がる。指先に鉄の匂いが残った。

 線路の終端——まだ敷設が完了していない先端部分——に、仮設の駅舎が建っていた。駅舎といっても板壁にトタン屋根を被せただけの簡素な建物で、待合室と切符売場と事務室を兼ねた一部屋しかない。しかし壁面に掲げられた掲示板だけは、紙がびっしりと貼られて賑やかだった。

 人夫募集、資材の買い付け告知、行商人の広告、酒場の開店案内——掲示板は町の情報の集積地で、文字の読める人間が立ち止まっては紙片を眺めている。サイラスもその一人に混じり、上から順に目を通していく。

 一枚の張り紙が目に留まる。

 黄色い紙に黒インクで、簡潔な文面が印刷されていた。

「護衛要員急募。新設蒸気鉄道路線 試験運行兼物資輸送列車。出発:明朝六時。終点:ヴァルデン市。報酬:20GSN(乗車費込み)。武装持参のこと。詳細は駅舎事務室にて。——グレイハウンド運輸株式会社」

 二十ギルス。

 サイラスはその数字を二度読んだ。今の所持金が2GSN弱。日雇いで一日1.5ギルスを稼いで、宿代と食費で1.2GSNが消える計算だと、20GSNを貯めるには二ヶ月以上かかる。それが一日の護衛で手に入り、しかもヴァルデンまでの乗車費が含まれている。

 ヴァルデン。内陸部の中規模都市で、連邦の鉄道網のハブになりつつある街だと、印刷地図の注記に書いてあった。ドレン村のような辺境から、一気に都市部へ出られる。

 危険が伴うから20GSNなのだろう。護衛が必要な輸送列車ということは、襲撃のリスクがあるということだ。しかし、サイラスにとって戦闘は日雇いの杭打ちより馴染みのある仕事でもある。

 駅舎の事務室に入ると、窓口の向こうに中年の女性が座っていた。

 四十代半ばだろうか。髪を短く刈り込み、袖をまくった作業着の上から革のベストを重ねている。机の上には配車表と運行計画書が広げられ、その横に蒸気式のタイプライターが据えられていた。キーを叩く指は太く、爪は短く切りそろえてある。人を値踏みする目と、数字を読む目を同時に持っている種類の人間だ。

「護衛の件で来ました」

「名前」

「サイラス・ハリソン」

 女性は配車表の端に名前を書き留めながら、サイラスを見た。頭の先から足元まで、二秒で査定する視線。バックパック、旅装、日に焼けた肌。そして、左手のガントレットと、腰の後ろのナイフの鞘。

「武装の確認をする。見せて」

 サイラスは左手を差し出した。アイゼン・ギルド製のガントレットは、無骨な鋼鉄の手甲だ。指の関節部分に蒸気の排出口があり、手首の内側にはカートリッジの装填口がある。殴打時に圧縮蒸気を噴射し、打撃の衝撃を増幅する近接戦闘用のガジェット。表面には旅の擦り傷が無数に刻まれているが、可動部の手入れは行き届いていた。

 女性はガントレットをひと目見て、次にナイフに視線を移す。サイラスは背中に手を回し、鞘からナイフを抜いて机の上に置いた。刃渡り三十センチ、ナックルガード付きの大型サバイバルナイフ。複数の炭素鋼を組み合わせた刃が、事務室の蒸気ランプの光を鈍く反射する。

「近接型か」と女性は言い、感心でも軽蔑でもない、確認の声で続けた。「辺境の傭兵?」

「旅人だが、戦える」

「銃は?」

「使ったことはあるけど、持ってません」

「ふん」

 女性はペンを走らせながら、ちらりとガントレットを見た。「アイゼン製だね。古いが、手入れはいい。カートリッジの残量は?」

 サイラスはガントレットの側面にある小さな圧力ゲージを確認した。針は目盛りの三分の二あたりを指している。「満タンが5本に装着している分が六割強」

「ヴァルデンに着けば充填所がある。それまで持つなら問題ない」

 女性は書類に何かを書き加え、それからサイラスの顔を見た。実務的な目だ。

「グレイハウンド運輸の配車係、ルース・ベイカーだ。明朝六時に駅舎前集合。列車は朝七時に出発する。報酬は終点到着後に現金で支払う。途中で逃げたら一銭も出ない。死んでも出ない。質問は?」

「他の護衛は?」

「あんたで四人目。全員寄せ集めだが、一人元軍人がいるから、指揮はそいつに任せる。顔合わせは明朝」

「わかりました」

 ルースは頷き、配車表に目を戻した。面接は終わりらしい。サイラスはナイフを鞘に収め、事務室を出た。

 外に出ると、西日が傾き始めた空の下で、建設現場の喧騒がまだ続いていた。蒸気クレーンが鉄骨を吊り上げ、人夫たちがレールの位置を調整し、鍛冶場の炉から赤い火の粉が舞い上がっている。その向こうに、明朝サイラスが乗ることになる列車が停まっていた。

 大きい。

 蒸気馬車とは比較にならない。機関車の車体は黒い鋼鉄で覆われ、先頭の煙突から細く白煙が上がっている。待機中でもエンジンの火は落とさないのだろう、ボイラーのあたりから低い唸りが聞こえてくる。大気圧縮エンジンの特有の音だ。魔核動力のような甲高い共鳴音ではなく、空気を圧し潰すような、重く安定した低周波。機関車の後ろに貨車が四両連結され、最後尾に護衛と作業員用の客車が繋がれていた。

 レールの上に載った鉄の塊が、明日、動く。

 サイラスは線路脇に立ち、機関車の全長を眺めた。ゴードンの複葉機は空に浮くための繊細さがあった。蒸気船には水を押し分ける豪快さがあった。だが鉄道は、それらのどちらとも違う。レールという決められた軌道の上を、ひたすら前だけを向いて走る。方向を選べない代わりに、迷わない。その潔さが、鉄と蒸気の匂いの中に凝縮されている気がした。

 好奇心が、胸の内側で小さく動く。

 感情の譲渡からはかなりの日数が経っている。ドレン村での日々、街道の日雇い、そしてこの建設拠点町の喧騒——経験が積み重なるたびに、感情の器は順調に満たされてきていた。今のサイラスは、新しいものへの興味を素直に感じ取れる。レールの冷たさも、タールの匂いも、エンジンの低い唸りも、千年を生きた体に新鮮な刺激として届いている。

 宿を探す必要があった。

 町の飯場に併設された簡易宿は、一泊0.8ギルス。安くはないが、建設景気で物価が上がっているのだろう。ドレン村の宿が信じられないほど安かったのは、泊まる人間がいなかったからだ。ここでは寝床が足りないくらい人が溢れている。

 狭い二段寝台の上段に荷物を置き、バックパックからヴィルスの圧力計を取り出した。真鍮製の古い型で、目盛りの文字盤は少し褪せているが、針はまっすぐ立っている。飯場の壁に背を預けて、その重みを手のひらで転がす。

 ヴィルスは今頃、まだ陳情書を書いているだろうか。それとも、あの夜の「緊急対応実績」が何かの歯車を動かして、ほんの少しだけ状況が変わっているだろうか。どちらにしても、サイラスにはもう確かめる術がない。通り過ぎた場所のその後を知ることは、放浪者には許されていない贅沢だ。

 圧力計をサイドポケットに戻し、代わりにゴードンのレンチの感触を指先で確かめる。グリップの摩耗した凹みが、指の腹に馴染んだ。旅の荷物は少しずつ増えていく。印刷地図、圧力計、レンチ。それぞれの場所で、それぞれの人間が手渡してくれたもの。重さは大したことがない。しかし、ただの重さではない何かが、バックパックの底に沈んでいる。

 飯場の夕食は、蒸気焼肉——スチーム・パティと呼ばれる、この国の労働者の定番だった。圧縮蒸気で一気に焼き上げた厚切りの肉を、粗挽きの黒パンに挟んで食べる。焦げた脂の匂いと、蒸気が弾ける音と、肉汁が指を伝う感覚。ドレン村のパンと根菜の汁物とは、あまりにも違った。同じ国の中で、片方は肉を頬張り、片方は煮崩れた根菜を分け合っている。

 ドレン村の食堂の老人夫婦の顔が浮かぶ。女将が謝らなかった顔。量が少ないことを、もう謝る段階を過ぎた人間の、静かな諦念。

 サイラスは黒パンの最後の一切れを口に入れ、飯場の席を立ち寝床に戻る。狭い二段寝台の上段で、明日の朝を待った。

 併設されている飯場からはまだ、人夫たちが声を上げている。新しい路線が開通すれば、この町は交通の要衝になる。土地の値段が上がる、仕事が増える、もっと人が来る——「開拓福音教」の信者たちが語る未来予想図は、いつも右肩上がりの曲線だ。機械と蒸気で世界は良くなる。レールを一本延ばすたびに、文明は一歩前進する。その信仰は、少なくともこの町では、まだ生きている。

 窓の外で、夜空に星が瞬き始めていた。建設現場の照明が煌々と灯り、夜間作業が始まる気配がある。この町は眠らない。鉄を打つ音は夜通し続き、明日もまた新しいレールが一本、東へ延びるのだろう。

 サイラスは寝台に横になり、目を閉じた。

 明日の朝、初めて鉄道に乗る。

 千年を生きて、まだ初めてのものがある。その事実が、薄暗い寝台の天井を見上げる目に、小さな光を灯していた。



【客車の揺れと、護衛仲間と、車窓の異変】

 朝の六時に、駅舎前は既に動き始めていた。

 機関士が石炭ではなく触媒と水のタンクを点検し、助手が大気圧縮エンジンのバルブを開く。白煙が煙突から勢いよく噴き上がり、その瞬間、機関車の車体全体がぶるりと震えた。鉄の塊に血が通ったような、重い脈動。昨夜は静かに眠っていた機械が、目を覚ます音だ。

 サイラスが飯場の寝台を出て駅舎前に着いたとき、三人の人間がすでに立っていた。

 一人目は、スチームライフルを肩に担いだ男だった。三十代前半、短く刈り込んだ砂色の髪に、日焼けした四角い顎。軍の放出品らしいカーキ色のコートの襟には、階級章を外した跡の穴が二つ残っている。銃口を低くしたローレディ状態でライフルの持ち方に迷いがない。彼の中ではすでに護衛は始まっているのだ。銃床を肩に当てる角度、引き金から外された位置に添える指、すべてが体に刻まれた動作で、訓練ではなく実戦で身についた所作だと分かる。

 二人目は、小柄な女だった。二十代前半だろうか。革の帽子を深く被り、目元だけが覗いている。背中に負ったセミオートのスチームカービンは、彼女の体格に合わせて銃床が短く切り詰められており、使い込まれた銃把が手に馴染んでいた。猟師の銃だ。軍の規格品ではない。

 三人目は、太った中年の男で、蒸気式の短銃を腰に下げている。商人風の身なりで、護衛というよりは自分の荷物を守るために同行する類の人間に見えた。

 ルース・ベイカーが事務室から出てきて、四人を見回す。

「全員揃ったね。手短に済ませるよ」

 彼女は配車表を片手に、護衛チームの顔合わせを始めた。形式的なものだ。名前と武装の確認。指揮系統の取り決め。

 砂色の髪の男が口を開いた。

「ナッシュ。元連邦陸軍の伍長だ。除隊して三年になる。この手の仕事は慣れている」

 声は落ち着いていたが、周囲を見渡す目には、状況を測る習慣が染みついていた。ルースが「指揮はあんたに任せる」と言うと、ナッシュは頷いただけで異論を挟まなかった。当然のことを確認した、という反応だ。

 小柄な女が短く言った。

「フィオ」

 それだけだった。姓も経歴も語らない。ルースが「武装は?」と聞くと、背中のカービンを軽く叩いて見せた。

「辺境の猟師か」とナッシュが言う。

「元、ね」

 フィオの目がサイラスのガントレットに留まった。鋼鉄の手甲を、帽子の下から数秒間観察してから、口の端だけで笑う。

「近接戦なの。物好きね」

「よく言われる」とサイラスは答えた。

 太った商人風の男はハウルと名乗り、自分は護衛というより輸送の立ち会いだと説明した。ナッシュは「戦闘になったら客車から出るな」とだけ言い、ハウルは素直に頷いた。

 ルースが腕時計を確認する。「七時に出る。乗れ」

 護衛と数名の作業員が最後尾の客車に乗り込む。客車の内装は簡素だった。木製のベンチが向かい合わせに並び、壁には工具箱と救急箱が括りつけてある。窓はあるが、硝子ではなく革の幕が下がっていた。揺れ対策だろう。天井の低い車内に、鉄と油と木材の匂いが染みついている。

 サイラスは窓際の席に座り、革幕を片手で持ち上げた。

 駅舎のホームが見える。ルースが機関士と最後の打ち合わせをしている。鍛冶場の炉から朝一番の火の粉が上がり、人夫たちがもう動き始めていた。この町は昨夜も眠らなかったのだろう。寝台の上で聞いていた鉄を打つ音は、朝になっても途切れていなかった。

 汽笛が鳴った。

 高く、長く、朝の空気を引き裂くような音だ。蒸気馬車の笛とは太さが違う。胸郭の内側に直接響いてくる種類の振動で、飯場の建物の壁板がびりびりと震えるのが見えた。

 そして、列車が動いた。

 最初の一瞬は、何も起きなかったように感じた。音が変わり、車体のどこかで金属が軋み、連結器が引っ張られる鈍い衝撃が座席を通じて腰に届く。それから、窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れ始めた。

 蒸気馬車の発進とは、まるで違う。

 蒸気馬車は機械脚で地面を蹴るから、一歩ごとに体が揺さぶられる。船は波に合わせて三次元的に揺れる。だが鉄道の動きには、どちらにもない滑らかさがあった。レールという二本の線の上を、鉄の車輪が転がっていく。上下の揺れがほとんどない。あるのは、等間隔で刻まれるレールの継ぎ目を越える時の、カタン、カタン、という規則的な振動だけだ。

 速度が上がる。

 景色の流れが速くなり、建設拠点町の仮設の建物が後方に遠ざかっていく。線路の両脇に積まれた砂利が、白い帯のように後ろへ走り去る。風が窓の隙間から吹き込み、サイラスの前髪を揺らした。革幕がばたばたと鳴る。

 カタン、カタン、カタン、カタン。

 レールの継ぎ目が刻むリズムは、一定の間隔を保ったまま速くなっていく。まるで大きな生き物の心拍のようだと思った。蒸気馬車の歩行は不規則で、路面の凹凸で揺れ方が変わる。蒸気船の揺れは波任せだ。だがこのリズムは、人間が設計した間隔で、寸分の狂いなく繰り返される。鉄道というのは、そういう乗り物なのだ。決められた軌道を、決められたリズムで、ただ前に進む。

 速度がさらに増す。車窓の草原が緑の帯になり、遠くの丘だけがゆっくりと動いている。近いものは飛び去り、遠いものだけが残る。それは蒸気船のデッキから見る景色に少し似ていたが、水面ではなく大地が流れていく感覚は、まったく新しいものだった。

 好奇心が、また胸の内側で動く。千年を生きた体が、初めての振動を覚えていく。

「鉄道は初めてか」

 向かいの席からナッシュの声が届いた。サイラスが窓の外を眺める様子を、観察していたらしい。

「ええ、初めてです。辺境ばかり歩いていたもので」

「悪くない乗り物だろう。馬車よりは尻が楽だ」

 ナッシュはスチームライフルの機関部を布で拭きながら言った。軍にいた頃に鉄道での移動は何度も経験しているらしく、車体の揺れに体が自然と適応している。

「この路線は新設だから、レールの状態がいい。古い路線だと継ぎ目がずれて、もっと揺れる」

「詳しいですね」

「軍の輸送で嫌というほど乗った。兵員輸送車は客車より揺れがひどくてな。尻の皮が三枚は剥けた」

 ナッシュの口調は淡々としていたが、冗談を言う余裕があるということは、今のところ状況に緊張していない証拠でもある。

 フィオは通路を挟んだ反対側の席に座り、カービンの手入れをしていた。分解はせず、機関部の圧力バルブを確認し、銃身の汚れを拭い取る程度の作業だ。猟師の習慣だろう。銃は常に撃てる状態にしておく。ナッシュのライフルの手入れが「整備」なら、フィオのそれは「生活」に近い動作に見えた。

「この路線、最近騒がしいという話を聞いた」

 ナッシュが話題を変えた。声の調子は変わらないが、手元の布の動きがわずかに遅くなる。

「騒がしいとは」

「列車や建設資材を狙った襲撃だ。この半年で五件は起きている。連邦はただの野盗だと言っているが——」

 ナッシュは布を畳み、ライフルの銃床に手を置いた。

「俺は違うと思っている。動きが組織的すぎる。ただの野盗なら、まず逃げ道を確保してから襲う。こいつらは違う。退路を断ってでもレールを封鎖しにくる。失うものがない人間の戦い方だ」

「元開拓民、ですか」

 サイラスの問いに、ナッシュは一瞬だけ目を細めた。旅人にしては察しがいい、という顔だ。

「可能性はある。鉄道の敷設で立ち退きをくらった集落はこの沿線にいくつもある。補償は出ているはずだが、額が十分かどうかは別の話だ」

 フィオが手元から顔を上げた。何か言いかけて、やめた。視線だけが一瞬、車窓の外に向かい、すぐにカービンに戻る。

 ハウルが不安そうに身じろぎした。「それで護衛を急募していたわけか」

「そういうことだ」とナッシュは答え、それ以上は語らなかった。

 列車は草原を抜け、なだらかな丘陵地帯に入っていた。車窓の景色が変わり始める。

 最初は気づかなかった。草原に混じって、不自然な空き地が現れたのだ。雑草に覆われた平坦な区画。かつて畑だったものだろう。畝の跡が、草の下にうっすらと残っている。耕されなくなってから、それほど長い時間は経っていない。一年か、二年か。雑草の丈がそれを教えている。

 空き地は一つではなかった。

 列車が進むにつれ、車窓の左右に放棄された農地が増えていく。畑だけではない。農家の廃屋が見え始めた。板壁が傾き、屋根の一部が崩れ落ちた小さな家。柵の杭だけが残り、家畜の姿はない。井戸の周りに雑草が茂り、水汲みの桶が錆びたまま放置されている。

 人が住んでいた場所だ。つい最近まで。

 さらに進むと、景色は一変した。丘陵を切り裂くように、巨大な切り通しが造成されていた。山肌を削り取り、谷を土で埋め、力ずくで平坦な軌道を通した痕跡。切り通しの断面には赤茶色の地層が剥き出しになっており、表面から雨水が細い筋を引いている。削り取られた土砂は谷の底に積み上げられ、かつてそこにあったはずの地形を完全に塗り替えていた。

 線路を通すために、地形そのものを作り変えている。

 その沿線に、さらに多くの廃屋が並んでいた。こちらは農地の放棄とは様相が違う。家の中に家財がそのまま残っているのが見える。窓から覗く食器棚、軒下に吊るされたままの洗濯紐。急いで出ていった痕跡だ。立ち退きの猶予が短かったのだろう。

「うちの村の隣も、ああなった」

 フィオが言った。

 独り言のような声量だった。窓の外を見てはいない。カービンの銃身を握ったまま、手元の布を止めている。

 サイラスはフィオの横顔を見てから、車窓に目を戻した。

 ドレン村を思い出す。連邦の蒸気が届かず、ゆっくりと干上がっていったあの集落。ヴィルスが松葉杖をついて陳情書を書き続けていた場所。あそこは「進歩に取り残された場所」だった。

 窓の外に広がる廃屋の群れは、それとは別の種類の痛みを示している。ここは「進歩に踏み潰された場所」だ。鉄道を通すために土地を収用され、家を追われ、畑を失った人々がいた。連邦の開拓福音は「機械と蒸気で万人に豊かさを」と謳う。しかし万人の中に、この廃屋の住人たちは含まれていたのだろうか。

 どちらも同じ国の中にある。蒸気が届かなくなった村と、蒸気のために潰された村。連邦の進歩が生む光と影は、千年を生きた目にも見覚えのある構図だった。どの時代の、どの国の「進歩」も、こういう足跡を残す。形が変わるだけで、踏まれる側は常にいる。

 列車が切り通しを抜け、再び開けた谷間に出た。

 高い空が広がる。午前の陽光が薄雲を透かし、草原に柔らかな影を落としている。風が谷間を吹き抜け、草が波のようにうねった。

 フィオが窓の外に視線を向けた。何かに気づいたように、目を細める。

 空の高いところに、影があった。

 大きい。雲の下、草原の上を、ゆっくりと泳ぐように移動している。シロナガスクジラに似た流線型の輪郭が、薄い陽光を受けて半透明に輝いていた。

 ナッシュが窓の外を指した。

「ああ、クジラだ」

 特別な声ではなかった。珍しい形の雲を見つけた程度の、日常の延長にある声だ。

 フィオは一瞬だけ空を見上げ、「ふうん」とだけ言って、すぐにカービンの手入れに戻った。興味がないのではなく、見慣れているのだろう。辺境で育った猟師ならば、空にクジラの影が泳ぐ景色を何度も目にしてきたはずだ。

 ハウルが身を乗り出して窓から覗き、「でかいな」と呟いた。「あれを見ると天気が変わるって言うやつがいるが」

「信じるのか?」ナッシュが地図に目を落としながら答えた。

「いや。ただの言い伝えだろう。実際に変わったためしがない」

「同感だ」

 それだけだった。車内の誰もが一瞬だけ空を見上げ、すぐにそれぞれの手元に戻っていく。空飛ぶクジラは、この世界では日常の景色の一部だ。驚くものでも、拝むものでもない。ただ、そこにいる。雲と同じように。

 サイラスだけが、少し長くその影を目で追った。

 シス。識別名SiS-001。異空間の本体が投影する、物理的には干渉できない巨大な幻影。しかしサイラスにとっては、千年来の相棒だ。あの巨体の中に、自分が手放した記憶と感情が収められている。ドレン村の夜のことも、ヴィルスの松葉杖の音も、マルタの包帯の下の目も、いずれシスに渡すことになるだろう。

 シスの影は谷間の風に乗るように、ゆるやかに弧を描いて南へ泳いでいった。やがて薄雲の向こうに紛れ、見えなくなる。

 サイラスは視線を車内に戻した。何事もなかったように、レールのリズムが続いている。

 カタン、カタン、カタン。

 列車は丘陵地帯を過ぎ、山間部に差しかかっていた。車窓の緑が濃くなり、斜面が線路の両側にせり上がってくる。日差しが陰り、車内の温度が少し下がった。トンネルこそないが、深い切り通しがいくつも続き、視界が狭まる区間が増える。

 ナッシュが地図を畳み、ライフルの安全装置を確認した。フィオが帽子のつばを指で押し上げ、窓の外を注視し始める。猟師の目だ。何かの気配を追っている。

 二人の空気が変わったことに、サイラスも気づいていた。左手のガントレットの手首部分を、無意識に握り締める。圧力ゲージの針は六割強のまま。昨夜から変わっていない。

 機関車の汽笛が、短く二回鳴った。

 それまでの長い汽笛とは、明らかに違う音だ。短い、警告の意味を持つ信号。

 ナッシュが立ち上がった。

「減速している」

 レールの継ぎ目のリズムが遅くなっていた。カタン、カタン、という間隔が広がり、車体が前のめりに揺れる。ブレーキの摩擦音が車輪の下から響いてきた。

 客車と貨車を繋ぐ連結部の扉が開き、作業員の一人が顔を出した。

「機関士から伝言だ。前方のレールに障害物。停車する」

 ナッシュの目が鋭くなる。

「障害物の種類は」

「わからない。カーブの先で、まだよく見えない」

 ナッシュはフィオを見た。フィオは既にカービンを手に立ち上がっている。銃身の布はいつの間にか外されていた。

「ハウル、車内に残れ。窓から顔を出すな」

 太った男が頷く。顔色は青いが、指示には従った。

 ナッシュがサイラスに目を向ける。

「旅人。近接型だと言ったな」

「ええ」

「なら前に出ろ。俺とフィオが後ろから援護する。何もなければそれでいい。何かあれば——」

 ナッシュはライフルの安全装置を外した。乾いた金属音が、減速する車内に小さく響く。

「その時は、仕事だ」

 列車の速度がさらに落ちる。車窓の景色がゆっくりになり、斜面の木々が一本一本見えるようになった。レールのリズムが途切れ途切れになり、やがて——

 鋼鉄の軋みとともに、列車が停止する。

 カタン、という最後の一音が消え、代わりに山間の静寂が車内を満たした。鳥の声。風が斜面の木の葉を揺らす音。そして、機関車のエンジンが低く唸り続ける振動だけが、足元から伝わってくる。

 フィオが窓の革幕をわずかに持ち上げ、外を窺った。

「前方、カーブの先。何か倒れてる」

 ナッシュが客車の扉に手をかけた。

 空気が、変わる。

 建設拠点町の喧騒も、レールの規則正しいリズムも消えた山間で、列車は沈黙している。その沈黙の質が、サイラスの千年の経験に引っかかった。戦場の前の静寂を、この体は知っている。空気が張り詰め、音が消え、次の瞬間に何かが弾けるための溜めの時間。

 サイラスは腰の後ろに手を回し、ナイフの柄を確認した。

 革の巻かれた柄が、手のひらに馴染む。



【鉄路の封鎖と、火花と、追われた者の顔】

 カーブの先に、それはあった。

 レールの上に倒された二本の丸太と、その手前で引き剥がされた枕木。枕木を固定していた犬釘が散乱し、レールの片方が不自然な角度に歪んでいる。倒木だけなら自然災害の可能性もある。だが枕木を外し、犬釘を抜き、レールを歪ませるには、道具と時間と意図が要る。

 これは事故ではない。

 ナッシュは客車から降りた瞬間にそれを読み取っていた。膝をついてレールの状態を確認する素振りさえ見せず、即座に振り返る。

「罠だ。全員、車両から離れるな」

 その声が終わるより先に、銃声が来た。

 乾いた破裂音が二発、左の斜面から。続いて右の斜面からも。弾丸が貨車の鋼板に当たり、甲高い金属音を立てて跳ねた。

 フィオの動きは速かった。客車の扉の枠に手をかけ、屋根の縁を掴んで一息に身を引き上げる。小柄な体が屋根の上に消えたのは、二発目の銃声が山間に反響し終わる前のことだ。

 ナッシュは貨車の陰に身を寄せ、ライフルを構えた。斜面の木々の間に動く影を捉え、照準を合わせている。

「サイラス、前だ。機関車の方から回り込もうとしてる」

 左の斜面を駆け下りてくる影が三つ。列車の先頭——機関車の方角から包囲しようとしている。機関車を制圧すれば、列車は動かせなくなる。統率の取れた動きだった。野盗の仕業ではない。

 サイラスは客車のステップを蹴って地面に降り、貨車の連結器の隙間をくぐって前方へ走った。砂利を踏む足音、自分の呼吸、心拍。そしてガントレットの圧力ゲージが視界の端で針を揺らしている。六割強。増幅打撃を使えるのは、残量から逆算して十回前後。一発ごとにカートリッジの蒸気が減っていく。無駄撃ちはできない。

 一人目は貨車の影から飛び出してきた。

 三十代ほどの男で、日焼けした顔に覆面の布を巻いている。手にしたスチームライフルは旧式の型で、銃身に補修の溶接痕がある。軍の正規品ではない。廃棄処分品か、闇市で手に入れた改造品だろう。

 男がライフルの銃口を向けた。サイラスとの距離は五メートル。近い。

 セミオートの蒸気銃は、引き金を引いてから弾丸が発射されるまでに一瞬の間がある。蒸気圧で弾を押し出す構造上、火薬式の銃器よりわずかに遅延が生じる。その間を、サイラスは知っている。

 銃口が火を噴く前に、踏み込んだ。

 ガントレットの拳を振り上げながら、手首の排出口から蒸気を噴射する。シュッという短い排気音とともに、圧縮蒸気が拳の軌道に推進力を上乗せした。

 ガンッ。

 鋼鉄の拳が男のライフルの機関部を下から叩き上げる。機関部のパーツがひしゃげる手応えがあり、ライフルが宙に跳ねた。男が叫ぶ。サイラスは振り抜いた左手の勢いのまま体を回転させ、右手でナイフの柄を引き抜きながら、刃の腹で男の側頭部を打った。峰打ちだ。男の体が崩れ落ちる。

 ガントレットの指の関節から、使用済みの蒸気が白く噴き出した。排熱だ。打撃力を増幅させた後は必ずこの排気が入る。拳を握り直し、関節部の排出口が閉じるのを確かめてから、次に備える。

 二人目が来た。

 こちらは貨車の屋根の縁に取り付いていた。斜面から屋根に登り、上からライフルを構えている。サイラスは連結器の下に体を投げた。砂利の上を転がり、頭上で銃声が鳴る。弾丸が連結器の鋼材を叩き、オレンジ色の火花が散った。

 連結器の下は狭い。車軸が頭の上で停止しており、車輪とレールの隙間から風が吹き込んでくる。鉄と油の匂いが濃い。体を捻りながら反対側へ這い出し、貨車の側面に打ち込まれた荷物固定用のステップに足をかけた。一段、二段。屋根の縁に手をかけて体を引き上げる。

 上に出る瞬間、貨車の荷を固定しているロープが視界を遮った。太い麻縄が貨車の幅いっぱいに張られ、覆いの帆布を押さえている。邪魔だ。左手で縁を掴んだまま、右手のナイフでロープを一閃する。刃が繊維を断ち、張力を失ったロープが弛んで落ちた。

 屋根の上の男がサイラスに気づいて銃口を振り向ける。が、ロープが弛んだことで足元の帆布がずれ、男の体勢が崩れた。その一瞬。ナイフの柄頭で男の手を打ち、ライフルを弾き落とす。続けてガントレットの手の甲で顎を叩いた。増幅打撃は使わない。人間相手に全力の蒸気打撃を当てれば、顎が砕ける。加減した一撃でも、男は白目を剥いて屋根の上に倒れた。

 屋根の上に立つと、風が強かった。地上では感じなかった横風が、貨車の高さでは体を押してくる。足元の鋼板は走行中なら熱を持っているはずだが、停車した今はひんやりと冷たい。ガントレットの圧力ゲージに目をやる。針が少し下がっていた。五割強。まだ余裕はある。

 貨車の屋根から、一瞬だけ戦場の全景が見えた。

 機関車が先頭に停まり、貨車四両の向こうに客車。斜面の左右から、さらに数人の影が列車に向かって降りてきている。全部で十人前後。散発的な銃声の合間に、ナッシュのライフルの排気音——ガシュン、という蒸気の抜ける重い音——が等間隔で響く。正確な応射だ。弾を当てにいくのではなく、斜面の木々の幹に弾痕を刻んで相手の動きを止めている。弾薬を節約しながら足止めする、軍式の制圧射撃。

 フィオは客車の屋根にいた。伏射の姿勢でカービンを構え、斜面の上方を狙っている。発砲の間隔が長い。一発ずつ、確実に当てにいく猟師の射撃だ。彼女の射線の先で、斜面を駆け下りていた影が一つ、体勢を崩して転がった。足を撃たれたらしい。殺さない射撃。フィオもまた、加減をしている。

 三人目が、機関車の方角から来た。

 若い。二十歳そこそこの、痩せた男だ。手にしているのはライフルではなく、農具を研ぎ直したような鉈。銃すら持っていない。装備が行き渡っていないのだ。

 男はサイラスを見て足を止めた。貨車の屋根の上に立ち、ガントレットから蒸気を噴き出す旅人。一瞬の逡巡が、その目に浮かんでいる。

 サイラスは屋根から飛び降りた。砂利の上に着地し、距離を詰める。男が鉈を振り上げた。振り下ろすまでの動作が遅く、大きい。素人の振り方だ。農具を振る要領で刃物を扱っている。

 ナイフの刃で鉈の腹を受け、軌道を逸らす。金属がぶつかる硬い音。手首を返して鉈の柄を絡め取り、ひねり上げると、男の握力が負けて柄が手から離れた。鉈が砂利に落ちる。

「逃げろ」とサイラスは言った。

 男は後ずさったが、逃げなかった。歯を食いしばり、拳を握っている。戦い慣れた人間の手ではない。土を耕してきた手だ。

 そこに、銃声。

 右肩を、熱いものが貫いた。

 衝撃が一拍遅れて来る。体が半回転し、砂利の上に膝をついた。右肩の前面から入り、背面に抜けている。貫通。骨には当たっていない。肩の筋肉を撃ち抜かれた痛みが、熱い金属を押し付けられたように広がる。

 斜面の上方からの一発だった。狙撃ではない。乱戦の中で当たった流れ弾だ。

 痛みは鋭い。だがサイラスの体は止まらなかった。膝をついたまま姿勢を立て直し、左手のガントレットで肩口を押さえる。指の隙間から、血が数滴、砂利に落ちた。

 心臓の魔核が脈を打つ。

 修復が始まっている。大気中のマナを吸い込み、断裂した筋繊維を繋ぎ直し、破れた血管を塞いでいく。痛みは引かないが、出血が鈍りつつあった。数分もすれば、弾の通り道は塞がる。

 立ち上がる。

 鉈の男が、サイラスの肩口を見て固まっていた。撃ち抜かれた場所だ。血が滲み、服に穴が開いている。それなのに立ち上がった人間を、理解できない目で見ている。

「行け」

 低い声で言うと、男はようやく踵を返して斜面を駆け上がっていった。

 フィオのカービンが、沈黙していた。

 客車の屋根という高所から——スコープ越しに——フィオはサイラスの被弾を見ていたはずだ。肩を撃ち抜かれた人間が、数秒後に立ち上がって戦闘を続行する。猟師は獲物の動きを見極める目を持っている。異常な動きをする獲物を、フィオは見逃さない。

 カービンの照準がサイラスの上を通過するのが、空気の動きで分かった。フィオは何も言わない。何も聞かない。ただ、あの帽子の下の目が、サイラスの肩口を見ている。血が滲んでいるのに、動きが鈍っていない人間の肩を。

 構っている暇はなかった。

 列車の前方から、新たな足音が聞こえる。砂利を踏む音。一人だけだ。走っていない。歩いている。他の襲撃者たちとは、動きの質がまるで違う。

 四十代の男が、機関車の脇から姿を現した。

 日に焼けた顔。深い皺が額と目尻に刻まれ、顎には無精髭が伸びている。体格は大きいが、筋肉の付き方が軍人のそれではない。農民の体だ。鋤を握り、種を撒き、収穫を束ねてきた腕。その手が、旧式のスチームライフルを握っている。銃口は地面を向いていた。

 男は丸太の手前で立ち止まり、斜面に散った仲間たちに向かって声を上げた。

「撃つな」

 銃声がまばらになり、止んだ。男の声には、命令ではなく、責任の重みがあった。この集団をまとめている人間だ。

 ナッシュのライフルが、貨車の陰からその男に向いている。フィオのカービンも、屋根の上から照準を据えているだろう。静寂が、列車の周囲に降りた。機関車のエンジンだけが、低く唸り続けている。

 男がサイラスに向き直った。

「積荷を寄越せ」

 怒鳴り声ではなかった。疲れた声だ。声帯が震えているのは、恐怖ではなく、長い時間をかけて溜め込んだ何かが溢れかけているからだろう。

「それだけでいい。誰も殺したくない」

 サイラスは男の顔を見た。

 怒りがある。しかしその怒りは、サイラスに向けられたものではなかった。もっと大きな、もっと遠い、手の届かない何かに対する怒り。そしてその下に、深い疲弊が沈んでいる。長い間、何かに耐え続け、耐えきれなくなった人間の顔だ。

 ヴィルスの顔が浮かんだ。ドレン村の区長。松葉杖をつき、二年間陳情書を書き続けた老人。あの顔には、折れない意志と乾いた覚悟があった。目の前の男の顔には、意志が怒りに変質し、怒りが暴力の形を取った跡がある。追い詰められた結果が違うだけで、追い詰められたという事実は同じだった。

「名前は」とサイラスは聞いた。

「ダグラス」男は答えた。名を隠す気がないのは、もう後がないことを知っているからだろう。「ダグラス・ハーヴェイ。この沿線で三十年、麦を作ってきた。去年、鉄道用地として収用された。補償金は半年分の食い扶持にもならない額で、代わりに寄越された土地は二十キロ北の岩だらけの荒地だ。麦は育たない」

 ダグラスの目が、一瞬だけ背後の斜面に向いた。そこに仲間がいる。かつて同じ畑で隣り合わせに麦を育てていた人間たちが。

「家族を食わせなきゃならない。子供がいる。他にやり方が思いつかなかった」

 ダグラスの手が震えていた。ライフルを握る右手ではなく、何も持っていない左手の方だ。拳を握ったり開いたりしている。鋤を握っていた時の癖が、抜けないのかもしれない。

 その言葉が、山間の空気の中に消えていく。列車のエンジンが低く唸り、鳥の声が遠くで鳴いている。ダグラスの背後に見える斜面には、先ほどフィオに足を撃たれた男がまだ倒れていた。仲間が一人、駆け寄って肩を貸している。

 背後で、ナッシュの声が飛んだ。

「投降しろ。武器を捨てて両手を上げるなら、ヴァルデンの当局に引き渡す。抵抗するなら——撃つ」

 軍人の声だ。感情を排した、手続きとしての警告。正しい判断であり、正しい手順だ。

 ダグラスの背後で、斜面の仲間たちが銃を構え直す音がした。投降する気はないのだろう。空気が再び張り詰めた。ナッシュのライフルの排気口から、白い蒸気が細く漏れている。引き金にかかった指が、次の一秒を待っている。

 一発が引き金になる。どちらかが撃てば、全員が撃つ。そうなれば、人が死ぬ。

 サイラスは、一歩前に出た。

 ナッシュとダグラスの間に、体を入れる。

「待ってください」

 両方に向かって言った。ナッシュに。ダグラスに。斜面の名もない襲撃者たちに。

 右肩の傷はまだ完全には塞がっていない。服の穴から血が滲み、ガントレットの指先が赤く濡れている。それでも、両手を広げた。

 右手にナイフを持ったままだったことに気づき、刃を返して砂利の上に突き立てる。

「少しだけ、時間をください」



【積荷の一部と、手錠と、フィオの沈黙】

 時間をくれ、と言ったサイラスに、ナッシュは銃口を下げなかった。

「何をする気だ」

「話を聞くだけです。それだけで済むかもしれない」

 ナッシュはサイラスを見た。撃ち抜かれた右肩から血を滲ませたまま、両手を広げて二つの銃口の間に立っている旅人を。数秒の沈黙があり、ナッシュはライフルの銃口をわずかに下げた。下ろしたのではない。照準をダグラスの胸から足元に移しただけだ。

「三分だ。それ以上は待てない」

 サイラスはダグラスに向き直った。

 ダグラスの銃口は、まだ地面を向いている。構える気がないのか、構えられないのか。その目はサイラスの右肩を見ていた。血が滲んでいるはずの場所を。

「撃たれてたな、あんた。なのに立ってる」

「体質です」

 ダグラスは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、それ以上は追わなかった。今はそれどころではないのだろう。

「さっき言いかけていたことを、聞かせてください」

「聞いてどうする。あんたは護衛だろう。俺たちを追い払う側の人間だ」

「護衛です。でも今は、銃を降ろしてる」

 砂利に突き立てたナイフが、午後の光を受けて鈍く光っている。サイラスはそれに触れなかった。

 ダグラスは少しの間、サイラスの目を見ていた。値踏みではなく、言葉を出していい相手かどうかを測る目。それから、ぽつりと話し始めた。

「この沿線に、七つの集落があった。どこも開拓民の入植地で、三十年、四十年かけて荒地を畑にした。連邦が鉄道を通すと決めた時、測量隊が来て、杭を打って、ここからここまでが用地だと線を引いた。俺たちの畑の上にな」

 声は低く、抑えられていた。怒鳴るためのエネルギーすら、もう残っていないのかもしれない。

「補償の話はあった。金額も提示された。だが、三十年分の畑の値段が、半年分の食い扶持と同じだと言われて、誰が納得する。代替地も見に行った。二十キロ北の荒地だ。水が出ない。表土が薄くて、鋤が岩に当たる。あそこで麦を育てるには、また三十年かかる」

 ダグラスの左手が、また拳を握ったり開いたりしていた。鋤を握る癖。三十年間、毎日繰り返してきた動作の残像が、銃を持つ生活になっても消えない。

「陳情はした。連邦の窓口に書類を出した。三回出した。返事は来なかった。四回目を出そうとした時には、もう畑の上をレールが走っていた」

 サイラスは黙って聞いていた。

 ダグラスの声は、語るにつれて低くなっていく。怒りが消えたのではない。怒りの下にある、もっと深い層の感情が表面に出てきているのだ。悔しさ。無力感。そしてそれらを怒りに変えなければ、家族を食わせるための行動に移れなかった、という事実への自覚。

「最初は嘆願だけだった。次に抗議した。その次は、道をふさいで測量隊を追い返した。それでも列車は走った。走ったんだ。俺たちの畑の上を」

 解決策は持っていない。この場で言える言葉で、ダグラスの三十年が返ってくるわけではない。連邦の土地収用制度を変える力も、補償金を上乗せする権限も、サイラスにはない。千年を生きた放浪者にできるのは、目の前の人間が語る言葉を、逃げずに受け取ることだけだ。

 ドレン村のヴィルスは、法の内側で戦い続けた。陳情書を書き、制度の枠組みの中で粘った。ダグラスは法の外側に出た。銃を取り、列車を止め、積荷を奪おうとしている。どちらが正しかったかは、サイラスには言えない。ただ、どちらも追い詰められていた。それだけは同じだ。

「子供は何人いる」

「三人。一番下が六つだ」

 六歳。ドレン村で、路地の石に絵を描いていた子供たちと同じくらいの年齢だろう。

 三分が過ぎようとしていた。ナッシュの気配が背後で動く。

「時間だ」

 ナッシュの声は、変わらず感情を排していた。しかし三分を計っていたということは、サイラスとの約束を守ったということでもある。軍人は契約を守る。

 サイラスはダグラスに向き直った。

「積荷は渡せません。僕は護衛として雇われている。でも——」

 言葉を切り、斜面を見上げた。ダグラスの仲間たちが、まだ銃を構えている。その中に、先ほどフィオに足を撃たれて倒れている男がいた。仲間に肩を貸されながら、痛みに顔を歪めている。

「負傷者を連れて引いてください。今ならまだ間に合う」

 ダグラスの顔に、苦い色が浮かんだ。

「引いたところで、明日がない。食うものがない。また同じことを繰り返すだけだ」

「それでも、今日ここで人が死ぬよりはいい」

 サイラスの声は、静かだった。説得でも懇願でもない。事実を述べる声だ。

 ダグラスはしばらくサイラスを見ていた。それから、斜面の仲間たちに顔を向けた。

「引け」

 短い言葉だった。仲間たちの間に動揺が走る。一人が「ダグラス」と呼びかけた。

「引けと言っている。動ける奴は動けない奴を担げ。山に入る」

 ダグラスの声に、怒りも諦めもなかった。ただ、責任があった。この集団を率いている人間が、撤退を選んだ。それだけのことだ。

 斜面の影が動き始めた。銃を下ろし、負傷者に手を貸し、木々の間に消えていく。しかし全員が動けたわけではない。フィオに足を撃たれた男と、サイラスに峰打ちで倒された二人が、列車の脇に残されていた。

 ダグラスは残された仲間を見た。連れていけないことを理解している目だった。

「すまん」

 それだけ言って、ダグラスは背を向けた。斜面を登り始める。銃を肩に担ぎ直す動作が、鋤を担ぐ仕草に似ていた。山の木々が、彼の背中を飲み込んでいく。

 残された三人をナッシュが手際よく拘束した。貨車に積まれていた荷造り用のロープを使い、手首を後ろに回して縛る。軍式の結び方だ。フィオに足を撃たれた男には、客車の救急箱から包帯を取り出して応急処置を施した。ナッシュの動作には、捕虜に対する扱いの手順が染みついている。敵を拘束し、治療し、後方に送る。感情ではなく手続きとして行う一連の動作だ。

「ヴァルデンに着いたら当局に引き渡す。供述は向こうで取ればいい」

 ナッシュはそう言い、サイラスに目を向けた。異論があるなら聞く、という目だ。

「それでいいと思います」

 サイラスに異論はなかった。ナッシュの判断は正しい。法を破った人間を法の手に委ねる。護衛の職務として、それ以上でも以下でもない。ダグラスの事情がどうあれ、この三人を山に逃がすのは護衛の仕事ではない。

 列車の修復が必要だった。

 レールの上の丸太と、歪んだレール。引き剥がされた枕木。これを何とかしなければ、列車は動かない。機関士と作業員が前方に集まり、状況を確認し始めた。

 サイラスはナイフを砂利から引き抜き、鞘に収めてから、丸太の方へ歩いた。

「手伝います」

 機関士が頷いた。作業員が二人、丸太にロープをかけている。サイラスは左手のガントレットで丸太の端を掴み、持ち上げた。生木の丸太は重い。一人では動かせないが、ガントレットの鋼鉄の指が木の表面に食い込み、滑りを防いでくれる。作業員と二人がかりで、丸太を線路の脇に転がした。

 二本目の丸太も同様に除けた後、歪んだレールの修正にとりかかる。枕木を元の位置に戻し、犬釘を打ち直す作業だ。ナイフの刃を使って、枕木に残った犬釘の折れた根元をこじ出す。刃渡り三十センチの大型ナイフは、こういう時に工具として重宝する。ナックルガードに手をかけ、てこの要領で力をかけると、折れた釘が枕木から抜けた。アイゼン・ギルドの炭素鋼は頑丈で、この程度の負荷では刃こぼれしない。

 歪んだレールの位置を微調整する際には、ガントレットが活きた。鋼鉄の指でレールの端を掴み、作業員がスチームジャッキで持ち上げた隙間に枕木を滑り込ませる。素手なら火傷するほど摩擦熱を持ったレールの表面も、ガントレット越しなら問題ない。戦闘用のガジェットだが、重量物を扱う作業にはそのまま転用が利く。

 作業員がスチームハンマーで新しい犬釘を打ち込んでいく間、サイラスはガントレットの指でレールの歪みを確かめた。完全には直っていないが、低速なら通過できる程度には戻っている。機関士が目視で確認し、「徐行なら行ける」と判断を下した。

 修復作業の間、フィオは客車の屋根から降りてこなかった。

 上からずっと周囲を警戒していたのだろう。ダグラスの仲間が引き返してこないとも限らない。カービンを膝に置いた姿勢で、斜面の木々に目を配り続けている。

 作業が終わり、サイラスが客車に戻ろうとした時だった。

 フィオが屋根の縁からするりと降りてきた。猫のように軽い着地音。帽子のつばの下から、サイラスの右肩を見ている。

「肩、撃たれてたよね」

 声は低く、平坦だった。問い詰める調子ではない。確認している。

 サイラスは右肩に目をやった。服には穴が開いている。弾が入った穴と、抜けた穴。布の周囲に血の染みが残っているが、乾き始めていた。その下の肌には、もう傷がない。弾が通った筋肉は完全に塞がり、新しい皮膚が穴の内側を覆っている。服をめくらなくても、フィオの目には分かるだろう。動きが鈍っていないことが、何よりの証拠だ。

「体質です」

 いつもの一言。バレストルでも、ドレン村でも、同じ言葉で切り抜けてきた。

 フィオはしばらく黙っていた。カービンを背中に回し、帽子のつばを指で押し上げる。目が露わになった。猟師の目だ。獲物を見定める時の、冷静で、正確で、何も見逃さない目。

「便利な体質ね」

 それだけ言って、フィオは踵を返した。追及しない。問い詰めない。ただ、背を向ける瞬間に見えたその目には、「覚えておく」という種類の光があった。忘れない目だ。千年の旅の中で、何度か見たことがある。サイラスの秘密に触れた人間が見せる、あの特有の目。大抵は、それきり会わなくなる。

 フィオは客車に乗り込み、自分の席に座ってカービンの手入れを再開した。何事もなかったかのように。

 列車の修復が完了し、機関士が汽笛を短く一回鳴らした。出発の合図だ。

 全員が客車に乗り込む。拘束された三人は客車の奥に座らされ、ナッシュが対面で見張りについた。足を撃たれた男は包帯の上から痛みに顔をしかめているが、命に別状はない。残りの二人は意識が戻っており、俯いたまま黙っている。

 列車がゆっくりと動き出した。

 修復箇所を徐行で通過する。レールの継ぎ目が不規則な音を立て、車体が左右に微かに揺れた。完全な修復ではない。だが列車は止まらず、徐行区間を抜けると、少しずつ速度を上げていく。

 カタン、カタン、カタン。

 レールのリズムが戻ってきた。往路と同じ、等間隔の規則的な振動。決められた軌道を、決められたリズムで、前に進む。

 車窓の外を、夕暮れの光が染め始めていた。

 西の空が橙色に燃え、山並みのシルエットが黒く浮かび上がっている。ダグラスたちが消えていった山だ。あの斜面のどこかで、ダグラスは負傷した仲間を抱えて歩いているのだろう。明日の食い扶持のあてもなく。三人の子供が待つ場所へ帰る道を探しながら。

 ナッシュが、不意に口を開いた。

「さっきの判断——間に立ったこと——正しかったのかどうかは分からない」

 サイラスは窓から目を離し、ナッシュを見た。ナッシュはライフルの機関部を布で拭いている。いつもの整備動作だ。目は手元にあり、サイラスを見ていない。

「だが、あれで誰も死ななかった。それだけは事実だ」

 軍人らしい物言いだった。過程を評価せず、結果だけを述べる。正しかったかどうかには踏み込まず、起きたことだけを認める。

「ありがとうございます」とサイラスは言った。

 ナッシュは答えなかった。布でライフルの銃身を拭き続けている。

 サイラスは窓の外に目を戻した。

 夕暮れの山並みが、列車の速度に合わせて後方に流れていく。ダグラスの顔が、まだ網膜に残っている。農民の手。鋤を握る癖が抜けない左手。三十年の畑が、一本のレールの下に消えた男。

 連邦の鉄道は走り続ける。

 この列車が走るレールの下に、ダグラスの麦畑がある。その事実を知った上で、サイラスはこの列車に乗っている。護衛として報酬を受け取り、ヴァルデンへ向かう。それが矛盾だとは思わない。ただ、知っている。轍の下に踏み潰されたものがあることを。

 カタン、カタン、カタン。

 レールのリズムが、夕暮れの車内に響き続けていた。



【終着駅の雑踏と、報酬の紙幣と、次の灯り】

 ヴァルデンの夜景は、列車の窓越しに見えた時点で、これまでの旅路とは別の世界だった。

 最初に気づいたのは光の量だ。車窓の向こうに、橙色と青白い光が入り混じった帯が地平線に沿って広がっている。ドレン村では星の方が明るかった。建設拠点町では照明が煌々と灯っていたが、あれは現場を照らすための実務的な光だ。ヴァルデンの光は違う。蒸気灯が通りを白く照らし、酒場の窓からは暖色の光が溢れている。光が光を呼び、闇を押し退けて街全体が発光しているように見えた。

 列車が終着駅のホームに滑り込んだのは、日没から一時間ほど経った頃だった。

 ホームに降りた瞬間、音と熱と匂いが一度に押し寄せてくる。蒸気機関車のブレーキが最後の軋みを上げ、ホームの蒸気灯が白い光を落とし、行き交う人々の足音と声が反響する。建設拠点町の喧騒が「現場の音」だったとすれば、ヴァルデンの騒音は「都市の音」だ。機械の駆動音、人の声、馬車の車輪、どこかで鳴っている音楽、鋳物屋の金槌——それらが層になって空気を振動させている。

 駅舎は仮設ではなかった。煉瓦造りの壁に真鍮の装飾が施され、天井にはガス灯のシャンデリアが吊り下がっている。待合室のベンチは木製だが磨かれており、壁面には連邦鉄道網の路線図が大きく掲示されていた。ヴァルデンを中心に、放射状に伸びる路線が描かれている。この街は鉄道網のハブだ。東西南北から線路が集まり、人と物資がここを経由して大陸中に散っていく。

 ルース・ベイカーがホームで待っていた。

 配車表を抱えた姿は建設拠点町の事務室で見た時と変わらないが、ヴァルデンの蒸気灯の下で見ると、旅の疲労が顔に出ている。それでも目は実務的なままだった。

「到着確認。積荷の検品は明朝。護衛の仕事はここまで」

 ルースは封筒を四つ用意していた。一人ずつ名前を呼び、報酬を手渡していく。

「サイラス・ハリソン」

 封筒を受け取った。中身を確認する。二十ギルス分の紙幣。十ギルス紙幣が一枚と、五ギルス紙幣が二枚。指先に、歯車の凹凸が触れた。GSN紙幣の偽造防止に織り込まれたアイゼン製の精密歯車だ。紙幣を光に透かすと、歯車の影が浮かぶ。小さな歯車が、紙の中で正確な形を保っている。

 二十ギルス。ドレン村を出た時の所持金が2GSN弱だったことを思えば、十倍になった計算だ。しかし大陸間渡航には程遠い。飛行船の三等客室でも片道百ギルスは下らないはずで、路銀と合わせれば二百は要る。まだ十分の一だ。

 封筒をバックパックの内ポケットにしまう。紙幣の薄い重みが、旅の荷物に加わった。

 拘束された三人の襲撃者は、ホームの端でナッシュが連邦の警備兵に引き渡していた。書類を交わし、事情を簡潔に説明している。足を撃たれた男は担架に乗せられ、残りの二人は手錠をかけられて警備兵に連行されていく。彼らがこの後どうなるのかは、サイラスにはわからない。連邦の法に基づいて裁かれるのだろう。ダグラスのことを証言するかもしれないし、しないかもしれない。どちらにしても、ダグラスの畑が戻ることはない。

 引き渡しを終えたナッシュが、サイラスの方へ歩いてきた。

 ライフルを肩に担ぎ、カーキ色のコートの襟を立てている。ホームの蒸気灯の下で見ると、四角い顎の輪郭がいっそう角張って見えた。

「ここで別れだ」

「ええ。お世話になりました」

「世話はしていない。仕事をしただけだ」

 ナッシュらしい言い方だった。サイラスは小さく笑い、手を差し出した。ナッシュは一瞬だけ間を置いてから、その手を握った。軍人の握手だ。短く、強く、余韻を残さない。

「縁があれば、また」

 ナッシュはそれだけ言い、ホームの出口に向かって歩き去った。振り返らない。軍人は別れ際に振り返らないものなのか、あるいはナッシュ個人の癖なのか。どちらでもいい。背中に語らせる種類の人間だ。

 フィオは、いつの間にかサイラスの横に立っていた。

 気配がなかった。猟師の足音だ。革の帽子を被ったまま、カービンを背中に負い、サイラスの顔ではなく、駅舎の出口の方を見ている。

「あなたの体質のこと、誰にも言わない」

 フィオの声は、第四節の「便利な体質ね」と同じ平坦さだった。事実を述べている。約束ではなく、報告に近い口調。

「でも、気をつけて」

 それだけ言って、フィオは歩き出した。帽子のつばが蒸気灯の光を遮り、目元は見えなかった。小柄な背中がホームの人混みに紛れ、消えていく。追いかける理由はない。

 千年の旅の中で、何度か見たことがある光景だ。秘密に触れた人間が、追及せずに去っていく。フィオの「覚えておく」目と、「誰にも言わない」という言葉。どちらも本当だろう。彼女は嘘をつく種類の人間には見えなかった。ただ、忘れもしない。それは、サイラスにとって一つのリスクだ。

 フィオとこの先再び会うことがあるのか。大抵は、それきりだ。

 ホームを出ると、ヴァルデンの街が目の前に広がった。

 規模が違う。ドレン村の百数十人、建設拠点町の数百人とは桁が違う人の密度。通りを埋める人波、蒸気馬車が行き交う舗装路、三階建て四階建ての煉瓦造りの建物が通りの両側に並び、その壁面にネオン管の看板が光っている。酒場、宿屋、工具店、仕立屋、蒸気カートリッジの充填所、郵便局——看板の文字が次々に目に飛び込んでくる。

 空気が濃い。蒸気と排煙と人の体温が混ざり合い、通りの上に薄い霞を作っている。頭上を走る蒸気パイプは太く、継ぎ目から蒸気が漏れるような粗末さはない。ドレン村のパイプとは別の文明のものだ。ここでは蒸気は贅沢品ではなく、空気のように当たり前に流れている。

 エーテルガルド連邦の都市部。「光輝く摩天楼」の入口がここだ。

 辺境とのコントラストが鮮烈だった。ドレン村では蒸気ランプ一つの光で食堂を照らしていた。建設拠点町では蒸気クレーンの火花が一番明るい光源だった。ここでは光が余っている。通りの蒸気灯が路面を染め、建物の窓という窓から灯りが漏れ、蒸気灯の柱が十メートル間隔で並んでいる。暗がりを探す方が難しい街だ。

 人々の服装も違う。辺境の作業着や泥のついたブーツではなく、仕立てのいいコートや磨かれた革靴が目に入る。通りを歩く女性の帽子には蒸気灯の光が反射し、紳士のステッキの先端には蒸気で回転する小さな装飾が付いている。ガジェットが実用品ではなく装飾品になる街。それが都市というものなのだろう。

 サイラスは通りを歩きながら、目で仕事を探した。放浪者の習慣だ。街に着いたらまず稼ぎ口を探す。掲示板、酒場の噂話、看板の求人——手がかりはどこにでもある。

 通りの奥から、音が聞こえてきた。

 歓声だ。大勢の人間が同時に声を上げている。金属が打ち合わされる音。蒸気が噴出する鋭い音。そして、何か重いものが地面に落ちる鈍い衝撃。

 匂いも変わった。通りの蒸気と排煙に混じって、汗の匂いが流れてくる。大量の人間が一箇所に集まっている時の、熱気と興奮が凝縮された匂い。

 通りの角を曲がると、大きな建物が見えた。木造と煉瓦の混成構造で、二階建ての円形に近い造り。入り口の上に掲げられた看板には、ガントレットの絵が描かれていた。鋼鉄の拳を握り締めたガントレットが、蒸気を噴き出している図案。その下に文字がある。

「ヴァルデン蒸気闘技場——毎夜開催——挑戦者求む」

 歓声がまた上がった。建物の中から、観客の熱狂が壁を振るわせて漏れ出してくる。

 サイラスは看板のガントレットの絵を見上げ、それから自分の左手に目を落とした。アイゼン・ギルド製の無骨な手甲。旅の擦り傷が刻まれた鋼鉄の表面。圧力ゲージの針は、列車修復で使った分を差し引いても、まだ四割ほどを指している。ヴァルデンに充填所があるとルースが言っていた。

 闘技場。ガントレットを使った格闘の興行。挑戦者を募っているということは、賞金が出るのだろう。

 好奇心と、計算が、同時に動いた。

 通りの奥の歓声を背に、サイラスはもう少しだけ街を歩くことにした。今夜は宿を探す方が先だ。闘技場のことは、明日考えればいい。

 裏通りに入ると、人通りが減り、静かになった。蒸気灯の間隔が広くなり、建物の影が濃い。安宿の看板が見えた。一泊1.5ギルス。建設拠点町の倍近いが、都市部の物価だろう。

 宿の部屋は狭かったが、寝台とテーブルと洗面台がある。飯場の二段寝台に比べれば上等だ。バックパックを床に置き、寝台に腰を下ろした。

 窓の外を見た。

 空を見上げる。

 ヴァルデンの夜空は、ネオンの光と蒸気の排煙で白く濁っていた。星はほとんど見えない。シスの姿も見えなかった。建設拠点町の飯場からは星が見えた。列車の車窓からは、谷間の高い空にシスの影が泳いでいた。だがここでは、空そのものが街の光に塗り潰されている。

 見えなくても、シスはどこかを泳いでいる。それは分かっていた。千年の相棒は、空の見え方に関係なく、常にそこにいる。

 バックパックのサイドポケットに手を入れた。ヴィルスの圧力計が、指先に重みを伝えてくる。真鍮の表面が、宿の薄暗い光を鈍く反射した。

(ねえ、レナ)

 心の中で、亡き人の名を呼んだ。

(鉄道というものに、初めて乗った)

 窓の外の濁った夜空を見ながら、サイラスは今日一日を振り返る。レナへの報告。旅が一区切り着いたところで、いつもそうしてきたように。

(レールの上を走る振動は、蒸気馬車とも船とも違った。カタン、カタンと一定のリズムで刻まれる音が心地よくて、千年生きていても初めての感覚があるんだと思い知らされたよ。ゴードンの複葉機に乗った時もそうだったけど、乗り物というのは、乗ってみなければ分からないものだね)

(その列車を襲った人たちがいた。ダグラス・ハーヴェイという男がいた。この沿線で三十年、麦を作ってきた農民だ。鉄道の敷設で土地を収用されて、補償は半年分の食い扶持にもならなかった。代わりの土地は岩だらけの荒地で、麦が育たない。家族がいる。子供が三人。一番下が六歳だと言っていた。彼は叫んだんだ——「誰も殺したくない」と。あの言葉に嘘はなかった)

(ドレン村のヴィルスは法の内側で戦い続けた人だ。陳情書を書き、制度の中で粘った。ダグラスは法の外側に出た人だ。銃を取った。どちらが正しかったかは、僕には言えない。でも、どちらも追い詰められていたということだけは同じだった。同じ国の中で、片方は蒸気が届かなくて干上がり、片方は蒸気のために踏み潰された。進歩に取り残された場所と、進歩に踏み潰された場所。形が違うだけで、痛みの根は繋がっている)

(フィオという猟師の女がいた。僕が撃たれて、それでも動いているのを見た。「便利な体質ね」と言って、それ以上は聞かなかった。でも忘れない目をしていた。千年の旅の中で、あの種類の目を何度か見てきた。秘密に触れた人間の、静かで、冷たくはないが温かくもない目。大抵は、それきり会わなくなる)

(この国は面白い。機械と蒸気で世界を変えようとしている。その勢いは本物で、鉄道が走るたびに人の暮らしは確かに変わっていく。建設拠点町の人夫たちの声には信仰があった。レールを一本延ばすたびに文明が進むという信仰だ。嘘ではないと思う。ただ、勢いの影で踏み潰されるものがあることを、この国の人間はまだあまり見ていない。見ていないのか、見ないようにしているのかは、僕には分からない)

(もう少しこの国にいることになりそうだ。路銀を稼がないと、次の海は渡れない)

(また報告するよ、レナ)

 サイラスは窓から目を離し、寝台に横になった。

 天井の板目を眺める。安宿の天井は、飯場の天井より少しだけ清潔だった。それだけのことが、二十ギルスの報酬がもたらした変化だ。

 バックパックのサイドポケットで、ヴィルスの圧力計がかすかに重みを伝えている。その隣に、ゴードンのレンチがある。旅の荷物は少しずつ増えていく。場所ごとに、人ごとに。ダグラスは何も手渡さなかった。だがあの鋤を握る癖の左手は、サイラスの記憶に残っている。いずれそれも、シスに渡す日が来るのだろう。

 目を閉じた。

 だが眠気は来なかった。

 通りの向こうから、闘技場の歓声がまだ聞こえている。金属の打ち合う音。蒸気の噴出音。人の熱狂。壁越しに届くそれらの音が、寝台の上のサイラスの耳に、小さく、しかし確かに響いていた。

 サイラスは目を開け、起き上がった。

 バックパックのサイドポケットで、ヴィルスの圧力計がかすかに揺れる。

 宿の扉を開け、裏通りに出た。夜の空気が頬に触れる。蒸気と排煙と人の体温が混じった、ヴァルデンの空気。見上げても、シスは見えない。だがどこかを泳いでいる。

 サイラスは通りの奥の歓声の方へ、歩き出した。



<第6章 完>

この作品の執筆にはAIを使用しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ