枯れた蒸気と、地下の盗み口と、暁の爆煙
# 空にクジラが泳ぐ世界で
### ――前書き・登場人物紹介――
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## ◆ この物語について
魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。
蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。
そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。
名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。
正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。
魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。
ただ、死なないだけ。
腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。
それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。
なぜ旅をするのか。
それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。
「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。
これは、終わりの見えない旅の記録。
空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。
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## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ
舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。
千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。
けれど人間はしぶとかった。
魔法が使えないなら、機械を作ればいい。
試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。
エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。
旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。
高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。
その狭間で、人々は今日も必死に生きている。
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## ◆ 登場人物
### サイラス・ハリソン(サイ)
**「千年生きた、失敗作の旅人」**
> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。
> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋
千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。
製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。
ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。
好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。
彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。
感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。
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### SiS-001「シス」
**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**
> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。
> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体
ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。
人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。
シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。
その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。
サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。
シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。
温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。
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### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】
**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**
> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。
> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者
もうこの世界にいない。千年前に死んだ。
それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。
サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。
天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。
サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。
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## ◆ 作品のキーワード
`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`
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*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*
*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*
【枯れた道と、寡黙な人夫と、細い煙】
路銀が尽きた。
正確には、次の停泊所までは持つ。だが、その次に行けるほどのGSNはない。ラヴェン・ジャンクションで乗り換えた蒸気船は快適だったが、快適さというのは往々にして予算を超えて続いてしまうものだ。船室の揺れが眠りを誘い、食堂の汁物が体を温め、川面の景色がサイラスを長居させた。気づいた時には、財布の中身が予定の港町までの運賃に足りなくなっていた。
サイラス・ハリソンは、船員に事情を告げた。船員は困り顔をしたが、乗客を川の上に置き去りにするわけにもいかない。予定外になるが、次の停泊地で降ろすという話になった。
それが、この場所だ。
停泊所と呼ぶには、あまりにも簡素な桟橋だ。板張りの桟橋が三十メートルほど川に突き出しており、その付け根に小さな番屋と、積み荷を一時保管するための錆びた鉄製の小屋が建っているだけだ。番屋の窓からのぞく明かりは頼りなく、鉄製の小屋の屋根は一部が浮き上がり、強い風が来るたびにパコパコと鳴っていた。
桟橋に降ろされたのは、サイラスと、三つの木箱だけだった。
乗り込む客はなく、積み込む荷物もない。船員が手早くロープを解き、出航の笛が鳴った。船体が水を押しのけて動き始めると、それだけで桟橋の板がわずかに揺れる。サイラスはバックパックを肩にかけ直し、離れていく船の後ろ姿を眺めた。
船は振り返らない。川の曲がりに差し掛かるとすぐに、白い煙突だけが見え隠れするようになり、やがてそれも葦の向こうに消えた。快適な揺れも、食堂の汁物も、川面の景色も、一緒に消えた。
(まあ、そういうものか)
残念とも思わない。乗り心地のいい旅には相応のコストがかかる、というだけの話だ。千年の旅の中で、贅沢な移動と野宿は等しく繰り返している。今更どちらに驚くわけでもない。
番屋の脇で、三人の人夫が三つの木箱を移送用のスチームトラックに積み込んでいた。トラックは古く、荷台の縁の塗装が剥げている。エンジンから出る蒸気の量も、本来あるべきそれより心なしか少なかった。
人夫たちは、サイラスには気づいていた。ただ声をかけてくるものはいない。よそ者が桟橋で降ろされるのは珍しくないのか、それとも声をかけるだけの余裕がないのか。どちらかは分からなかったが、彼らの動きにはピリピリとした空気があった。作業の合間に交わす言葉も少なく、どこか急いでいるような、それでいて急いでも無駄だと知っているような、諦めが混じった種類の緊張だ。
荷箱の一つを台車に乗せた若い人夫が、別の人夫に声を落として「またこれだけかよ」と言った。それだけだ。返事はなかった。
サイラスは番屋に近い方の人夫に声をかけた。五十代の、日焼けした顔の男だ。
「すみません。近くに村か街はありますか」
男は一度、サイラスを上から下まで見てから、短く顎をしゃくった。
「ある。北に一時間ほど歩いたところに村があるよ。道に沿って行けば迷わない」
「ありがとうございます」
「だが」と男は続けた。荷箱から手を離さず、こちらを見ながら。「行っても歓迎されないし、仕事もないぞ。旅人が求めるようなものは何もない」
忠告とも、事実の報告とも取れる口調だった。特に親切心から言ったわけではないだろう。しかし黙っていられなかった何かが、その一言を吐き出させた気がした。
「場所さえ分かれば十分です」とサイラスは言う。
男は「北だ」とだけ繰り返し、また荷箱に向かった。
サイラスは早々に停泊所を後にした。
桟橋を背に北へ向かう道は、最低限の舗装だけがされたあぜ道だ。踏み固められた土の上に砂利が薄く敷かれており、轍の跡が二本、くっきりと続いている。スチームトラックが通れる幅はあるが、余裕はない。
道の左側に沿って、スチームパイプが伸びていた。
このエーテルガルド連邦では、街道沿いにパイプを通すのは珍しくない。幹線から分岐した蒸気が、農村の炊事から工場の動力まで賄う仕組みだ。しかし、目の前のパイプは、連邦の絵図面に描かれているような整然としたそれとはだいぶ様子が違った。
継ぎ目のあちこちから、蒸気が漏れている。一か所や二か所ではない。五十メートル歩く間に、七か所は数えた。かつて補修した跡がある箇所もあった。古びた布を巻きつけ、ボルトで押さえた跡が、土に半ば埋もれたまま残っている。正式な修繕ではなく、現場の人間が応急処置したものだろう。しかしその応急処置すら、最後に行われたのはいつのことか、今となっては判別できない。
サイラスは歩きながら、パイプの表面に目を走らせた。
漏れ出している蒸気の量が、少ない。継ぎ目の隙間から白い細いすじが出る程度で、圧力が低い証拠だ。パイプの中を通っている蒸気の量自体が、設計値を大きく下回っているのだろう。管は細くなく、かつてはもっと太い流れが通っていたはずだ。継ぎ目の形状がそれを示している。
(絞られているな)
特に感情のない観察だった。制度上の問題か、施設の老朽化か、あるいは優先度の問題か。どれも可能性としてある。この国の蒸気配給は連邦政府が管理しており、地域ごとの配分は需要と政策判断によって決まる。需要の高い地域に優先的に配分されれば、末端の小集落への供給は自ずと後回しになる。
人夫は「歓迎されないし、仕事もない」と言っていた。
細いパイプの蒸気を見ながら、サイラスはその言葉の意味をゆっくりと形にしていく。歓迎されないのは、歓迎する余裕がないからだろう。仕事がないのは、動かす機械のための蒸気が足りないからかもしれない。村が困窮している、というだけでは足りないかもしれない。もう少し長い時間をかけて、少しずつ干上がってきた何かがあるということだ。
道の右手、少し遠くの丘の稜線に目を向けた。
濃い黒煙が、幾本も立ち上がっていた。煙突の群れだ。距離があるので詳細は見えないが、あの規模の排煙は相当の設備を擁していることを示している。煙の太さと量は、目の前のパイプと比べると、別の文明のように見えた。
同じ幹線から分岐しているはずだ。しかし片方には太い煙があり、片方には細い漏れがある。エーテルガルド連邦が誇る大気圧縮蒸気技術の恩恵は、等しくは届いていない。千年を生きてきた者として、それは驚くようなことではない。どの時代も、どの国も、豊かさの配分は均等ではなかった。魔法文明の時代ですら、詠唱のできる者とできない者の間には、越えられない差があった。
形が変わって、繰り返されているだけだ。
サイラスはそこで考えるのをやめ、前を向いた。急ぐ旅でもない。徒歩の移動は久しぶりで、足裏に土の感触が伝わるのが、悪くなかった。道の脇に生えている草が、乾いた風に揺れている。空は高く、雲がいくつか流れていたが、雨の気配はない。
歩くにはいい天気だ。
三十分ほど歩いた頃、道の先に集落の輪郭が見えてきた。
板壁の家が低く連なり、細い煙が一本だけ空に上がっている。蒸気の白ではなく、薪を燃やした煙の灰色だ。遠目にも、そこが静かな場所だということが分かる。騒音がない。機械の音がしない。蒸気が噴き出す音もない。聞こえてくるのは、風と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。
それがドレン村だった。
村の入り口に、木の杭が二本立っており、横板に村の名前が書いてある。塗料は剥げかけており、文字を読むには少し近づかなければならなかった。
村に入ると、視線を感じる。
家の陰から、あるいは開いた扉の向こうから、人の目がこちらを追っている。驚きでも警戒でもなく、消耗した目だ。よそ者の訪問が珍しい場所の、珍しいものを見る時の目とも違う。ただ、流れてきた何かを確認するだけの、感情を使い果たした後の目の動き。
路地で遊んでいる子供が二人いた。薄着だ。気温は少し低いが昼間ということもあり、体を動かしている分には問題ない気温だが、動きが緩慢だった。笑い声がない。一人が石を拾って地面に絵を描き、もう一人がそれをじっと見ている。それだけだ。
パイプが村の中にも通っていた。家々の外壁に沿って細い管が走っており、炊事用の口金が数か所についている。しかし管の表面は冷えており、今は蒸気が通っていないことが分かった。
(配給時間外、か)
サイラスは歩きながら、管の取り回しを確認した。設置自体は連邦規格のもので、かつては整備されていたことが分かる。ただ、補修の跡が多い。ボルトの締め直しがあちこちに見え、一か所は管自体を別の径のものに替えたらしく、継ぎ目に段差が生じていた。
唯一の食堂兼宿の主らしい老人が、扉のそばでサイラスを見ている。
「一泊いくらですか」とサイラスが問うと、老人は黙ってドアを開けた。値段を聞くと、信じられないほど安い数字を言ってくる。船代のなくなったサイラスにすら払えてしまえるぐらい安い。
「それでいいんですか」とサイラスが聞くと、老人は「泊まる人が来ること自体、珍しいから」と静かに言う。
それ以上の説明はなかった。サイラスは礼を言い、中に入る。
食堂の中は、昼間なのにどこか暗い。窓は小さく、スチームランプは一つだけ点いており、テーブルが三つ並んでいた。客はいない。壁の棚に食器が整然と並んでいるのは、長年の習慣だろう。ただ、棚板の奥の方はがらんとしていた。
サイラスは荷物を部屋に置き、窓から外を眺めた。
路地の向こうに、煙突がある。煙は出ていない。バレストルで見た工場の排気塔や、フォストリアの運河沿いのそれとは、造りも大きさも違う。公共の浴場か、集会所か。どちらにせよ、今は動いていない。
空は青く、高かった。
丘の向こうの新市街からは、今もあの太い黒煙が上がっているはずだ。しかし村の中からでは見えない。見えるのは、細い薪の煙一本と、静かな板壁と、動きの緩慢な子供たちというドレン村の午後だけだった。
この村に、何があるのかは、まだ分からない。
ただ、人夫の言葉と、路上のパイプと、子供の薄着と、老人の「珍しいから」という一言が、サイラスの中でゆっくりと形を作り始めていた。
【三時間の蒸気と、二年間の書類と、夜の横穴】
夕食は、パンと根菜の汁物だった。
器は温かく、汁物から湯気が上がっている。それだけのことが、ありがたかった。パンは少し固く、根菜は煮崩れる手前まで柔らかくなっていたが、量が少ない。宿の女将——老人の妻で、七十近い小柄な女性だ——は謝らなかった。謝る気力ではなく、謝るという発想自体が、もうこの食卓には存在していないように見える。
「配給は、一日に何時間ですか」
サイラスが問うと、老人は汁物をひと口飲んでから答えた。
「三時間だ。朝に一時間、夕方に二時間。その間だけ、かまどが使える」
「以前は」
「もっとあった。昔は一日通して使えたよ」
老人はそれ以上説明しなかった。代わりに、汁物の中の根菜を静かに崩す。女将も何も言わない。この話題を何度も繰り返してきた人間の、繰り返しを諦めた沈黙というものが、この食卓にはあった。
三時間。
朝の一時間で炊事を済ませ、夕方の二時間で夕食を作り、暖を取る。残りの二十一時間は、薪で補うしかない。薪の調達コストがかさめば食事が減り、食事が減れば体が弱り、体が弱れば病気になりやすくなる。特に、子供と老人が。それが積み重なってきた、ということだろう。
「最近、子供が体を壊すことが増えましたか」
老人が顔を上げた。少し驚いた目をしている。旅人がそういうことを聞くとは思っていなかったのかもしれない。
「……ここ一年で、三人が肺炎で寝込んだ。一人は、冬を越せなかった」
女将が立ち上がり、台所の方へ消えていった。片付けのためではない気がする。
老人は続け「区長のヴィルスが、連邦の蒸気管理局に何度も書類を送った。二年の間、何度も。返ってくる返事はいつも同じだ。『検討中』。それだけだよ」
「新市街への増設工事と同じ頃から、配給量が変わったんですか」
老人の目に、驚きがよぎる。「なんで知ってる」
「道のパイプを見ました。管の径に対して、圧力が低すぎる。設計当時よりも流量を絞られているはずで、そして丘の向こうには、最近増設した施設がある」
老人はしばらく、サイラスを見ていた。それから「三年前から変わった」と言い、汁物の残りを飲み干す。「工事が終わった次の週から、うちへの配給が半分以下になった。政府は説明をしてくれなかった。ヴィルスが問い合わせたら、『幹線の圧力調整の結果』という書面一枚が返ってきただけだ」
「共同浴場は」とサイラスは聞いた。窓から見えていた、煙の出ていない煙突のことだ。
「一年半前に閉めた。蒸気が足りなくて、動かせなくなったんだよ」老人は言い、「腰の曲がった婆さんたちが、風呂にも入れなくなった。それでも管理局は『検討中』のままだ」と続ける。言い方に怒りはない。怒りが形を変えて、乾いた事実になったような声だった。
夜は静かだった。
宿の窓から外を見ると、村の明かりは少ない。薪の燃料を節約しているのか、窓から漏れる光がほとんどなかった。蒸気灯も、この時間は当然ながら動いていない。月が出ており、板壁の家々と路地の輪郭だけが白っぽく浮かび上がっている。
サイラスはしばらく窓辺に座っていた。
シスの異空間を訪れてから、ある程度の時間が経っている。シスに感情を預けた後の空虚な静けさは薄れ、新しい記憶と感情が少しずつ積み重なってきていた。今夜の老人の話は、ちゃんと重みとして届いている。「冬を越せなかった」という言葉が、頭の中でまだ繰り返されていた。
(一人だ)
事実として思う。肺炎で、冬を越せなかった子が一人いる。配給が絞られてから起きたことだ。感傷ではなく、ただ重さとして、そこにある。
外で、物音がした。
かすかな足音。一人分ではなく、複数の人間が足音を殺して歩いている。石畳の上ではなく、土の上を歩く音だ。方向は村の外れ——来た道の方角と、少し違う。
サイラスは窓から離れ、静かに外套を羽織る。宿の扉を、音を立てずに開けた。
月明かりの下、三人の人影が村の北端の土手に向かって歩いていた。
それぞれが荷物を持っている。工具の入った袋と、短い鉄管のようなものだ。足音を殺してはいるが、迷っている歩き方ではない。目的地を知っている人間の、慣れた足取りだった。
サイラスは距離を取り、後をつけた。
土手の手前で道が途切れ、踏み慣れた草の跡が斜面に続いていた。三人はその跡に沿って土手の下へ降り、斜面の一点で立ち止まる。
横穴があった。
人間が一人潜れる程度の大きさだ。土を掘り込んで、内側に板を当ててある。掘りたてではなく、数週間は経っているような、馴染んだ掘り跡だった。
三人のうちの一人が、穴の前にしゃがみ込んで道具を取り出し始めた。
月明かりが、その人物の横顔に当たる。
四十代半ばの女性だった。短く刈り込んだ黒髪に、作業着。肩幅がある。道具の扱い方が、慣れた技術者のそれだ。工具を選ぶ手の動き、ボルトを確認する角度、照明を当てる位置——どれも無駄がなく、体に染み付いた動作だった。
穴の奥に何があるかは、すぐに分かる。
埋設された太い鉄管だ。あぜ道に沿って伸びていたパイプとは比べ物にならない径で、村への配給分岐管ではなく、新市街へ向かう幹線パイプの一部だった。そこに、細い管が溶接で接続されている。違法の分岐管——盗み口だ。
本管から絞り込んで少量の蒸気だけを抜き取る仕組みで、溶接の跡は荒いが、圧力管理の弁は丁寧な設計になっていた。技術者の仕事だ。
サイラスが一歩、草の上で動いた。
女性が振り返る。目が合った。
「誰だ」
低い、警戒した声だが、怒鳴り声ではない。周囲への気遣いが、声量を抑えさせている。
「ただの旅人だよ」とサイラスは言った。「宿に泊まっている。音を聞いたので出てきました」
女性の後ろにいた二人の男が、ちらりとサイラスを見る。一人は三十代、もう一人はまだ二十代前半だ。どちらも村人の顔をしていた。観光客でも行商人でもなく、この土地で働いて生きてきた顔だ。
「役人か」と女性が言う。
「違います」
「密告者か」
「それも違います。見ていただけです」
女性はしばらくサイラスを見ていた。光の少ない中で、相手を読もうとしている目だ。やがて「見たなら、見たままにしろ」と言い、また穴の方を向く。
サイラスは近づかなかった。距離を保ったまま、盗み口の構造を改めて観察した。
接続部の溶接が、荒い。溶け込みが浅い箇所が一か所ある。圧力が低い通常運用なら問題ないが、幹線の圧力が上がった時には弱点になりうる。弁の設計は悪くないが、弁本体が中古品で、経年劣化がある。
「三週間ほど使っていますね」とサイラスは言った。「週に数回、深夜に。閉鎖した浴場を動かすためだ」
女性の手が止まった。
今度は振り返らなかった。穴の前に膝をついたまま、横を向く。
「……なんで分かる」
「溶接の馴染み方と、弁の使用頻度から。それと、昨日見た浴場の煙突の内側に、まだ若い煤の跡があった。長期間停止している施設のそれじゃない」
女性は少しの間、黙っていた。それから「名は」と聞く。
「サイラス・ハリソン。旅人です」
「マルタ・ヴォルスだ」と女性は言った。「連邦の蒸気設備管理会社に勤めていた。配給削減の後に解雇されて、村に戻ってきた」
「技術者だから、これが作れた」
「技術者だから、これが危ないことも分かっている」マルタは短く言い、また工具を動かし始める。「分かっていてやっている」
サイラスは溶接の弱点を見ていた。
「接続部に荒い箇所がある。幹線の圧が上がれば、そこから破断する」
「知っている」
「知っていて」
「子供が三人、肺炎で寝込んだ」とマルタは言った。声が、少しだけ変わっていた。技術者として事実を述べる声ではなく、別の場所から出てきた種類の声だ。「風呂に入れてやりたい。体を温めてやる必要があるんだ。区長が二年間書類を送り続けたが、連邦は何もしてくれない。だから、こうしたのよ」
それ以上の説明はない。
サイラスも何も言わなかった。
月が雲の端にかかり、土手の下が少し暗くなる。マルタの手が、慣れた動きで弁を調整していた。蒸気が細く通り始め、繋がれた管の先の方へ流れていく。
「一晩に何時間動かしているんですか」とサイラスは聞いた。
「二時間から三時間。朝になる前に閉じる」
「浴場に届くまで、どのくらいかかりますか」
「十五分ほど」
配給時間外の、深夜の浴場。老人や病人が、そこで体を洗っているのだろう。動いていると知っている村人がどれほどいるかは分からないが、少なくともマルタとこの二人の男は知っている。そして他にも、知っている者がいるはずだった。
二十代の男が、サイラスをじっと見ていた。不安と疑いと、それ以外の何かが混じった目をしている。
サイラスは彼を見てから、また溶接の箇所に目を戻した。
(荒い。だが、三週間持ちこたえた)
持ちこたえたことには、マルタの技術があった。弁の設計が、限界を引き延ばしている。それだけは事実だ。
「幹線に余剰圧力が生じる条件は把握していますか」とサイラスは聞いた。
マルタが、少し間を置く。「新市街の施設が深夜稼働をした時だ。普段は夜間に圧力が落ちる。だがイベント施設の特別稼働があると、深夜でも上がることがある」
「今夜のスケジュールは確認済みで?」
「していない」
「……確認できる手段がないのですか」
マルタは答えなかった。それが答えだった。
サイラスは土手の草の上に腰を下ろし、空を見上げた。月が雲から出てきている。村の方角に、細い薪の煙が一本、夜空に溶けるように上がっていく。浴場では、今も誰かが湯に浸かっているのかもしれない。
(なんとも言えない話だ)
感情がちゃんと動いている。怒りでも同情でもなく、もっと複雑な何かだ。間違いは間違いだ。しかし、間違いに至る道筋を否定できる言葉が、サイラスの中にはなかった。
二時間ほどの後、マルタが弁を閉じた。細い管を流れていた蒸気が止まり、土手の下が静かになる。
「今夜は終わりだ」とマルタが言い、道具を袋にしまい始めた。「毎晩やるわけじゃない。二日おきくらい」
三人が土手の斜面を上がり始める。
サイラスも立ち上がった。
「溶接の補修は?」と聞いた。
マルタが振り返る。
「道具と材料があれば」
「明日、補修する方法を考えよう。弱点を一か所でも塞げれば、余裕が増える」
マルタはしばらくサイラスを見ていた。
「……なんであなたが、そんなことを」
「ちょうどここにいるから」
それ以上の説明をするつもりはなかった。マルタは何かを言いかけ、やめる。それから「明日の昼に、ここに来てもらえる」と言った。
「わかりました」
三人は村の方へ戻っていった。
サイラスは土手の下に残り、もう一度、横穴の中の接続部を確認する。月明かりでは詳細は見えない。明日、昼間に確認する必要がある。
問題の箇所は分かっていた。弁の経年劣化と、溶接の浸透不足だ。どちらも、材料と道具があれば対処できる。完璧な補修にはならないが、余裕を作ることはできる。
(余裕、か)
三時間の配給。二年間の書類。一人、冬を越せなかった子。
余裕を作って、それで何が変わるか。幹線パイプの配分が変わるわけではなく、連邦政府の検討が進むわけでもない。ただ、破断のリスクが少し下がるだけだ。
それだけのことだが、それだけのことを、意味がないとは言い切れなかった。
サイラスは土手を上がり、宿への道を戻る。村の夜は相変わらず静かだ。月明かりだけがある路地を歩きながら、板壁の向こうで誰かが寝息を立てているのが、かすかに聞こえた気がした。
【上がる圧力と、崩れる土手と、夜空のクジラ】
翌日の昼間、サイラスとマルタは土手の下で補修作業をした。
材料は廃材置き場にあった古い溶接棒と、マルタが工房から持ってきた接合パテだ。完全な修理とは言えない。しかし問題の箇所——溶け込みの浅い継ぎ目——にパテを充填し、補強板を添えてボルトで固定することはできた。作業の間、マルタは口数が少なかった。サイラスが工具を求めれば渡し、位置の確認を求めれば答える。それだけだ。昨夜の言葉の続きは、どちらも出さなかった。
二時間ほどの作業が終わり、サイラスは接続部を指で押さえ、継ぎ目の感触を確かめた。
「これで少しは持つ」
「ありがとう」とマルタは言い、工具を袋に戻していく。礼の言葉に重さがあった。軽く流すための「ありがとう」ではなく、他に言葉がないから選んだ種類の礼だ。
「補修材の予備はあるか」とサイラスは聞いた。
「少しある」
「幹線側の圧力が予測より上がりそうな夜は、使うのを控えた方がいい。今回直したのは一か所だが、他にも薄い箇所がある。一か所が持っても、別の場所から逝く可能性がある」
マルタは返事をしなかった。否定もしない。知っている、という沈黙だ。
その夜も、三人は土手に向かった。
サイラスは宿から見送ろうとして、それから気が変わった。静かに外套を手に取り、後を追う。補修の出来を確かめたかった、という理由もあったが、それだけでもない。昨夜の「確認できる手段がない」という言葉が、まだどこかに引っかかっていた。
土手の斜面を降りたマルタが、横穴の前にしゃがんで接続部に触れる。補修箇所に手のひらをあてがい、感触を確かめるように少しの間止まった。
「問題ない」とマルタが言い、道具を取り出し始めた。
サイラスは草の上に腰を下ろし、空を見上げた。月は昨夜より高く、薄い雲が風に流されている。新市街の方角には、今夜も黒い煙突群のシルエットが暗空に溶け込んでいた。灯りがある。夜でも明かりが消えていない。
(なにかやっているな)
特に意識していたわけではない。ただ、昨夜より明るいという印象があった。
弁が開く音がして、蒸気が管に入り始めた。細い流れが管壁を伝わり、浴場の方向へ向かっていく。マルタが圧力計を確認し、弁をわずかに絞る。いつもの手順だ。
異変は、十分ほど経ってからだった。
管のどこかから、かすかな高音が聞こえ始めた。
金属が圧力を受けて振動する時の、倍音を含んだ薄い音だ。通常運用では出ない。サイラスは草の上から立ち上がり、耳を澄ました。
マルタも気づいていた。手の動きが止まり、管の表面に触れて圧を読んでいる。
「上がっている」
声が固い。
「どのくらい」とサイラスは聞いた。
「……想定の一・五倍は超えてる。まだ上がってる」
二十代の男が不安そうにマルタを見る。三十代の男も、管から少し距離を取った。
「閉じた方がいい」とサイラスは言った。
マルタは弁に手をかけた。その時、新市街の方角から低い振動が届いてきた。地面ではなく、空気を伝わる振動だ。遠くで大型の蒸気設備が一斉に起動した時の、腹に来る種類の低周波だった。
(特別稼働だ)
判断と同時に、管の高音が一段階上がった。
「早く——」
サイラスが言い切る前に轟音が夜を割る。
接続部ではない。
昨日補修した箇所は持ちこたえている。だがマルタが「他にも薄い箇所がある」と言っていた、その別の場所が先に逝った。補修されていない、下流側の継ぎ目だ。
白い蒸気柱が地面から垂直に噴き上がる。高圧の蒸気が霧状に広がり、一瞬で視界が白くなる。続いて横穴の入り口付近の土手斜面が崩れ始め、板で補強されていた穴の縁が内側に落ちた。
熱風が吹き荒れる。
サイラスは腕で顔を庇いながら後退する。肌が焼ける。外套の袖が焦げ始めた。
怒鳴り声。三十代の男が「カルが中にいる」と叫んでいた。
穴の中に、二十代の男が残っていた。補修作業の確認のために入っていたのか、崩落した土と廃材の下に挟まれているのが、蒸気の霧の切れ間に見えた。
「動くな、声を出し続けろ」
サイラスは言いながら、蒸気の中に踏み込む。
高温の蒸気が腕にまとわりついてくる。外套の袖が燃え、肌が赤くなり、すぐに白く変わる。痛みはある。感情が戻ってきている今のサイラスには、ちゃんと届く種類の痛みだ。しかし足は止まらない。体の回復が、傷の進行を少しだけ追いかけながら続く。呪毒がない今、再生の速度は本来のものに近い。完全ではないが、動き続けられる程度には間に合っていた。
崩落した廃材の端を掴み、横へ引く。重い。蒸気圧で押し出されながらも、廃材は少しずつ動く。土が崩れ、また新しい廃材が滑り落ちてくる。それも除ける。
男の声がした。近い。
「手を伸ばせ」
暗い中で腕が触れ、サイラスは引っ張った。男が土の中から半身を現す。足が一本、木材に挟まれていた。木材を持ち上げ、足を引き抜く。男が「痛い」と叫んだ。意識がある。
「立てるか」
「……立てる、たぶん」
サイラスは男の腕を肩に回し、蒸気の外へ引きずり出した。熱い空気の層を抜けると、土手の外の夜風が当たった。男を草の上に横たえると、三十代の男が駆け寄ってくる。
「カル、カル、聞こえるか」
「聞こえてる」と男は言い、咳き込んだ。
打撲と、軽度の熱傷がある。しかし命に別状はない。
マルタはどこだ、と振り返ったとき、白い霧の中に倒れているシルエットが見えた。
噴出した蒸気を正面から受けた位置にいた。弁を閉じようとしていた時に、破断が起きた。つまり、もっとも近い場所に立っていた人間だ。
サイラスは再び蒸気の中に入った。
マルタは意識があった。が、腕と顔に重篤な熱傷を負っていた。皮膚の色が変わっている。声を出そうとしているが、言葉が出てこない。衝撃で肺に空気が入っていない。
「息を吸え。ゆっくり」
サイラス自身の腕も、まだ再生の途中だった。黒く焦げた皮膚の端が剥がれ、その下に新しい層が現れようとしている。それを見たマルタの目には、混乱の色があった。
「後で説明する。今は息を吸え」
マルタは一度だけ頷き、浅い呼吸を始めた。
サイラスはマルタを抱え上げ、蒸気の霧の外へ運ぶ。
土手の上に出た時、誰かが空を見ていた。
爆発音を聞いて飛び出してきた村人だ。灯りを持った老婆と、子供の手を引いた女が土手の近くまで来ており、どちらも同じ方向を仰いでいた。
サイラスも空を見た。
夜の大気が、爆発の熱と蒸気によって撹拌されていた。白い霧が上昇気流に乗り、夜空へ向かって薄く広がっていく。その上——白煙の層の上の、まだ暗い空の中に——影があった。
大きい。
全長が五十メートルを超えるかもしれない。シロナガスクジラに似た流線型の輪郭が、蒸気の光を柔らかく反射しながら、ゆっくりと夜空を泳いでいた。発光しているわけではない。ただ、周囲の光を集める質感の表面が、夜の黒の中でその存在を浮かび上がらせている。
識別名SiS-001。
シスだ。
「空のクジラだ」
村人の中の老人が、声を落として言った。怒鳴り声でも驚き声でもない。確認するような、静かな声だ。
それだけで、騒音が途切れた。
子供の泣き声が止まり、村人が仰いだ。怒鳴り合っていた男が口をつぐむ。蒸気の噴き出す音だけが続いていたが、それも背景から消えた。誰もが同じものを見ていた。
老婆が口に手を当てた。泣いているのか、それとも祈っているのか、判別がつかない。
「うちのじいさんが言っとった」と古老の一人が、隣の男にぽつりと言う。「空にクジラが出る夜は、何かが変わる時だ、って」
もちろんシスにそんな能力はない。彼はただの観測者で、今見えている姿もただの幻影だ。空に浮かぶ雲と同様、ただの景色の一部でしかない。シスを見たときになにかが起こったというのなら、それは単に偶然的に重なっただけだ。
(些細な希望にもすがりたい状況、ってことか)
サイラスはシスを見上げる村人たちの反応から、この村の逼迫感を再認識した。
子供が母親の袖を引いている。「お母さん、くじら」
母親は返事をしなかった。ただ子供の肩を引き寄せ、空を見たまま動かない。
その時、村の入り口の方から光と音が来た。
装甲の蒸気馬車だ。二台。幹線パイプの破断センサーが作動したのだろう。側面に連邦蒸気管理局の紋章が入った取締官の車両が、村の外れの土手まで力強い大気圧縮エンジンの音を響かせながら向かってくる。
先頭の取締官が馬車を降り、現場を照明装置で照らした。四十代の、叩き上げの顔をした男だ。胸の階級章から、筆頭格の取締官だとわかる。
しかし男も、降りた瞬間、足を止めた。
空を見た。シスが、まだそこにいた。
数秒間、取締官は仰いでいた。
後ろから降りてきた若い取締官が兜を手で少し持ち上げ、同じように空を見上げる。着任してまだ日の浅そうな顔だ。制服の折り目が新しい。その目には、任務の緊張とはまったく別の、子供に近い表情が浮かんでいた。
十秒ほどの沈黙が、爆発の夜の中にあった。
それからシスは夜の大気に溶けるように、視界の端へと泳いでいった。尾鰭のようなものが一度だけ夜空を打ち、霧の層の向こうに消える。
喧騒が戻ってきた。
筆頭の取締官が「現行犯確認、全員その場から動くな」と怒鳴り、若い取締官が我に返ったように通信機を取り出した。村人が騒ぎ始め、子供がまた泣き始める。
しかし、あの十秒間だけは——爆発の蒸気と、崩れた土手と、負傷者のいる夜の中で——そこにいた全員が同じものを、同じ時間に、見上げていた。
筆頭の取締官がサイラスの前に立った。
ゼイン・ハルトという名で、後でそう知ることになる。今この瞬間は、名前より先に目つきが分かった。状況を素早く整理する目だ。負傷者の数、噴出する蒸気、崩れた土手、違法の分岐管の残骸——それらを数秒で見渡してから、サイラスに照明を向けた。
そこで止まった。
サイラスの腕だ。
黒く焦げた皮膚の外縁が、肉眼でも分かる速度でわずかに収縮し、新しい層が内側から現れつつある。完全には再生していない。しかし、取締官が今見ているのは「今まさに傷が塞がっていく人間」だった。
ゼインは表情を変えなかった。ただ、照明の角度を少し上げ、サイラスの顔を確認した。
「何者だ」
「旅人だ」とサイラスは言った。「この村に昨日から泊まっていた。爆発があったので、閉じ込められた人間を助けに行った」
「その腕は」
「体質なんだ」
ゼインは一瞬だけ沈黙し、それから視線を動かした。マルタの方へ、次に崩れた土手へ、そして担架なしで横たわっているカルへ。
「現行犯だ。全員の身柄を確保する」と、ゼインは言った。
その声に怒りはない。義務として言う声だった。
マルタが、横になったまま口を開いた。熱傷の痛みで声が掠れている。「子供が肺炎で倒れていた。二年間、陳情書を送り続けた。何一つ変わらなかった。だから、こうした」
ゼインは答えなかった。
若い取締官——エメル・カース、後でそう知る——が医療キットを持って歩み寄り、マルタの前にしゃがむ。熱傷の処置を始めようとする。筆頭に「待て」と咎められたが、「傷の処置が先です」と言って動かなかった。
ゼインは若い取締官を見た。それから、また崩れた土手を見る。噴き出す蒸気は少し弱まっているが、まだ止まっていない。破断した箇所を塞がなければ、蒸気は出続ける。
「……傷の処置が終わり次第、全員の供述を取る」
ゼインはそれだけ言い直し、自分は幹線パイプの破断箇所の確認に向かう。
村人はまだ土手の近くに集まっている。子供の手を握りながら立っている母親。古老が隣の男に何かを話している。老婆が、エメルのマルタへの処置をじっと見ていた。
誰も帰らない。
夜が深く、蒸気がまだ白く噴き出しており、取締官の照明が土手を照らしている。その光の中で、ドレン村の夜が続いていた。
【区長の松葉杖と、書き換えられた書類と、担架の上の言葉】
サイラスとゼインの間に、しばらく誰も入らなかった。
ゼインは破断箇所の確認を続けており、別の取締官二名が村人を土手から遠ざけようとしている。怒鳴り声と泣き声が交差し、エメルはマルタの熱傷に黙々と包帯を当てていた。カルは三十代の男に支えられて座り込み、咳き込みながらも意識を保っている。
サイラスは取締官と村人の間の、どちらでもない場所に立っている。
加勢するつもりはない。しかし、この場所を離れるつもりもなかった。
村の方から、杖の音が聞こえてきた。
一定のリズムを刻む、松葉杖の音だ。土の地面に当たるたびに小さく響く。騒ぎを聞いて出てきた村人の流れに逆らうように、一人の老人が土手の方へ歩いてくる。六十代、背筋は伸びているが、左足を引きずっている。村人たちが道を開けた。顔見知りへの道の開け方だ。
老人は取締官の照明の輪の中に入り、立ち止まった。ゼインが顔を上げる。
「この件の責任者は私だ」
静かな声だった。怒鳴りもしない。震えもしない。長い時間をかけて言うべき言葉を決めてきた人間の、準備された声だ。
「村の村長、ヴィルス・グラフだ。マルタたちが動いたのは、私が許可したからだ。この村の代表として、緊急措置として認めた。彼女たちの責任ではない」
ゼインはヴィルスを見た。老人の足元の松葉杖を見た。それから「事実か」と聞いた。
「事実だ」
嘘だ、とサイラスは思う。マルタが動いたのはヴィルスの許可があったからではない。しかしヴィルスはそれを知っていて、今ここで嘘をついている。かばうための嘘だ。
ゼインも、おそらく分かっている。
「二年間の陳情書類は手元にあるか」とゼインが言った。問い詰める声ではなく、確認する声だ。
「全部保管してある。屋敷に戻れば、今すぐ出せる」
ゼインは少しの間、ヴィルスを見ていた。何かを測っているような沈黙だ。叩き上げの取締官が、目の前の状況を整理している時の、素早いが確かな沈黙。
「後で見せてもらう」
それだけ言い、ゼインはまた破断箇所に向かった。
エメルが通信機を手にしたのは、それから十分ほど後のことだ。
マルタへの応急処置が一段落し、カルの打撲の状態を確認してから、エメルは少し離れた場所に移動した。通信機のダイヤルを回し、管理局の夜間窓口につなぐ。
サイラスは離れた位置にいたが、風向きが良く、声が届いた。
「幹線パイプ第十七系統、ドレン村近郊にて破断事故が発生しました。現場を確認したところ、老朽化した接続部の圧力異常による破断と判断されます。周辺集落への緊急蒸気供給の必要性があり、補修業者の手配を要請します」
「違法盗み口による事故」とは言わなかった。「インフラ老朽化による圧力異常事故」として報告した。
事実の一部ではある。しかし、全部ではない。
エメルは通話を終え、ゼインの方を見た。ゼインはちょうどエメルの方を見ていた。二人の視線が交わり、一秒ほど止まる。
ゼインは何も言わなかった。
エメルも何も言わなかった。
それだけだ。
夜が深くなるにつれ、現場は少しずつ落ち着いていった。
蒸気の噴出が弱まり始めた。破断箇所の上流側でゼインが元栓に近い遮断弁を絞り込んだためで、完全には止まらないが、熱風の範囲が狭まった。取締官の一人がドレン村の境界に仮設の立入禁止区画を設け、村人を土手から離す。子供連れの母親たちが引き返し始め、古老たちも少しずつ散っていく。老婆だけが動かなかったが、村人の若い女に肩を支えられ、やがて帰っていった。
ヴィルスはその間ずっと、担架の隣に立っていた。
マルタは意識を保っていた。熱傷は重傷だが、エメルの処置が早かった。体は動かせないが、目は開いている。ヴィルスが何か言い、マルタが短く答える。何を話しているかは聞こえなかった。
サイラスは取締官の設けた区画の外側に腰を下ろし、補修業者が来るまでの時間を待った。特に何かすることがあるわけではない。ただ、その場を離れる理由もなかった。
カルが隣に座ってきた。包帯を足に巻いた二十代の男だ。
「さっき、俺を引っ張り出してくれた人ですよね」
「そうだ」
「腕、大丈夫ですか。かなり焼けてたと思うんですが」
サイラスは外套の袖をめくり、腕の状態を確認した。皮膚の再生はほぼ終わっている。新しい層が表面を覆ったところは、目を凝らさなければ分からないくらい馴染んでいる。元通りといってよいだろう。
「大丈夫だ」
カルは少しの間、その腕を見ていた。何か言いかけ、やめ、また見ていた。
「……体質ってやつですか」
「そういうことだ」
カルは「そうですか」と言い、それ以上は聞かなかった。賢い人間の聞き方だ。
「マルタさんは、いつもああなんです」とカルは続けた。「危ないと分かってても、やらなきゃいけないと思ったら止まらない。俺らが反対しても聞かなかった。でも、一人でやらせるわけにもいかなくて」
「三週間、付き合ったんだな」
「はい。……俺じゃ、技術が分からないから。せめて荷物持ちくらいはと思って」
サイラスは空を見た。シスはもういない。夜の大気が落ち着いてきており、蒸気の霧が薄れて星が少し見えてきている。
「一人じゃなかったのは、良かったと思う」とサイラスは言った。
カルは答えなかった。ただ、少し俯いた。
夜明け前に、補修業者の蒸気馬車が来た。
二名の技術者が工具と資材を降ろし、ゼインと短く話してから土手の破断箇所に向かう。プロの手際で、作業の段取りが決まるのが早い。一人が破断箇所の状態を確認し、もう一人が必要な部材を計算していく。
サイラスは少し離れて見ていた。
ゼインが近づいてきた。
「旅人」
「なんだ」
「お前の供述が要る。名前と、昨夜から今夜の経緯を話せ」
サイラスは話した。事実だけを、順番に。宿に泊まったこと、深夜に足音を聞いてついていったこと、盗み口の存在を知ったこと、補修を手伝ったこと、そして今夜の爆発と救助のこと。盗み口の運用に加担したかどうかという点については、「補修の材料を一緒に確認しただけで、弁の操作には関与していない」と答えた。
事実だ。
ゼインは手帳に書き留めながら聞いた。途中で止めることなく、最後まで聞いた。
「お前は何者だ。旅人というのは本当か」
「本当ですよ。船の路銀が尽きてここで降ろされました。そういう旅をしています」
「その腕は、さっき『体質』と言っていたが」
「そうです」
ゼインはしばらくサイラスを見た。信じているかどうか、表情からは分からない。しかし「体質」の一言を、それ以上深く追わなかった。
「お前を拘束する理由は今のところない」と、ゼインは言った。「ただし、業者の作業が終わるまではその場を動くな」
「分かりました」
夜明けが近い頃、マルタが担架の上でサイラスを呼んだ。
エメルに目で許可を求めると、エメルは「短くなら」と言った。サイラスは担架の横にしゃがむ。
マルタの顔は、熱傷の処置で半分が包帯に覆われている。包帯の外に出ている方の目が、サイラスを見た。
「なんであなたが助けに入ったんだ」
それが最初の言葉だった。
「ちょうどそこにいたから」
マルタは少し黙った。目尻が動いた。笑おうとしているのかもしれない。包帯の下がどうなっているかは見えないが、目の周りの筋肉が少し緩んだ。
「変な旅人だ」
「よく言われる」
「村を、頼む」とマルタは言った。「あなたには関係ない話だけど。ヴィルスじいさんを一人にしないでやってくれ。あの人、一人でなんでも抱えようとするから」
サイラスは答えなかった。すぐに返事をする種類の頼み事ではなかった。
「できる範囲で」と、少しの間を置いてから言った。
マルタはそれで十分だったらしく、もう何も言わなかった。目を閉じた。疲労と、痛みと、それでもどこかに残っている意志が、その顔にあった。
夜明けの光が東から差し始めた頃、補修業者が破断箇所の仮接合を終えた。
蒸気の噴出が止まる。静かになった。土手の斜面はまだ崩れたままだが、管の音は消えていた。
ゼインが技術者と話している。サイラスには聞こえないが、技術者が手帳に何かを書いて渡しているのが見えた。ゼインはそれを受け取り、エメルに渡す。エメルが内容を確認し、通信機を取り出した。今度は別の窓口につないでいる。
「インフラ老朽化事故に伴う、周辺集落への緊急配給増量申請」——エメルの声から、その言葉だけが聞こえてきた。
サイラスはゼインを見た。
ゼインはエメルの方を見ていない。技術者に補修の詳細を聞いていた。背中で、エメルの通話を聞いているのかどうかも分からない。ただ、止めなかった。
(止めない、という判断をした)
それは、一つの決断だ。
書類の表現を変えたエメルと、それを黙認したゼインと、二年分の陳情書類を持っているヴィルスと。三つが揃ったことで、今夜の事故が少し別の形に変わりつつある。どこまで変わるかは分からない。連邦の機構は大きく、一夜の出来事が制度を動かすほど単純ではない。しかし、「緊急対応実績あり」という記録が今夜ついた。それは昨日の朝にはなかったものだ。
朝の光の中で、ドレン村の板壁の家々が輪郭を取り戻していく。
煙突は、まだ静かだ。
【細い煙と、圧力計の重みと、不格好に続く世界】
夜明けの光が村の板壁を染め始めた頃、取締官の蒸気馬車はまだ土手の前に停まっていた。
補修業者の作業が完了したことをゼインが確認し、現場の記録を取り終えるまで、サイラスはその場を動かなかった。ゼインが手帳を閉じ、「行っていい」と短く言ったのは、空が白んで鳥の声が戻ってきた後のことだ。
サイラスは土手をもう一度だけ見た。崩れた斜面に、朝の光が当たっている。仮接合された破断箇所には補修業者が赤い印をつけており、後日の本格修理を待っていた。横穴の入り口は完全に塞がれ、板も廃材も、今や崩れた土の下にある。三週間、あそこに盗み口があったことは、記録の上では「インフラ老朽化による圧力異常事故の発生箇所」として残る。
正確ではない。しかし嘘でもない。
サイラスは宿に戻り、バックパックを肩にかけた。
共同浴場の前を通ったのは、宿から出てすぐのことだ。
煙突から、蒸気が上がっていた。
細い。太くはない。丘の向こうの新市街の煙突群から上がる黒煙とは、比べ物にならない細さだ。しかしそれは確かに上がっており、白く、朝の空気の中でゆっくりと広がっていく。
夜明け前、ゼインが元栓近くの遮断弁を緊急措置として開放したのだろう。補修記録に「周辺集落への緊急配給」の実績をつけるためには、実際に蒸気を流す必要がある。エメルの申請が通ったということだ。どこまでが計算で、どこからが成り行きだったかは、当人たちにしか分からない。
浴場の引き戸の前には、すでに人が並んでいた。
夜通し起きていたのだろう、目の下に疲労の色がある老人が二人。子供の手を引いた母親。腰の曲がった老婆を若い女が支えており、老婆は浴場の引き戸をただじっと見ていた。特に何かを言うわけでもなく、ただ見ている。一年半ぶりに動いた煙突を、自分の目で確かめているような目だ。
子供が「まだ?」と言った。母親が「もう少し」と答えた。
それだけのやり取りが、路地の朝の静けさの中に溶けていく。サイラスは立ち止まらず、その前を通り過ぎた。立ち止まって眺めるような場面ではない気がした。
宿の老人夫婦に礼を言い、宿代を払った。老人は受け取らなかった、「昨夜のことは聞いた」と言う。それ以上は何も言わなかった。女将が台所から顔を出し、サイラスを見て、また引っ込んだ。何か言おうとして、やめたのかもしれない。
村の出口に差し掛かったとき、後ろから足音が来た。
松葉杖の音だ。
ヴィルス・グラフが、村の出口まで追ってきていた。六十代の老人が松葉杖をつきながら早足で歩いてくる姿は、見ていて少し痛い。しかし表情は穏やかで、目に焦りはなかった。
「少し待ってくれ」とヴィルスは言い、サイラスの前に立った。息が少し上がっている。
老人は懐から二つのものを取り出した。一つは小さな革袋で、かすかに金属が当たる音がした。もう一つは、小ぶりの圧力計だ。真鍮製の古い型で、目盛りの文字盤は少し褪せているが、針はまっすぐ立っている。旅の荷物に入る大きさだ。
「お礼のつもりだが、大したものじゃない」とヴィルスは言った。「革袋の方は少しのGSNだ。受け取ってくれ。圧力計は村で使っていたものだが、旅の役に立つかもしれないと思った」
サイラスは両方を受け取った。圧力計の重みを手のひらで確かめ、それからサイドポケットにしまう。
「陳情書類は、続けてください」
「続けるよ」とヴィルスは言い、迷わなかった。「死ぬまでは、な」
言い切る声だった。諦めでも強がりでもなく、ただ事実として言う声だ。二年間、「検討中」の返事を受け取り続けた人間の、乾いた、しかし折れていない声だ。
「今回の記録がつきました」とサイラスは言った。「ゼロよりはましになったかもしれません」
「そうだな」とヴィルスは頷く。「ゼロよりはましだ」
それ以上の言葉は出なかった。ヴィルスが先に頭を下げ、サイラスも軽く頷いた。老人は松葉杖をついて村の方へ引き返していく。背中が、来た時より少しだけ軽く見えた。気のせいかもしれない。
サイラスはあぜ道を歩き出す。
来た道とは逆の方向、別の街道へ向かう分岐を選んだ。足裏に砂利と土の感触が戻ってくる。空は晴れており、朝の光が草の露を光らせていた。道の脇のスチームパイプが、今朝は昨日より少しだけ多く蒸気を漏らしている。圧力が上がった証拠だ。根本の配分が変わったわけではない。ただ、緊急措置の分が加わっている。
それがいつまで続くかは分からない。
丘の向こうの新市街の煙突群は、今朝も黒煙を上げている。太さと量は変わらない。こちらも何も変わっていない。分岐点の向こうとこちらで、世界は同じように続いている。
(そういうものだ)
と思い、しかし同時に、浴場の前に並んでいた老婆の顔が浮かんだ。一年半ぶりの煙突を、ただじっと見ていたあの目。
感傷的ではない。ただ、そこに確かにあった重みを、サイラスは手放さずに歩いていた。
村の輪郭が後方に小さくなってきた頃、サイラスは心の中で声をかけた。
(ねえ、レナ)
風が草を揺らし、乾いた土の匂いが届いてくる。
(今回はドレン村という場所にいた。百数十人が暮らす集落で、三年前に幹線の蒸気を絞られてから、少しずつ干上がってきていた。配給は一日三時間。共同浴場は一年半前から動いていない。子供が肺炎で倒れ、一人が冬を越せなかった)
(マルタという女がいた。連邦の技術者で、配給削減のあおりで仕事を失って村に戻ってきた人間だ。幹線パイプから蒸気を盗む装置を作り、三週間、深夜に浴場を動かしていた。危険なことは本人が一番よく知っていた。知っていてやった。子供の肺炎を見ていたから)
(区長のヴィルスは二年間、連邦に陳情書を送り続けた。返事はいつも「検討中」だった。法律の中で戦い続けた老人と、法律の外へ出ることを選んだ女。どちらが正しかったかは、僕には言えない。多分、どちらも正しかった。そしてどちらも正しかったのに、正しいやり方だけでは届かなかった、ということだ)
(面白いのはここからで、レナ。取締官のエメルという若い男が、報告書の表現を少し変えた。「違法盗み口による事故」じゃなく「インフラ老朽化による圧力異常」と書いた。事実の一部ではあった。でも全部じゃなかった。彼は公文書の中で、ほんの少し嘘をついた。誰かを助けるために。そして筆頭のゼインが、それを黙って見ていた)
(千年の間に、こういう場面を何度見てきたか分からない。制度と現実の間の隙間で、誰かが少しだけ判断を変える瞬間。それが積み重なって、世界は少しだけ変わる。あるいは変わらない。どちらになるかは、その先の話だ。今朝の時点では、まだ分からない)
(一つだけ変わったことがある。今朝、浴場の煙突から蒸気が上がっていた。細い、ほんとうに細い蒸気だ。丘の向こうの新市街の煙突とは、比べ物にならない。でも上がっていた。老婆が、その煙突をじっと見ていた)
(君なら何と言っただろうな)
(あと、シスを見た。爆発の夜に、白煙の上を泳いでいた。村人が全員、一斉に仰いだ。取締官も、村の古老も、子供も、誰も帰らなかった。あの十秒間だけ、全員が同じものを見ていた。シスにそれを意図する力はないし、そういう存在でもない。ただ、あの場所にいた人間たちが、同じ方向を向いた時間があった。それだけのことだが、それだけのことが、あの夜には必要だった気がしている)
(また報告するよ、レナ。君が愛した世界は、今日も不格好に、必死に、続いている)
道の先に、まだ見ぬ町の輪郭を思い描く。
サイラスはバックパックの肩紐を握り直した。サイドポケットの中で、圧力計がかすかに重みを伝えてくる。
風が一度吹き、あぜ道の草が波打った。
旅は続いていく。
〈第5章 完〉
この作品の執筆にはAIを使用しています。




